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LSEにおいては、1978年に Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines (STICERD - 「スティカード」と発音) という研究所の設立に貢献し、初代所長となる。名前が示すとおり、[[サントリー]]と[[トヨタ]]からの寄付金を元に設立された研究所だが、イギリス学界では私企業からお金をもらって研究をすることは伝統的にタブーとされていて、そうした固定観念を変えるべく同僚の教授たちの説得に奔走した(その後、現在に至るまでSTICERDは、公共経済学、開発経済学、政治経済学の分野で多数の研究成果を経済学界に送り出している)。 | LSEにおいては、1978年に Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines (STICERD - 「スティカード」と発音) という研究所の設立に貢献し、初代所長となる。名前が示すとおり、[[サントリー]]と[[トヨタ]]からの寄付金を元に設立された研究所だが、イギリス学界では私企業からお金をもらって研究をすることは伝統的にタブーとされていて、そうした固定観念を変えるべく同僚の教授たちの説得に奔走した(その後、現在に至るまでSTICERDは、公共経済学、開発経済学、政治経済学の分野で多数の研究成果を経済学界に送り出している)。 | ||
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* [[1976年]]の文化勲章は名誉はできるだけ受けるべきでないとの考え方から、辞退を考えていたが、年金がつくと知って受けることにした。<ref name=morish1></ref>。森嶋はその年金を日本-英国の学術交流に使い、若手社会学者への奨学金にもしていた。 | * [[1976年]]の文化勲章は名誉はできるだけ受けるべきでないとの考え方から、辞退を考えていたが、年金がつくと知って受けることにした。<ref name=morish1></ref>。森嶋はその年金を日本-英国の学術交流に使い、若手社会学者への奨学金にもしていた。 | ||
* [[2004年]]8月には英[[タイムズ]]誌が紙面を半ページ割いて追悼記事を載せた。また英[[インディペンデント]]紙も追悼記事を掲載した。 | * [[2004年]]8月には英[[タイムズ]]誌が紙面を半ページ割いて追悼記事を載せた。また英[[インディペンデント]]紙も追悼記事を掲載した。 | ||
+ | *森嶋教授の毒舌は有名であり、日本では多くの舌禍を巻き起こしたが、イギリスは変わり者を変わり者として受け止めてくれる風土があるため居続けた<ref name=ida>依田高典「ノーベル経済学賞の忘れもの」放送大学「現代経済学」,2013年</ref>。 | ||
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2017年10月19日 (木) 12:55時点における版
森嶋 通夫(もりしま みちお、1923年7月18日 - 2004年7月13日)は日本を代表する経済学者。大阪府生まれ。ロンドン大学名誉教授。大阪大学名誉教授。 イギリス学士院会員。文化勲章授賞。
経歴
1923年[[7月18日]に大阪市に生まれる。幼少期は神戸に在住していた。1936年に神戸市東灘区の本山第一小学校を卒業し、同年、七年制の旧制浪速高等学校に入学した。1938年と1940年に北京赴任中の父親を姉とともに訪問する。1942年浪速高等学校を卒業し、10月に京都帝国大学経済学部に入学する[1]。1943年12月に学徒動員により、大日本帝国海軍に入隊する。1944年12月末、海軍少尉として、長崎の大村航空隊に着任する。1945年6月始め第22連合航空隊司令部に転勤する。同年7月15日、同隊解散する。、1946年に京都大学経済学部を卒業する。経済学部特別研究生第一期を修了し、経済学部助手に着任する。同大学講師を経て、1950年27歳の若さで、京都大学経済学部の助教授となる。1年後の1951年大阪大学法経学部助教授に転出する。 1954年、津田瑤子と結婚する。1956年、ロックフェラー財団のフェローとして、オックスフォード大学のジョン・ヒックス(1972年ノーベル経済学賞授賞)に師事した。アメリカをへて帰国する。1958年、エコノメトリック・ソサエティー(計量経済学会)のフェローとなる。1960年、『エコノメトリカ』の準編集者となる(1968年まで)。1963年に、40歳で大阪大学経済学部経済研究施設(後の社会経済研究所)教授となる 1965年、エコノメトリック・ソサエティーの会長となる。これは日本人で初めてであった。 1966年4月、大阪大学附置研究所社会経済研究所に改組され、社会経済研究所の教授となる。以後、日本における近代経済学研究の中心となる。 大阪大学社会経済研究所(阪大社研)においては、同僚の安井琢磨、畠中道雄、二階堂副包らと共に、阪大社研の黄金期を現出させた。 その後、1968年に渡英して日本を飛び出し、エセックス大学客員教授となる。続いて、1970年からロンドン大学(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE))の教授に就任した(同大教授は日本人として初めて)。そのまま定年まで在籍した。1976年、文化勲章授賞。
LSEにおいては、1978年に Suntory Toyota International Centres for Economics and Related Disciplines (STICERD - 「スティカード」と発音) という研究所の設立に貢献し、初代所長となる。名前が示すとおり、サントリーとトヨタからの寄付金を元に設立された研究所だが、イギリス学界では私企業からお金をもらって研究をすることは伝統的にタブーとされていて、そうした固定観念を変えるべく同僚の教授たちの説得に奔走した(その後、現在に至るまでSTICERDは、公共経済学、開発経済学、政治経済学の分野で多数の研究成果を経済学界に送り出している)。
