「写生」の版間の差分
(ページの作成:「'''写生'''(しゃせい)は、絵画などにおいて、事物を見たままに写しとることを言う<ref name="日本大百科全書">八重樫春樹...」) |
|||
2行目: | 2行目: | ||
また西洋絵画由来の写生(スケッチ)を応用したものとして、[[俳句]]・[[短歌]]を中心に文学の分野においても写生概念が用いられている。以下これらについて解説する。 | また西洋絵画由来の写生(スケッチ)を応用したものとして、[[俳句]]・[[短歌]]を中心に文学の分野においても写生概念が用いられている。以下これらについて解説する。 | ||
+ | |||
+ | == 文学における写生 == | ||
+ | [[明治時代]]に俳人・歌人[[正岡子規]]は、西洋美術に由来する「写生」(つまり[[スケッチ]])の概念をこれらの文学に適用し俳句・短歌および文章の近代化を図った。子規が西洋美術の概念としての「写生」を知ったのは1894年、知人の画家[[中村不折]]に教わってからである。「写生」を知った子規はこの年の秋、手帖と鉛筆を持って毎日のように戸外に出かけ写生による句を作り、この方法が文学においても有効であることを悟った。1897年、子規は自身のグループ「[[日本派]]」に属する俳人たちの句を論じた「明治二十九年の俳句界」で「写生」の語を意識的に用い、以後その死去まで写生論を説いた。 | ||
+ | |||
+ | 子規は写生を説く一方で空想による句も否定しておらず、また平凡な句を作りがちになるという写生の側面も認めており、写生を必ずしも万能の方法として考えていたわけではない。しかし当時の俳句界で主流を占めていた宗匠俳句における、理屈や機知、小主観からなる陳腐な俳句(子規はこれらを「[[月並調]]」として批判した)から脱するのには有効な手段だと考え、その後さらに、短歌、散文においても同様の方法を適用していった。 | ||
+ | |||
+ | 子規の没後、その高弟の[[河東碧梧桐]]は写実主義の影響を受け、人為を廃して対象に迫るべきとする「無中心論」を提唱、定型も人為であるとして退けるようになってゆく(新傾向俳句運動)。碧梧桐の活動はその後[[自由律俳句]]へと繋がってゆくが、これに対しもう一人の高弟[[高浜虚子]]は危機感を覚え俳壇に復活、定型・季題を重視しつつ子規の写生論を継承し、俳句の定型を生かす方法としての「[[客観写生]]」を説く。「客観写生」はその後の「[[花鳥諷詠]]」の理念とともに虚子の俳句唱導の両輪となり、近代俳句の普及・大衆化に大きな役割を担うことになる。 | ||
+ | |||
+ | 一方短歌においては、子規の写生論は[[伊藤左千夫]]、[[島木赤彦]]、[[斎藤茂吉]]ら[[アララギ派]]の歌人たちによって継承され、単なる方法としてのリアリズムに留まらず、独自の象徴的な力学として再解釈され発展していった。しかし「アララギ派」が指導理論として用いた「写生」は「写実」との混同が多くなり、このため今日の短歌においても「写生」は「写実」と同意義に用いられることがしばしば見られる。 | ||
+ | |||
+ | 以上の短歌・俳句と並んで、子規は散文においても写生論を導入し、文章を不必要に飾り立てず、事物や出来事をあるがままに書くことを唱え、これはのちに[[写生文]]と呼ばれるようになった。子規の写生文運動は『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』誌を中心に展開され、1900年には写生文の文章会「山会」の開催を始める。[[夏目漱石]]のデビュー作『[[吾輩は猫である]]』ははじめこの「山会」において写生文として発表された作品である。写生文運動は漱石や虚子、伊藤左千夫のほか、[[長塚節]]、[[寺田寅彦]]、[[鈴木三重吉]]、[[野上弥生子]]など多くの作家・文章家を生み出しており、また各種の学校での作文教育にも影響を与えている。 | ||
== 出典 == | == 出典 == |
2019年11月27日 (水) 10:30時点における版
