「飯田覚士」の版間の差分
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2008年8月6日 (水) 17:57時点における版
飯田 覚士(いいだ さとし、1969年8月11日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロボクサー(緑ジム所属)で、WBA世界ジュニアバンタム(スーパーフライ級)王者に輝いた。愛知県立大府東高等学校、岐阜経済大学経済学部卒。
大学在学中の1990年にバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「ボクシング予備校」に参加。甘いマスクで人気を博す。こうした経緯から人気先行ボクサーと目され、俳優の松村雄基を彷彿する顔立ちで「アイドルボクサー」の風評に悩まされるが、熱心な練習と科学的トレーニングにより世界王者にまで登りつめた。緑ジム関係者は当時の飯田について「パワー、スピード、テクニックに目を見張るものはなかったが、とにかく頭のいいボクサーだった」と語っている。
現役引退後は、子供向けボクシング教室を開設して底辺拡大に励みつつ、舞台で活躍する等、芸能活動にも勤しんでいる。日本テレビ系列のボクシング中継で、解説者として出演することもある。口調は淡々としているが、解説は的確で、ボクシングファンからは高い評価を得ている。また、ボクシング専門誌ボクシング・ワールドで毎月、内藤大助、ファイティング原田などの新旧有名ボクサーをはじめ、漫画家の森川ジョージ、俳優の速水もこみちなどのボクシングファンとも積極的に対談を行っている。
2006年11月、元世界王者の輪島功一、渡嘉敷勝男、玉熊幸人、戸高秀樹らとともに、元ボクサー・袴田巌が起こしたとされている袴田事件の再審を求める要請書を最高裁判所に提出。彼の無罪獲得・冤罪認定のため活動を続けている。
また、北潟谷綜の師匠としても知られている。
来歴
- 1988年、岐阜経済大学入学と同時にボクシング部入部。本格的にボクシングを始める。
- 1990年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「ボクシング予備校」に参加。
- 1991年、名古屋市緑区の緑ボクシングジムに入門し、3月にプロデビュー。
- 1992年2月16日、同じくボクシング予備校出身の松島二郎と全日本スーパーフライ級新人王を争い。6R判定で勝利。3月、大学卒業。
- 1994年3月13日、川島郭志が前年12月に返上した日本スーパーフライ級王座を松島と争い8RTKOで獲得。1度防衛後返上。
- 1996年4月29日、名古屋市総合体育館で行われたWBA世界ジュニアバンタム級(現スーパーフライ級)王者アリミ・ゴイティア(ベネズエラ)に世界初挑戦、5回TKOで敗れる。
- 1997年4月29日、愛知県体育館において2度目の世界挑戦。前年8月にゴイティアを降して、WBA世界スーパーフライ級王者に輝いたヨックタイ・シスオー(タイ)に挑むが、引き分けで惜しくも王座獲得はならず。
- 同年12月23日、再び愛知県体育館でヨックタイに挑戦。12回判定勝ち(3-0)を収め、WBA世界ジュニアバンタム級王座獲得。その後、井岡弘樹、フリオ・ガンボアを退け2度の防衛に成功。
- 1998年12月23日、ヘスス・ロハス(ベネズエラ、本来は協栄所属ピューマ渡久地が挑戦予定だった)と3度目の防衛戦を行い、5Rに突如右肩が脱臼するアクシデントに見舞われる。その後、ロハスの猛攻に晒されるも、ダウンだけは拒み続け、3-0の判定で敗れ、王座奪取からちょうど1年で王座を手放す。結局、この試合を最後に引退。
通算戦績は28戦25勝(11KO)2敗1分。
- 日本プロボクシング史上唯一、デビュー戦からラストファイトまで首尾一貫してスーパーフライ級で戦い、世界王座を獲得して指名試合をクリアした選手でもある。