「畑中清詞」の版間の差分
(この試合は英語版をベースに書き換え。+ ソースの中でナチョがサラゴサとローマンの名前を間違えているために英語版に書けなかった忌々しい情報を追加。) |
(資料を読む上での注意を追加) |
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1987年2月23日、12戦目で日本王座初挑戦。日本スーパーフライ級王者丸尾忠に挑み、3回KO勝ち。王座獲得に成功。なお、丸尾とは前年7月にノンタイトルで対戦し、10回判定勝ちを収めたが、微妙な判定との指摘もあったため「敵地(東京・後楽園ホール)でKO勝ちすれば文句は言われまい」という決意で試合に臨んだ。見事KO勝ちを果たした後、試合の直前に死去した松田ジム先代会長の遺影を手にして、遺影に向かって一礼。リング上でのインタビュー後にはバック転も決めてみせた。日本王座は7月10日に初防衛を果たした後、8月に返上。 | 1987年2月23日、12戦目で日本王座初挑戦。日本スーパーフライ級王者丸尾忠に挑み、3回KO勝ち。王座獲得に成功。なお、丸尾とは前年7月にノンタイトルで対戦し、10回判定勝ちを収めたが、微妙な判定との指摘もあったため「敵地(東京・後楽園ホール)でKO勝ちすれば文句は言われまい」という決意で試合に臨んだ。見事KO勝ちを果たした後、試合の直前に死去した松田ジム先代会長の遺影を手にして、遺影に向かって一礼。リング上でのインタビュー後にはバック転も決めてみせた。日本王座は7月10日に初防衛を果たした後、8月に返上。 | ||
− | 1988年9月4日、無敗のまま16戦目で世界初挑戦。WBC世界[[スーパーフライ級]]王者ヒルベルト・ローマン([[メキシコ]])に挑む。満面の笑みで入場した畑中は<ref name="gloriousmoments">平田淳一「畑中清詞〜6度のダウン奪い名古屋初の王者へ〜」『THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 – 日本ボクシング史に輝く41人の男たち』 ボクシング・マガジン編集部編、ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK117 スポーツシリーズNo.72〉、2000年1月15日、12・78–79頁。ISBN 978-4-583-61076-4</ref>初回にダウンを奪われた後、ローブローを受けて5分の休憩を与えられ、ローマンは1ポイントを減点された<ref name="gloriousmoments" /><ref name="history">ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年 130、175-176頁</ref>。3回には再びローブローを受けて3分の休憩が与えられたが<ref name="gloriousmoments" /><ref name="history" />、畑中はこの休憩をフルに使わずに試合を再開させている。この挑戦は0-3の判定負けで失敗に終わり、畑中は緊張のあまりほとんど何も覚えていなかったと述べているが<ref name="gloriousmoments" />、ローマンのセコンドについたイグナシオ・ナチョ・ベリスタインはこの時、"Hit him with a hook to his balls" (奴のタマにフックをぶちこめ)と指示し、嫌がるローマンに、"Of course you will do it. If not, you’ll be left alone here because I will leave"(もちろんお前はやるさ。さもなくば置き去りにするぞ)と追い討ちをかけていたことを2011年9月に告白している<ref>[http://www.secondsout.com/news?ccs=1611&cs=2246364 A Conversation with Nacho Beristain: Part Three] SecondsOut.com、2011年9月25日</ref>。 | + | 1988年9月4日、無敗のまま16戦目で世界初挑戦。WBC世界[[スーパーフライ級]]王者ヒルベルト・ローマン([[メキシコ]])に挑む。満面の笑みで入場した畑中は<ref name="gloriousmoments">平田淳一「畑中清詞〜6度のダウン奪い名古屋初の王者へ〜」『THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 – 日本ボクシング史に輝く41人の男たち』 ボクシング・マガジン編集部編、ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK117 スポーツシリーズNo.72〉、2000年1月15日、12・78–79頁。ISBN 978-4-583-61076-4</ref>初回にダウンを奪われた後、ローブローを受けて5分の休憩を与えられ、ローマンは1ポイントを減点された<ref name="gloriousmoments" /><ref name="history">ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年 130、175-176頁</ref>。3回には再びローブローを受けて3分の休憩が与えられたが<ref name="gloriousmoments" /><ref name="history" />、畑中はこの休憩をフルに使わずに試合を再開させている。この挑戦は0-3の判定負けで失敗に終わり、畑中は緊張のあまりほとんど何も覚えていなかったと述べているが<ref name="gloriousmoments" />、ローマンのセコンドについたイグナシオ・ナチョ・ベリスタインはこの時、"Hit him with a hook to his balls" (奴のタマにフックをぶちこめ)と指示し、嫌がるローマンに、"Of course you will do it. If not, you’ll be left alone here because I will leave"(もちろんお前はやるさ。さもなくば置き去りにするぞ)と追い討ちをかけていたことを2011年9月に告白している<ref>[http://www.secondsout.com/news?ccs=1611&cs=2246364 A Conversation with Nacho Beristain: Part Three] SecondsOut.com、2011年9月25日<br />この資料の中でナチョはローマンとサラゴサの名前を間違えて記憶を語っているが、19歳の日本人でナチョの指導するボクサーと世界戦を行ったのは、この試合における畑中以外の何者でもない。</ref>。 |
1989年1月24日の再起戦では世界挑戦経験を有する李東春([[大韓民国|韓国]]=後の日本バンタム級王者グレート金山)と対戦し10回判定勝ち。その後、1990年12月まで1つのひきわけをはさみ5連勝。 | 1989年1月24日の再起戦では世界挑戦経験を有する李東春([[大韓民国|韓国]]=後の日本バンタム級王者グレート金山)と対戦し10回判定勝ち。その後、1990年12月まで1つのひきわけをはさみ5連勝。 |
2011年10月20日 (木) 22:19時点における版
畑中 清詞(はたなか きよし、男性、1967年3月7日 - )は、日本の元プロボクサー。愛知県北名古屋市出身。松田ボクシングジム所属。第13代WBC世界スーパーバンタム級王者および第10代日本スーパーフライ級王者。
名古屋市および中部地方に在るボクシングジムが輩出した初の世界王者である。「尾張のロッキー」「東海のカマチョ」の異名を取った。「尾張のロッキー」は中日新聞などの地元マスコミで頻出。「名古屋の―」としていた場合もあり。「東海のカマチョ」は、日本王者になった前後に、当時のボクシング専門誌で付けられていたもの。「チャンピオンとしてソウルオリンピックを観戦する」夢は破れたが、2度目の挑戦で世界王座を獲得した。
中学校からボクシングを始め、進学した享栄高校ではインターハイ、国体に出場した。
「オリンピックより、プロでお金を稼ぎたい」と、高校3年生でプロ入り。デビュー戦で1ラウンドKO勝ちという鮮烈なデビューを飾る。その際「現役高校生プロボクサー」という興味本位で取材をしていたのがCBCのプロデューサーだったが、このKO勝ちを見届けたことで「世界王者になるまで追い続けよう」と決意する(今日にまで続く、CBCとの良好な関係の発端である)。その後も期待に違わず、持ち前のパンチ力でKOの山を築いた。
1984年11月27日、プロデビュー(初回KO勝ち)。その後、5戦目まで全て初回KO勝ちを収める。
1986年3月4日、全日本スーパーフライ級新人王獲得。
1987年2月23日、12戦目で日本王座初挑戦。日本スーパーフライ級王者丸尾忠に挑み、3回KO勝ち。王座獲得に成功。なお、丸尾とは前年7月にノンタイトルで対戦し、10回判定勝ちを収めたが、微妙な判定との指摘もあったため「敵地(東京・後楽園ホール)でKO勝ちすれば文句は言われまい」という決意で試合に臨んだ。見事KO勝ちを果たした後、試合の直前に死去した松田ジム先代会長の遺影を手にして、遺影に向かって一礼。リング上でのインタビュー後にはバック転も決めてみせた。日本王座は7月10日に初防衛を果たした後、8月に返上。
1988年9月4日、無敗のまま16戦目で世界初挑戦。WBC世界スーパーフライ級王者ヒルベルト・ローマン(メキシコ)に挑む。満面の笑みで入場した畑中は[1]初回にダウンを奪われた後、ローブローを受けて5分の休憩を与えられ、ローマンは1ポイントを減点された[1][2]。3回には再びローブローを受けて3分の休憩が与えられたが[1][2]、畑中はこの休憩をフルに使わずに試合を再開させている。この挑戦は0-3の判定負けで失敗に終わり、畑中は緊張のあまりほとんど何も覚えていなかったと述べているが[1]、ローマンのセコンドについたイグナシオ・ナチョ・ベリスタインはこの時、"Hit him with a hook to his balls" (奴のタマにフックをぶちこめ)と指示し、嫌がるローマンに、"Of course you will do it. If not, you’ll be left alone here because I will leave"(もちろんお前はやるさ。さもなくば置き去りにするぞ)と追い討ちをかけていたことを2011年9月に告白している[3]。
1989年1月24日の再起戦では世界挑戦経験を有する李東春(韓国=後の日本バンタム級王者グレート金山)と対戦し10回判定勝ち。その後、1990年12月まで1つのひきわけをはさみ5連勝。
1991年2月3日、前回より2階級上げての世界再挑戦。WBC世界スーパーバンタム級王者ペドロ・デシマ(アルゼンチン)に挑む。初回にいきなりダウンを奪われたものの、4回に4度のダウンを奪い形勢逆転。その後も2度のダウンを追加し、8回TKO勝ち。24戦目にして念願の世界王座奪取[2]。名古屋のジムから初の世界王者に輝いた。
1991年6月14日、初防衛戦。元王者のダニエル・サラゴサ(メキシコ)と対戦し、フルラウンドの激闘を展開したが、判定負け。わずか4ヵ月余りで世界王座を手放した[2]。その後、この試合で痛めた右目に眼筋麻痺を発症し、再起を果たすことなく引退。同年9月に高橋ナオト引退記念のスパーリングでパートナー、翌1992年春自身の引退式を行った。
引退後はボクシング解説者に転身(中日スポーツ・CBC)。その後、畑中ボクシングジムを開設し、日本スーパーフェザー級王者の杉田竜平、OPBF東洋太平洋フライ級王者の中野博等を育てている。2007年には中日本ボクシング協会会長に就任[4]。
獲得タイトル
参考文献
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 平田淳一「畑中清詞〜6度のダウン奪い名古屋初の王者へ〜」『THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 – 日本ボクシング史に輝く41人の男たち』 ボクシング・マガジン編集部編、ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK117 スポーツシリーズNo.72〉、2000年1月15日、12・78–79頁。ISBN 978-4-583-61076-4
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年 130、175-176頁
- ↑ A Conversation with Nacho Beristain: Part Three SecondsOut.com、2011年9月25日
この資料の中でナチョはローマンとサラゴサの名前を間違えて記憶を語っているが、19歳の日本人でナチョの指導するボクサーと世界戦を行ったのは、この試合における畑中以外の何者でもない。 - ↑ [1][2]
関連項目
外部リンク
前王者 ペドロ・デシマ |
第13代WBC世界ジュニアフェザー級王者 1991年2月3日 - 1991年6月14日 |
次王者 ダニエル・サラゴサ |
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