「開成中学校・高等学校」の版間の差分
細 |
細 |
||
48行目: | 48行目: | ||
*東京都交通局・[[都営バス]]草63系統・里48系統西日暮里駅バス停 | *東京都交通局・[[都営バス]]草63系統・里48系統西日暮里駅バス停 | ||
*西日暮里駅の開業以前([[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]は1969年、[[日本国有鉄道|国鉄]]は1971年)には国鉄[[田端駅]](約800m)と国鉄・[[京成電鉄]][[日暮里駅]](約900m)が最寄り駅だった。 | *西日暮里駅の開業以前([[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]は1969年、[[日本国有鉄道|国鉄]]は1971年)には国鉄[[田端駅]](約800m)と国鉄・[[京成電鉄]][[日暮里駅]](約900m)が最寄り駅だった。 | ||
+ | |||
+ | == [[漢文]]教師とOB[[代議士]]のインタビュー(2012年3月) == | ||
+ | 開成と60年をともにした生き証人、元名物漢文教師の橋本弘正氏と、昭和63年卒の衆院議員、井上信治氏が開成への思いと実情を語り尽くす。 | ||
+ | |||
+ | 井上 - 僕が開成に入って面食らったのは、まるで勉強しているように見えないのに、成績がいい同級生がたくさんいたことですね。 | ||
+ | |||
+ | 橋本 - 各小学校で「神童」と言われてきた子どもたちが集まる学校ですから、入学してまず知るわけです。上には上がいると。私もそうでした。 | ||
+ | |||
+ | 井上 - それで入学早々に成績で勝負するのは諦めて、勉強しなくなる人間がけっこういる。僕もそのクチで、成績は最悪でした。 | ||
+ | |||
+ | 橋本 - でも開成は座標軸の多い学校で、勉強ができなくても、別のことに秀でていれば、それなりの尊敬を集めることができる。 | ||
+ | |||
+ | 井上 - それでも学内の[[ヒエラルキー]]は、最終的には頭の良さで決まるところがある。特に、遊びほうけているのに成績トップ。一体あいつ、いつ勉強しているんだろう・・・・・・というのがいちばん尊敬される。みんなが「開成にバカはいないのだから、勉強して成績がいいのは当たり前」と思っているからです。そういう、ちょっとヒネくれたカルチャーがありますね。 | ||
+ | |||
+ | 橋本 - そう、勉強している姿を見せない。 | ||
+ | |||
+ | 井上 - ただ高3になって大学受験が近づいてくるとそういうわけにもいかない。勉強してるかどうかは関係なく、とにかく成績が悪いとバカにされる状況になるわけです。だから僕も1年間必死に勉強して、東大に入ることができた。でも開成では「東大に入るのは当たり前」なので、格別な達成感というのはなかった。 | ||
+ | |||
+ | 橋本 - 1学年400人のなかで、だいたい180人が東大に行く。半分近くが入る計算です。だから、開成では、平均よりだいぶ下の成績の生徒でも、とりあえず東大を受けます。一般的にはいちばん優秀な人は東大の理Ⅲ(多くは医学部に進む)に行くと思われていますけど、私は教師として30年以上開成を見てきて、本当に優秀な生徒は理Ⅲじゃなくて、工学部や理学部に進む理Ⅰに進学するような気がする。もちろん理Ⅰには毎年1100人も入れるわけですから、上と下はありますが、上の方は図抜けている。<br/>例えば、センター試験の数学などは、すべて暗算で解けてしまう子がいます。途中式も計算も一切書かないので、問題用紙は真っ白なんです。だから制限時間60分のところを開始10分ほどで解答と見直しを終え、暇になって寝てしまう。この話を生徒から聞いたときは、私も驚きました。 | ||
+ | |||
+ | 井上 - 天才的なヤツというのは確かにいますね。 | ||
+ | |||
+ | 橋本 - 開成OBで言えば、おそらく前校長でもある[[芳野俊彦]]さんなどがそうでしょう。[[光ファイバー]]の世界的権威で、[[ノーベル賞]]受賞の噂もあった。同じくOBで現校長の[[柳沢幸雄]]さんはあの[[シックハウス症候群]]を発見した方です。医学っていうのは具体的なんです。つまり彼らにとっての対象はあくまで人間と決まっている。ところが理Ⅰは、宇宙とか、ロボットとかで、大変な想像力が必要となる。たとえば、開成時代学年で成績トップだった[[鄭雄一]]さんは、理Ⅲに入りましたが、医学部を卒業した後、いまは東京大学大学院の工学系研究科で教授をやっている。 | ||
