「正岡子規」の版間の差分
細 |
(追加) |
||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''正岡 子規'''(まさおか しき、[[1867年]][[10月14日]] - [[1902年]][[9月19日]])は、俳人・歌人。 | + | '''正岡 子規'''(まさおか しき、[[1867年]][[10月14日]] - [[1902年]][[9月19日]])は、俳人・歌人。[[囲碁殿堂]]入り。 |
== 経歴 == | == 経歴 == | ||
− | [[1867年]](旧暦[[慶応]]3年[9月17日]] | + | [[1867年]](旧暦[[慶応]]3年[9月17日]]〉、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)で生まれる。本名、常規(つねのり)。 幼名 処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改める。父・正岡常尚(35歳)・母八重(23歳)の長男である。1868年、湊町新町(現湊町4丁目1番地)に転居する。1869年(明治2年)2歳のとき、正岡家、失火により全焼する。1870年(明治3年)、妹律,誕生。1872年(明治5年)1月、家督を相続する。同年3月、父死亡(40歳)。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習う。1873年、末広学校(後の智環学校)に入学し、1875年勝山学校に転校する。 |
1880年(明治13年)、旧制松山中学(現・[[愛媛県立松山東高等学校|松山東高]])に入学,三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。1881年、詩会・書画会をさかんに催す。1883年5月松山中学退学。1883年(明治16年)、上京し、受験のために共立学校(現・開成高校)に入学。1884年、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。 | 1880年(明治13年)、旧制松山中学(現・[[愛媛県立松山東高等学校|松山東高]])に入学,三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。1881年、詩会・書画会をさかんに催す。1883年5月松山中学退学。1883年(明治16年)、上京し、受験のために共立学校(現・開成高校)に入学。1884年、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。 | ||
1883年9月、東京大学予備門(のち[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、現・東大教養学部)に入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。1887年、第一高等中学校予科進級。1888年、第一高等中学校予科卒業。1890年、第一高等中学校卒業。 | 1883年9月、東京大学予備門(のち[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、現・東大教養学部)に入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。1887年、第一高等中学校予科進級。1888年、第一高等中学校予科卒業。1890年、第一高等中学校卒業。 | ||
− | 1887年9月、[[東京帝国大学]] | + | 1887年9月、[[東京帝国大学]]文科大学哲学科入学。 |
− | + | 1889年、時鳥(ほととぎす)の句を四、五十句作り、初めて子規と号す。 | |
− | + | 1891年、哲学科から国文科に転科。 | |
+ | 1892年、学年試験落第,退学を決意する。 | ||
+ | 1892年12月、[[日本新聞社]]入社,月給15円。[[福本日南]],[[三宅雪嶺]],[[千葉亀雄]],[[佐藤紅緑]],[[長谷川如是閑]]などがいた。 | ||
+ | 1893年5月 初めての単行本『獺祭書屋俳話』を[[日本新聞社]]より刊行。 | ||
+ | 1895年、宇品出港,近衛連隊つき記者として金州・[[旅順]]をまわる。同年5月17日、帰国途上船中で喀血。重態に陥り、5月23日に県立神戸病院に入院。 | ||
1896年、子規庵で句会。鴎外・漱石が参集。1897年、松山で「ほとヽぎす」創刊。 | 1896年、子規庵で句会。鴎外・漱石が参集。1897年、松山で「ほとヽぎす」創刊。 | ||
1898年、「歌よみに与ふる書」(10回,「日本」2.12~3.4)を発表し,短歌の革新運動に着手する。 | 1898年、「歌よみに与ふる書」(10回,「日本」2.12~3.4)を発表し,短歌の革新運動に着手する。 | ||
− | + | 1899年、『俳諧大要』ほとゝぎす発行所から刊行。 | |
+ | 1900年、『蕪村句集講義』(春之部)刊行。 | ||
+ | 1901年、「墨汁一滴」連載(164回「日本」1.26~7.2)。 | ||
1902年9月18日、朝から容態悪化,午前中絶筆三句を詠む。 | 1902年9月18日、朝から容態悪化,午前中絶筆三句を詠む。 | ||
