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2007年10月9日 (火) 19:42時点における版
阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日 - 2007年10月7日)は東京都出身の元モーターサイクル・ロードレースレーサーである。レースでのエントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
来歴
東京都世田谷区出身。父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。1992年にヤマハ TZ250を駆り地方選手権であるスーパーカップイースタンシリーズに参戦しランキング2位を獲得。翌1993年からは特別昇格にて国際A級に昇格することになり、ホンダのマシンでレースへ参戦していたチーム・ブルーフォックスに加入し、サテライトチームながらワークスマシンNSR500で全日本ロードレース選手権、それも異例といえる最高峰クラス・500ccクラスにフル参戦することになった。鈴鹿サーキットでの開幕戦においていきなり2位を獲得し脚光を浴び、その後もルーキーながら勝利を挙げるなど活躍を続け、最高峰500ccクラス史上最年少の18歳で全日本チャンピオン、そしてこの年限りで500ccクラスが休止となることが発表されたため、全日本500cc最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GP(鈴鹿)にてミスター飲茶レーシングチームから出場。ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンらと苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなGPデビューを飾る。このパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの時の阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗り始めたエピソードが物語っている。
この1994年シーズン当初の阿部は全日本500ccクラスの休止により全日本のスーパーバイククラスへ参戦クラスの変更を余儀なくされており、500ccマシンでレースをするチャンスは前年に全日本500ccチャンピオンを獲得したことによるワイルドカード資格でのこの日本GPただ一戦のみであった。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はシュワンツ・ドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。
この時点で阿部はホンダ陣営の所属だったが、日本GPでの快走を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いによりシーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、ダリル・ビーティの負傷欠場の代役としてWGPに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、レイニーの強い希望によって実現したといえる。またヤマハ側としても日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーが(例え他メーカーの所属だとしても)欲しかったこと、さらにバブル崩壊の余波でブルーフォックスが運営難に陥っていたこと、全日本のスーパーバイククラスに阿部がスムーズに馴染めなかった事などから、500ccマシンでのレースを強く望んでいた阿部を引き止められる状況ではなかったことも要因として挙げられる。
1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。以後、モトGPへと移行した後も2004年までグランプリの世界最高峰クラスで戦い続けた(但し2003年はスポット参戦)。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移し、2007年には13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰、鈴鹿8時間耐久ロードレースへも初めて参戦を果たした。全日本第6戦を終えた時点で総合3位につけており、自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
2007年10月7日18時20分頃、神奈川県川崎市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーター型バイクで北上中、左側車線から突然Uターンしてきた4トントラック(現場付近のコンビニへのルート配送中。運転手は後に「道を間違えた」と供述)と衝突し、20時50分過ぎに搬送先の病院で死去。現場はUターン禁止場所だった。享年32。
戦歴
- 1988年 - 13歳でレースデビュー
- 1991年 - アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
- 1992年 - スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位
- 1993年 - 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
- 1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
- ロードレース世界選手権500ccデビュー
- 1995年 - WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1996年 - WGP500ccランキング7位(日本GP優勝)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1997年 - WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1998年 - WGP500ccランキング6位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1999年 - WGP500ccランキング6位(リオGP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2000年 - WGP500ccランキング8位(日本GP優勝)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2001年 - WGP500ccランキング7位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2002年 - MotoGPランキング6位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2003年 - MotoGPランキング16位(スポット参戦)
- 2004年 - MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
- 2005年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
- 2006年 - スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
- 2007年 - 全日本ロードレース選手権JSB1000/ワイズギア・レーシング
人物
レースでのスタートに秀で、WGP時代には予選10位台のスタートグリッドながら1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。独特の前輪に荷重させたライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。
全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。ヘルメットの下からはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。2003年頃からは短かめの髪になったが、これは本人の好みの変化によるもの。
関連項目
外部リンク
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