1988年、ロンドン大学名誉教授となる。1992年、大阪大学名誉教授となる。
業績
森嶋の業績には3つのカテゴリーがあり、一番目はデヴィッド・リカードの体系に基づく均衡理論の動学化である。二番目は経済学に社会学的アプローチを加味した交響的経済学を提唱したことである。三番目はレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカードの経済学の学説史研究である。 数理経済学者としてレオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカード等の理論の動学的定式化に業績を残している。最も影響力を持つ研究はワルラス理論だが、マルクス理論を数理化させた(数理マルクス経済学)を手掛けている。
ノーベル経済学賞を授賞した日本人はまだいないが、1980年代にノーベル経済学賞の受賞候補となった日本人は2名いた。森嶋通夫と宇沢弘文である。前者は動学的経済理論により数理経済学を切り開き、世界的な知名度があった。後者は米スタンフォード大や米シカゴ大で投資財と消費財の2部門をモデルとした新古典派経済学の枠組みの中で経済成長の仕組みをモデル化した[2]。晩年にマルクス経済学を数理経済学的に再構築するという研究が主流派の敬遠を招いたとされる。ノーベル経済学賞の自由主義経済学への政治的偏向があることが知られているからである。 依田高典は森嶋教授のもっとも独創的な著書である『動学的経済理論』(1950年)の英訳の刊行が1996年となったため、経済学史上の評価が遅れたことを挙げている。森嶋教授から聞いた話として、ノーベル財団の上層部、ソロー、ハーンと会食する機会があったとき、空気の読めないハーンがノーベル経済学賞をさんざん批判し始めたとき、ソローがテーブルの下でハーンの足をけったという。後年、ソローはノーベル経済学賞を受賞し、ハーンは逃したという[2]。
人物
- 幼少期から正義感が強く、差別を嫌っていたエピソードとして、高校1年の夏休みに北京に住む父親を訪ねたときの列車の中での出来事がある。
- 著作も多く、専門的な経済学書の他に『イギリスと日本』『なぜ日本は「成功」したか』などの日本社会論・『自分流に考える』『サッチャー時代のイギリス』などの政策評論など幅広い。1979年には、専門外の分野ではあるが、関嘉彦との間で防衛問題論争を行った。
- 1970年の日経賞受賞を辞退した。価値自由論の立場から、新聞社は報道の自由の原則から、文化の内容に立ち入りその優劣の判定を行うべきではないとの信念からであった。[3]
- 1976年の文化勲章は名誉はできるだけ受けるべきでないとの考え方から、辞退を考えていたが、年金がつくと知って受けることにした。[3]。森嶋はその年金を日本-英国の学術交流に使い、若手社会学者への奨学金にもしていた。
- 2004年8月には英タイムズ誌が紙面を半ページ割いて追悼記事を載せた。また英インディペンデント紙も追悼記事を掲載した。
- 森嶋教授の毒舌は有名であり、日本では多くの舌禍を巻き起こしたが、イギリスは変わり者を変わり者として受け止めてくれる風土があるため居続けた[2]。
学歴
恩師・弟子
恩師に高田保馬、青山秀夫。弟子に久我清(大阪大学名誉教授)、阪大時代の弟子に小室直樹、LSE時代のクリストファー・ピサリデス(ノーベル経済学賞受賞)がいる。
受賞歴・叙勲歴
著書
単著
- 『動學的經濟理論』(弘文堂, 1950年)
- Dynamic economic theory,(Cambridge University Press, 1996).
- 『資本主義経済の変動理論――循環と進歩の経済学』(創文社, 1955年)
- 『産業連関と経済変動』(有斐閣, 1955年)
- 『産業連關論入門――新しい現実分析の理論的背景』(創文社, 1956年)
- Equilibrium stability, and growth: a multi-sectoral analysis, (Oxford University Press, 1964).
- Theory of economic growth, (Clarendon Press, 1969).
- Marx's economics: a dual theory of value and growth, (Cambridge University Press, 1973).
- 『近代社会の経済理論』(創文社, 1973年)
- The economic theory of modern society, translated by D.W. Anthony , (Cambridge University Press, 1976).
- 『イギリスと日本――その教育と経済』(岩波書店[岩波新書], 1977年)
- 『続イギリスと日本――その国民性と社会』(岩波書店[岩波新書], 1978年)
- Walras' economics: a pure theory of capital and money, (Cambridge University Press, 1977).
- 『ワルラスの経済学――資本と貨幣の純粋理論』(西村和雄訳, 東洋経済新報社, 1983年)
- 『自分流に考える――新・新軍備計画論』(文藝春秋, 1981年)
- The industrial state without natural resources: a new introduction to economics, (International Centre for Economics and Related Disciplines The LSEPS, 1983).
- 『無資源国の経済学――新しい経済学入門』(岩波書店, 1984年)
- Why has Japan succeeded: western technology and the Japanese ethos, (Cambridge University Press, 1982).