== 年間行事 == | == 年間行事 == |
2012年3月29日 (木) 21:17時点における版
開成中学校・高等学校 | |
---|---|
280px | |
過去の名称 | 共立学校 尋常中学共立学校 東京府開成尋常中学校 東京府開成中学校 私立東京開成中学校 東京開成中学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人開成学園 |
学区 | |
併合学校 | |
理念 | |
校訓 | |
設立年月日 | 1871年(明治4年) |
創立記念日 | |
創立者 | 佐野鼎 |
閉校年月日 | |
共学・別学 | 男子校 |
高大一貫教育 | |
中高大一貫教育 | |
中高一貫教育 | 併設型 |
小中高一貫教育 | |
幼小中高一貫教育 | |
分校 | |
課程 | 全日制課程 |
二部以上の授業 | |
単位制・学年制 | 単位制 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース | |
専攻科 | |
別科 | |
学期 | |
高校コード | |
中学校コード | |
所在地 | 〒116-0013 東京都荒川区西日暮里4-2-4 |
外部リンク | 公式サイト |
公式サイト | |
テンプレートを表示 |
開成中学校・高等学校(かいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう 英語名:Kaisei Junior & Senior High School)は、東京都荒川区西日暮里にある私立中学校・高等学校である。中高一貫制男子校。
目次
概要
1871年に共立学校として開校。中学受験では麻布、武蔵と共に男子御三家として一部で認識されている。校名の『開成』とは、東京大学の前身であった開成学校と同じく、「論語」の「開物成務」からとったものである。そのため、「開成」を冠する学校は他にも多数存在するが、本稿で取り上げる開成学園の学校と歴史上関係がある学校は逗子開成中学校・高等学校に限られる(下記参照)。
近年の少子化の中にあっても依然として難易度の高い入学試験が行われ、卒業生の大半が首都圏を中心とした大学に進学する。中でも東京大学への進学者は多く、同大学の合格者は開成高校の卒業生の40%台となっている[1]。卒業生には各分野のリーダーとして活躍している者もあり(開成中学校・高等学校人物一覧の項目を参照)、同校でもそれを意識した教育方針が立てられている[2]。
また、自由闊達・質実剛健を教育目標として公式に掲げ、知識偏重ではなく、多様な価値観の下で各生徒が持つ自由な個性の育成も目指されている[3]。
学校行事として運動会・水泳学校・ボートレース・マラソン大会が行われる。特に運動会は盛大に行われる一大イベントである。
中高一貫教育が主流という事情もあり、校内では「中学1年」(中1)・「高校3年」(高3)などとともに「1年」「6年」などの用語も使用されている(本稿では「中1」「高3」を使用)。
沿革
1871年、佐野鼎らによって神田相生橋(現 神田淡路町)に共立学校(きょうりゅう がっこう)として創立された。佐野鼎の死亡後には廃校同様となったが、1878年に大学予備門教授の傍ら高橋是清が校長、鈴木智雄らが講師に就任した。共立学校を大学予備門への進学者のための受験予備校として改革し、是清が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達した。その後も1890年代初期まで70人台、40人台、50人台と推移した[4]。
1891年、尋常中学校令により、尋常中学共立学校と改称。さらに、1886年及び1891年の中学校令公布により、1府県1中学と定められたことにより東京に受験生が集まらなくなった私立各校とも軒並み経営が傾き、当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する徴兵猶予や校地に対する免税などの特権を得る便法としての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、共立中学(都立戸山高)と共立学校(開成)が東京府の管轄下に入り、1895年にはそれぞれ東京府城北尋常中学校、東京府開成尋常中学校と改称した。このとき、校名が「共立学校」から「開成」となったのは、東京府当局が「共立」と「府立」は相容れないとして難色を示したためだとされている。さらに中学校令改正により1899年に東京府開成中学校と改称。