写生(しゃせい)は、絵画などにおいて、事物を見たままに写しとることを言う[1]。主観的な表現を表す「写意」の対立概念である[2][3]。現在は「スケッチ」「デッサン」などの訳語として用いられることが多いが、東洋絵画における写生は描写対象に直接対することによって、「写意」と密接に関係しつつ[4]、形式にとらわれずに対象の本質に迫ろうとする性格を持つものであり、西洋の写実的絵画とは共通する点を持ちながらも相異なるものである[1][2]。日本語としての「写生」も、近代以前にはより広い意味で使われていた言葉であった。
また西洋絵画由来の写生(スケッチ)を応用したものとして、俳句・短歌を中心に文学の分野においても写生概念が用いられている。以下これらについて解説する。
文学における写生
明治時代に俳人・歌人正岡子規は、西洋美術に由来する「写生」(つまりスケッチ)の概念をこれらの文学に適用し俳句・短歌および文章の近代化を図った。子規が西洋美術の概念としての「写生」を知ったのは1894年、知人の画家中村不折に教わってからである。「写生」を知った子規はこの年の秋、手帖と鉛筆を持って毎日のように戸外に出かけ写生による句を作り、この方法が文学においても有効であることを悟った。1897年、子規は自身のグループ「日本派」に属する俳人たちの句を論じた「明治二十九年の俳句界」で「写生」の語を意識的に用い、以後その死去まで写生論を説いた。
子規は写生を説く一方で空想による句も否定しておらず、また平凡な句を作りがちになるという写生の側面も認めており、写生を必ずしも万能の方法として考えていたわけではない。しかし当時の俳句界で主流を占めていた宗匠俳句における、理屈や機知、小主観からなる陳腐な俳句(子規はこれらを「月並調」として批判した)から脱するのには有効な手段だと考え、その後さらに、短歌、散文においても同様の方法を適用していった。
子規の没後、その高弟の河東碧梧桐は写実主義の影響を受け、人為を廃して対象に迫るべきとする「無中心論」を提唱、定型も人為であるとして退けるようになってゆく(新傾向俳句運動)。碧梧桐の活動はその後自由律俳句へと繋がってゆくが、これに対しもう一人の高弟高浜虚子は危機感を覚え俳壇に復活、定型・季題を重視しつつ子規の写生論を継承し、俳句の定型を生かす方法としての「客観写生」を説く。「客観写生」はその後の「花鳥諷詠」の理念とともに虚子の俳句唱導の両輪となり、近代俳句の普及・大衆化に大きな役割を担うことになる。
一方短歌においては、子規の写生論は伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らアララギ派の歌人たちによって継承され、単なる方法としてのリアリズムに留まらず、独自の象徴的な力学として再解釈され発展していった。しかし「アララギ派」が指導理論として用いた「写生」は「写実」との混同が多くなり、このため今日の短歌においても「写生」は「写実」と同意義に用いられることがしばしば見られる。
以上の短歌・俳句と並んで、子規は散文においても写生論を導入し、文章を不必要に飾り立てず、事物や出来事をあるがままに書くことを唱え、これはのちに写生文と呼ばれるようになった。子規の写生文運動は『ホトトギス』誌を中心に展開され、1900年には写生文の文章会「山会」の開催を始める。夏目漱石のデビュー作『吾輩は猫である』ははじめこの「山会」において写生文として発表された作品である。写生文運動は漱石や虚子、伊藤左千夫のほか、長塚節、寺田寅彦、鈴木三重吉、野上弥生子など多くの作家・文章家を生み出しており、また各種の学校での作文教育にも影響を与えている。
出典
参考文献
- あらきみほ 『図説 俳句』 深見けん二監修、日東書院、2011年
- 尾形仂ほか編 『俳文学大辞典』 角川書店、1995年
- 齋藤愼爾ほか編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年
- 鷹羽狩行ほか監修 『現代俳句大事典』普及版、三省堂、2008年
- 山根有三先生古稀記念会編 『日本絵画史の研究』 吉川弘文館、1989年
- 『俳句』編集部編 『正岡子規の世界』、角川学芸出版、2010年
- 『日本大百科全書』第11巻、小学館、1986年