- 『なぜ日本は「成功」したか?――先進技術と日本的心情』(TBSブリタニカ, 1984年)
- The economics of industrial society, translated by Douglas Anthony, John Clark, and Janet Hunter, (Cambridge University Press, 1984).
- 『学校・学歴・人生――私の教育提言』(岩波書店[岩波ジュニア新書], 1985年)
- 『サッチャー時代のイギリス――その政治、経済、教育』(岩波書店[岩波新書], 1988年)
- Ricardo's economics: a general equilibrium theory of distribution and growth, (Cambridge University Press, 1989).
- 『政治家の条件――イギリス、EC、日本』(岩波書店[岩波新書], 1991年)
- 『思想としての近代経済学』(岩波書店[岩波新書], 1994年)
- Capital and credit: a new formulation of general equilibrium theory, (Cambridge University Press, 1992).
- 『新しい一般均衡理論――資本と信用の経済学』(安冨歩訳, 創文社, 1994年)
- 『日本の選択――新しい国造りにむけて』(岩波書店[同時代ライブラリー], 1995年)
- 『血にコクリコの花咲けば――ある人生の記録』(朝日新聞社, 1997年/朝日文庫, 2007年)
- 『智にはたらけば角が立つ――ある人生の記録』(朝日新聞社, 1999年)
- 『なぜ日本は没落するか』(岩波書店, 1999年)
- Collaborative development in Northeast Asia, translated by Janet Hunter, (Macmillan Press, 2000).
- Japan at a deadlock (Macmillan Press, 2000).
- 『日本にできることは何か――東アジア共同体を提案する』(岩波書店, 2001年)
- 『終わりよければすべてよし――ある人生の記録』(朝日新聞社, 2001年)
- 『なぜ日本は行き詰まったか』(岩波書店, 2004年)
著作集
- 『森嶋通夫著作集』(岩波書店, 2003年-2005年)
- 第1巻「動学的経済理論」
- 第2巻「均衡・安定・成長 多部門分析」
- 第3巻「経済成長の理論」
- 第4巻「資本と信用 新しい一般均衡理論」
- 第5巻「需要理論――実物と金融」
- 第6巻「リカードの経済学 分配と成長の一般均衡理論」
- 第7巻「マルクスの経済学 価値と成長の二重の理論」
- 第8巻「価値・搾取・成長 現代の経済理論から見たマルクス」
- 第9巻「ワルラスの経済学 資本と貨幣の純枠理論」
- 第10巻「ケインズの経済学 中型工業国の理論」
- 第11巻「計量経済モデルはどう作動するか」
- 第12巻「近代社会の経済理論」
- 第13巻「なぜ日本は「成功」したか? 先進技術と日本的心情 」
- 第14巻「なぜ日本は行き詰ったか なぜ日本は没落するか」
- 別巻 「自伝・略年譜・著作目録」
主要学術論文
- "On the Laws of Change of the Price System in an Economy which Contains Complementary Goods", 1952, Osaka Economic Papers.
- "Consumer Behavior and Liquidity Preference", 1952, Econometrica
- "An Analysis of the Capitalist Process of Reproduction", 1956, Metroeconomica.
- "Notes on the Theory of Stability of Multiple Exchange", 1957, Review of Economic Studies.
- "A Contribution to the Non-Linear Theory of the Trade Cycle", 1958, ZfN.
- "A Dynamic Analysis of Structural Change in a Leontief Model", 1958, Economica.
- "Prices Interest and Profits in a Dynamic Leontief System", 1958, Econometrica.
- "Some Properties of a Dynamic Leontief System with a Spectrum of Techniques", 1959, Econometrica.
- "Existence of Solution to the Walrasian System of Capital Formation and Credit", 1960, ZfN.
- "On the Three Hicksian Laws of Comparative Statics", 1960, Review of Economic Studies.
- "A Reconsideration of the Walras-Cassel-Leontief Model of General Equilibrium", 1960, in Arrow, Karlin and Suppes, editors, Mathematical Methods in the Social Sciences.
- "Economic Expansion and the Interest Rate in Generalized von Neumann Models", 1960, Econometrica.
- "Proof of a Turnpike Theorem: The `No Joint Production' Case", 1961, Review of Economic Studies.
- "Aggregation in Leontief Matrices and the Labor Theory of Value", with F. Seton, 1961, Econometrica.
- "Generalizations of the Frobenius-Wielandt Theorems for Non- Negative Square Matrices", 1961, J of London Mathematical Society.
- "The Stability of Exchange Equilibrium: An alternative approach", 1962, International Economic Review.
- "A Refutation of the Non-Switching Theorem", 1966, Quarterly Journal of Economics.
- "A Generalization of the Gross Substitute System", 1970, Review of Economic Studies.
- "Consumption-Investment Frontier, Wage-Profit Frontier and the von Neumann Growth Equilibrium", 1971, ZfN.
- "The Frobenius Theorem, Its Solow-Samuelson Extension and the Kuhn-Tucker Theorem", with T. Fujimoto, 1974, Journal of Mathematical Economics.
- "General Equilibrium Theory in the 21st Century", 1991, Economic Journal.