まもなく各種特権が私学にも与えられるようになったため、1901年に府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となり、1919年に東京開成中学校と改称。1945年には戦局悪化のため、無試験入学となる。翌1946年には入学試験が再開されるが、筆記試験が復活するのは1953年のことであった。戦後、学制改革により、1947年に新制中学校(開成中学校)が発足し、1948年には新制高等学校(開成高等学校)が併設され、旧制5年制中学から新制6年制中高一貫の開成中学校・高等学校へ移行し現在に至る。
また、現在の道灌山の校地に移転したのは、関東大震災により淡路町校舎が消失した1924年のこと。1920年に初めて行われた東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中・高)とのボートレースは現在も行われている。
1960年に高校募集(定員50名)を開始し、1974年には高校募集枠が100名に拡大され、現在の中学定員1学年300名、高校定員1学年400名体制となった。ここには、1967年に都立高等学校で学校群制度が導入され、都立日比谷高校(旧制府立一中)に象徴された「都立進学校」を志望していた学力成績上位層の中学生が私立高校受験に移行したという社会背景があった。1977年には出身高校別の東大合格者数で初めて首位の座に立ち、1982年から現在に至るまでトップの座にある。
アクセス
- JR山手線・地下鉄千代田線西日暮里駅より約100m(徒歩1分)
- 東京都交通局日暮里・舎人ライナー西日暮里駅より約300m(徒歩4分)
- 東京都交通局・都営バス草63系統・里48系統西日暮里駅バス停
- 西日暮里駅の開業以前(営団地下鉄は1969年、国鉄は1971年)には国鉄田端駅(約800m)と国鉄・京成電鉄日暮里駅(約900m)が最寄り駅だった。
漢文教師とOB代議士のインタビュー(2012年3月)
開成と60年をともにした生き証人、元名物漢文教師の橋本弘正氏と、昭和63年卒の衆院議員、井上信治氏が開成への思いと実情を語り尽くす。
井上 - 僕が開成に入って面食らったのは、まるで勉強しているように見えないのに、成績がいい同級生がたくさんいたことですね。
橋本 - 各小学校で「神童」と言われてきた子どもたちが集まる学校ですから、入学してまず知るわけです。上には上がいると。私もそうでした。
井上 - それで入学早々に成績で勝負するのは諦めて、勉強しなくなる人間がけっこういる。僕もそのクチで、成績は最悪でした。
橋本 - でも開成は座標軸の多い学校で、勉強ができなくても、別のことに秀でていれば、それなりの尊敬を集めることができる。
井上 - それでも学内のヒエラルキーは、最終的には頭の良さで決まるところがある。特に、遊びほうけているのに成績トップ。一体あいつ、いつ勉強しているんだろう・・・・・・というのがいちばん尊敬される。みんなが「開成にバカはいないのだから、勉強して成績がいいのは当たり前」と思っているからです。そういう、ちょっとヒネくれたカルチャーがありますね。
橋本 - そう、勉強している姿を見せない。
井上 - ただ高3になって大学受験が近づいてくるとそういうわけにもいかない。勉強してるかどうかは関係なく、とにかく成績が悪いとバカにされる状況になるわけです。だから僕も1年間必死に勉強して、東大に入ることができた。でも開成では「東大に入るのは当たり前」なので、格別な達成感というのはなかった。
橋本 - 1学年400人のなかで、だいたい180人が東大に行く。半分近くが入る計算です。だから、開成では、平均よりだいぶ下の成績の生徒でも、とりあえず東大を受けます。一般的にはいちばん優秀な人は東大の理Ⅲ(多くは医学部に進む)に行くと思われていますけど、私は教師として30年以上開成を見てきて、本当に優秀な生徒は理Ⅲじゃなくて、工学部や理学部に進む理Ⅰに進学するような気がする。もちろん理Ⅰには毎年1100人も入れるわけですから、上と下はありますが、上の方は図抜けている。
例えば、センター試験の数学などは、すべて暗算で解けてしまう子がいます。途中式も計算も一切書かないので、問題用紙は真っ白なんです。だから制限時間60分のところを開始10分ほどで解答と見直しを終え、暇になって寝てしまう。この話を生徒から聞いたときは、私も驚きました。
井上 - 天才的なヤツというのは確かにいますね。