− | 1902年( | + | 1902年(明治35年)9月19日、午前1時頃絶息が確認される。9月21日 葬儀が行われ、田端の大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名、子規居士。 |
== 著書 == | == 著書 == | ||
23行目: | 29行目: | ||
*正岡子規(1985)『筆まかせ抄』岩波文庫,岩波書店 | *正岡子規(1985)『筆まかせ抄』岩波文庫,岩波書店 | ||
*正岡子規(1984)『松蘿玉液』岩波文庫,岩波書店 | *正岡子規(1984)『松蘿玉液』岩波文庫,岩波書店 | ||
+ | *正岡子規(1983)『俳諧大要』岩波文庫,岩波書店 | ||
+ | *正岡子規(1923)『歌集 竹の里歌』アルス | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2017年11月5日 (日) 01:00時点における版
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日 - 1902年9月19日)は、俳人・歌人。囲碁殿堂入り。
経歴
1867年(旧暦慶応3年[9月17日]]〉、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)で生まれる。本名、常規(つねのり)。 幼名 処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改める。父・正岡常尚(35歳)・母八重(23歳)の長男である。1868年、湊町新町(現湊町4丁目1番地)に転居する。1869年(明治2年)2歳のとき、正岡家、失火により全焼する。1870年(明治3年)、妹律,誕生。1872年(明治5年)1月、家督を相続する。同年3月、父死亡(40歳)。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習う。1873年、末広学校(後の智環学校)に入学し、1875年勝山学校に転校する。
1880年(明治13年)、旧制松山中学(現・松山東高)に入学,三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。1881年、詩会・書画会をさかんに催す。1883年5月松山中学退学。1883年(明治16年)、上京し、受験のために共立学校(現・開成高校)に入学。1884年、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。 1883年9月、東京大学予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学(同級生に芳賀矢一・夏目金之助・山田美妙・菊地謙二郎がいた)。1887年、第一高等中学校予科進級。1888年、第一高等中学校予科卒業。1890年、第一高等中学校卒業。
1887年9月、東京帝国大学文科大学哲学科入学。 1889年、時鳥(ほととぎす)の句を四、五十句作り、初めて子規と号す。 1891年、哲学科から国文科に転科。 1892年、学年試験落第,退学を決意する。 1892年12月、日本新聞社入社,月給15円。福本日南,三宅雪嶺,千葉亀雄,佐藤紅緑,長谷川如是閑などがいた。 1893年5月 初めての単行本『獺祭書屋俳話』を日本新聞社より刊行。 1895年、宇品出港,近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。同年5月17日、帰国途上船中で喀血。重態に陥り、5月23日に県立神戸病院に入院。 1896年、子規庵で句会。鴎外・漱石が参集。1897年、松山で「ほとヽぎす」創刊。 1898年、「歌よみに与ふる書」(10回,「日本」2.12~3.4)を発表し,短歌の革新運動に着手する。 1899年、『俳諧大要』ほとゝぎす発行所から刊行。 1900年、『蕪村句集講義』(春之部)刊行。 1901年、「墨汁一滴」連載(164回「日本」1.26~7.2)。 1902年9月18日、朝から容態悪化,午前中絶筆三句を詠む。 1902年(明治35年)9月19日、午前1時頃絶息が確認される。9月21日 葬儀が行われ、田端の大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名、子規居士。
著書
- 正岡子規(1984)『病牀六尺』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(2002)『仰臥漫録』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1993)『子規句集』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(2016)『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1985)『筆まかせ抄』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1984)『松蘿玉液』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1983)『俳諧大要』岩波文庫,岩波書店
- 正岡子規(1923)『歌集 竹の里歌』アルス