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'''大空武左衛門'''(おおぞら ぶざえもん、寛政8年(1796年)‐天保3年9月5日(1832年))は、[[江戸時代]]後期の[[大相撲]][[力士]]。'''大空武左エ門'''とも表記する。本姓は坂口。[[肥後国]]上益城郡(現在の[[熊本県]][[上益城郡]])出身。[[勝ノ浦部屋]]所属。[[土俵入り]]専門のいわゆる[[看板力士]]。[[熊本藩]]お抱え力士。 | '''大空武左衛門'''(おおぞら ぶざえもん、寛政8年(1796年)‐天保3年9月5日(1832年))は、[[江戸時代]]後期の[[大相撲]][[力士]]。'''大空武左エ門'''とも表記する。本姓は坂口。[[肥後国]]上益城郡(現在の[[熊本県]][[上益城郡]])出身。[[勝ノ浦部屋]]所属。[[土俵入り]]専門のいわゆる[[看板力士]]。[[熊本藩]]お抱え力士。 | ||
− | 肥後国上益城郡矢部庄田所村(現在の熊本県上益城郡矢部町田所)の農民の子として生まれる。『[[甲子夜話]]』によれば「身長7尺3寸(227cm)、体重35貫500匁(131kg)、食量1日1升7合余、衣服は3反を要す」と記され、とてつもない巨体の持ち主だったと伝えられる。[[東京都]][[江東区]]にある[[富岡八幡宮]]に立つ巨人力士身長碑・手形足形碑によれば、[[生月鯨太左衛門]](1827-1850)に次ぐ歴代2位の巨人力士とされる。手のひらの長さは36.4㎝(富岡八幡宮の手形碑に残る手形の25. | + | 肥後国上益城郡矢部庄田所村(現在の熊本県上益城郡矢部町田所)の農民の子として生まれる。『[[甲子夜話]]』によれば「身長7尺3寸(227cm)、体重35貫500匁(131kg)、食量1日1升7合余、衣服は3反を要す」と記され、とてつもない巨体の持ち主だったと伝えられる。[[東京都]][[江東区]]にある[[富岡八幡宮]]に立つ巨人力士身長碑・手形足形碑によれば、[[生月鯨太左衛門]](1827-1850)に次ぐ歴代2位の巨人力士とされる。手のひらの長さは36.4㎝(富岡八幡宮の手形碑に残る手形の25.5㎝、幅12㎝)、足の大きさは41㎝とされ、両手を合わせると1升3合の米を入れることができたと言われる。彼の容貌については「全身痩形にて頭小さく。帯より下いと長く見ゆ。」(『[[兎園小説]]』余録)という記述もあり、長身痩躯で手足が長かったと想像される。と牛をまたぐことができるほど足が長かったことから、'''牛股'''あるいは'''牛跨ぎ'''という渾名で呼ばれることもあった。 |
彼の生まれ故郷は山里深いところにあったが、その大男ぶりは近隣の村にも知られていたという。文政10年(1828年)熊本藩主[[細川斉護]]に連れられて江戸に赴き、勝ノ浦与一エ衛門(元[[大関]]・鬼面山与一右エ門)に弟子入りして江戸相撲の看板力士となった。彼の巨体は江戸でも話題となり、数多く残る錦絵・絵姿がその評判ぶりを今に伝えている。しかし彼は土俵入り専門の看板力士であり、一度も番付に載ることはなかった。その後、肥後に帰郷する途中で九州博多の相撲興行にも参加したが、このときもドテラを着て土俵溜に座っただけで相撲を取ることはなかった。 | 彼の生まれ故郷は山里深いところにあったが、その大男ぶりは近隣の村にも知られていたという。文政10年(1828年)熊本藩主[[細川斉護]]に連れられて江戸に赴き、勝ノ浦与一エ衛門(元[[大関]]・鬼面山与一右エ門)に弟子入りして江戸相撲の看板力士となった。彼の巨体は江戸でも話題となり、数多く残る錦絵・絵姿がその評判ぶりを今に伝えている。しかし彼は土俵入り専門の看板力士であり、一度も番付に載ることはなかった。その後、肥後に帰郷する途中で九州博多の相撲興行にも参加したが、このときもドテラを着て土俵溜に座っただけで相撲を取ることはなかった。 |
2011年9月24日 (土) 21:26時点における版
大空武左衛門(おおぞら ぶざえもん、寛政8年(1796年)‐天保3年9月5日(1832年))は、江戸時代後期の大相撲力士。大空武左エ門とも表記する。本姓は坂口。肥後国上益城郡(現在の熊本県上益城郡)出身。勝ノ浦部屋所属。土俵入り専門のいわゆる看板力士。熊本藩お抱え力士。
肥後国上益城郡矢部庄田所村(現在の熊本県上益城郡矢部町田所)の農民の子として生まれる。『甲子夜話』によれば「身長7尺3寸(227cm)、体重35貫500匁(131kg)、食量1日1升7合余、衣服は3反を要す」と記され、とてつもない巨体の持ち主だったと伝えられる。東京都江東区にある富岡八幡宮に立つ巨人力士身長碑・手形足形碑によれば、生月鯨太左衛門(1827-1850)に次ぐ歴代2位の巨人力士とされる。手のひらの長さは36.4㎝(富岡八幡宮の手形碑に残る手形の25.5㎝、幅12㎝)、足の大きさは41㎝とされ、両手を合わせると1升3合の米を入れることができたと言われる。彼の容貌については「全身痩形にて頭小さく。帯より下いと長く見ゆ。」(『兎園小説』余録)という記述もあり、長身痩躯で手足が長かったと想像される。と牛をまたぐことができるほど足が長かったことから、牛股あるいは牛跨ぎという渾名で呼ばれることもあった。
彼の生まれ故郷は山里深いところにあったが、その大男ぶりは近隣の村にも知られていたという。文政10年(1828年)熊本藩主細川斉護に連れられて江戸に赴き、勝ノ浦与一エ衛門(元大関・鬼面山与一右エ門)に弟子入りして江戸相撲の看板力士となった。彼の巨体は江戸でも話題となり、数多く残る錦絵・絵姿がその評判ぶりを今に伝えている。しかし彼は土俵入り専門の看板力士であり、一度も番付に載ることはなかった。その後、肥後に帰郷する途中で九州博多の相撲興行にも参加したが、このときもドテラを着て土俵溜に座っただけで相撲を取ることはなかった。
あるとき町へ見物に出かけたが「空き家ばかりで、所々で昼寝をしていた」とつまらなさそうにしていた。よく聞いてみると、長躯なので低い店頭は見えずに2階ばかりを覗いていたのだったという。
また熊本藩主から「自由に食せよ」と酒と食事を与えられると、酒を3升飲んで5升の飯を半分食べ、おかずに1尺5寸の鯛(刺身2尾、煮付け1尾)を食べた。側役人が「遠慮致すなよ」と言うと「いえ、故郷を出る時に両親が腹八分目にしろと申しましたので」と答えたという逸話も伝わっている。
天保3年(1832年)9月5日、37歳で没した。
参考文献
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。