橋本 - 開成OBで言えば、おそらく前校長でもある芳野俊彦さんなどがそうでしょう。光ファイバーの世界的権威で、ノーベル賞受賞の噂もあった。同じくOBで現校長の柳沢幸雄さんはあのシックハウス症候群を発見した方です。医学っていうのは具体的なんです。つまり彼らにとっての対象はあくまで人間と決まっている。ところが理Ⅰは、宇宙とか、ロボットとかで、大変な想像力が必要となる。たとえば、開成時代学年で成績トップだった鄭雄一さんは、理Ⅲに入りましたが、医学部を卒業した後、いまは東京大学大学院の工学系研究科で教授をやっている。
年間行事
- 4月 - ボートレース
- 5月 - 運動会
- 8月 - 臨海学校
- 9月 - 文化祭(開成祭)
- 10月 - マラソン大会
- 2月 - 中学・高校入試
ボートレース
1920年以来、毎年4月にボート部の部員により戸田漕艇場にて開成と筑波大学附属高等学校のボートレースが行われている。現在の種目は舵手付きクォドルプル(両手漕ぎ四人乗り)である。通算成績は開成の39勝40敗であるが、現在6連敗中である(2007年現在)。
運動会
例年5月の第2日曜日に行われる、開成最大のイベント。高3が中心となって例年丸一年をかけて創り上げられる。中高合同で行われ、高校はクラスごと、中学は各クラス5~6人ずつ8つの色に分ける(中学は7クラスのため)。
臨海学校
毎年7月、水泳部の合宿と合同で行われ、千葉県館山市の施設に中1が全員参加する。同水泳部は日本泳法の水府流太田派を継承し、参加者全員が白の六尺褌を着用する[5][6]。
文化祭
毎年9月の第4土曜日と第4日曜日に開催され、「開成祭」とも呼ばれる。生徒運営による「文化祭準備委員会」の下、文化系の各部や同好会・サークルなどが参加し、日頃の研究成果の発表やパフォーマンスなどが行われる。また、運営本部による古本市も開催され、教職員などが本を寄付する。入場制限はない。
生徒は高2の文化祭を最後に部・サークル活動を引退し、高3は文化祭に参加しないのが慣例となっている。
マラソン大会
荒川河川敷を利用して行われる。1903年に始まり、初めは中山道を経由して巣鴨~大宮間で行われていた。その後、江戸川河川敷など何回かのコース変更を経て、現行のコースとなった。距離は中1が5km、中2・3が6km、高校生は8kmである。
部活動・個人活動
学内には約50の公式部、および10を超える同好会がある。運動部は運動会で利用される土の第2グラウンドや体育館などで活動するが、各競技の東京都大会で上位に進出することは少ない。硬式野球部では、2005年夏の全国高等学校野球選手権大会で東東京大会のベスト16に入りマスメディアに注目された[7]。
文化部では全国大会で優秀な成績を収める例がある。俳句部は、俳句甲子園として知られる「全国高校俳句選手権大会」で11回大会中4回優勝、2回準優勝、同校生徒の最優秀句作者選出2回の成績を残している。また、国際数学オリンピックや国際化学オリンピックなど、高校生(中学生)を対象とした理数系の国際競技大会に同校の生徒が日本代表として派遣され、好成績を収める例がある。
高校関係者一覧
- 開成中学校・高等学校人物一覧を参照。
開成から分離独立した学校
開成の関係者が設立した学校
関連文献
- 『東京開成中学校校史資料』(東京開成中学校、1936年)
- 『開成学園九十年史』(開成学園、1961年) - 開成学園九十年史編纂委員会編集
- 『開成110』(開成学園、1981年) - 開成学園校史委員会編集
- 『子供たちの復讐 / 上:開成高校生殺人事件 下:祖母殺し高校生殺人事件』(朝日新聞社、1979年) - 本多勝一編
脚注
- ↑ 2008年度大学入試合格者数 公式サイト
- ↑ 開成中学・高等学校校長との対談 田島教育グループ 機関紙フィロス
- ↑ 校長インタビュー 全私学新聞2002年7月3日号
- ↑ 参照 『明治前期中学校形成史 府県別編I』 神辺靖光 梓出版社
- ↑ 私学制服手帖 エレガント編(森伸之、みくに出版、ISBN 978-4840302920)P49~52
- ↑ Web情報コラム-首都圏- 日能研
- ↑ 野球再発見:第3部・原点/3「限られた時間」 東京・開成 毎日新聞 2008年2月22日
関連項目
外部リンク
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・開成中学校・高等学校を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |