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− | : 戦時中は当時の[[軍国主義]]的風潮に染まりきって[[ナチス・ドイツ]]を賛美していた梓だったが、[[日本の降伏|敗戦]]によって価値観が一変し、「これからは文化の時代だから精を出して小説を書け」と三島を激励するまでになった。 | + | : 戦時中は当時の[[軍国主義]]的風潮に染まりきって[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]を賛美していた梓だったが、[[日本の降伏|敗戦]]によって価値観が一変し、「これからは文化の時代だから精を出して小説を書け」と三島を激励するまでになった。 |
: 三島は[[大蔵省]]の仕事と作家活動が重複し多忙であった。依頼された原稿の執筆で、睡眠時間は3、4時間で朝6時には起床し出勤するという状態を続けていた。文学への思いは断ちきれず、梓にどうか大蔵省を辞めて小説家で身を立てさせてほしいと繰り返し懇願したが、「馬鹿なこと言うな。絶対許さん」と梓は頑強に承知しなかった。妻・[[平岡倭文重|倭文重]]が仲を取り持とうとすると、「貴様、俺の味方をして、二人力を合わせて倅を口説くのが女房であり、母である。それを向うの味方になるということがあるかっ!」と近所中に聞こえそうな大声で怒鳴りつけたという<ref name="andou"/>。 | : 三島は[[大蔵省]]の仕事と作家活動が重複し多忙であった。依頼された原稿の執筆で、睡眠時間は3、4時間で朝6時には起床し出勤するという状態を続けていた。文学への思いは断ちきれず、梓にどうか大蔵省を辞めて小説家で身を立てさせてほしいと繰り返し懇願したが、「馬鹿なこと言うな。絶対許さん」と梓は頑強に承知しなかった。妻・[[平岡倭文重|倭文重]]が仲を取り持とうとすると、「貴様、俺の味方をして、二人力を合わせて倅を口説くのが女房であり、母である。それを向うの味方になるということがあるかっ!」と近所中に聞こえそうな大声で怒鳴りつけたという<ref name="andou"/>。 |
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平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年(明治27年)10月12日 - 1976年(昭和51年)12月16日)は、日本の農商務官僚。
略歴[編集]
1894年(明治27年)10月12日、東京府赤坂山王下で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間に長男として生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市志方町)上富木119番地。梓の名は、定太郎の恩師・小野梓に由来する。
1912年(明治45年)3月、開成中学を卒業後、2浪し、1914年(大正3年)9月に入学した第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学。1919年(大正8年)、高等文官試験を一番で合格。大蔵省を受けたが面接官の印象がよくなく農商務省(現・農林水産省)に内定する。1920年(大正9年)7月、東京帝国大学を卒業し、農商務省に入省。同期入省に岸信介(のちの総理大臣)や民法学者の我妻栄がいた[1]。岸信介とは一高、帝国大学でも同窓であった(岸は一高へ現役入学のため年齢は2歳下となる)。
1924年(大正13年)4月19日、橋倭文重(漢学者・橋健三の次女)と結婚。両親と同居する東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)の住居に嫁を迎え入れる。翌年の1925年(大正14年)1月14日に長男・公威を儲ける。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、母・夏子(なつ)は公威を両親から奪い自室で育て始める。妻・倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという。
同年の1925年(大正14年)、農商務省が、農林省(現・農林水産省)と商工省(現・経済産業省)に分割され、梓は農林省蚕糸局へ行く。同局に1927年(昭和2年)、楠見義男が配属されてくる。
1928年(昭和3年)2月23日に長女・美津子、1930年(昭和5年)1月19日に二男・千之を儲ける。1937年(昭和12年)4月、中等科に進んだ公威も引き連れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)へ転居する。これを機に、母・夏子から長男・公威を引き離す。
1937年(昭和12年)10月、農林省営林局事務官に就任。大阪営林局長となる。1941年(昭和16年)1月21日に農林省水産局長に就任するまでの約3年間、大阪に単身赴任する。
1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任する。1945年(昭和20年)10月23日、長女・美津子を腸チフスで亡くす。同年の終戦で会社は機能停止、昭和21年10月、日本薪炭株式会社となるが、昭和23年1月に政府命令で閉鎖される。
1965年(昭和40年)、期外として東京弁護士会に登録(第9682号)したが、弁護士業務はおこなわなかった。
1970年(昭和45年)11月25日、作家の長男・公威が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決する(三島事件)。
1976年(昭和51年)12月16日、肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため、虎ノ門病院で死去。享年82。12月18日、葬儀・告別式が、港区愛宕の青松寺で営まれた。
人物像[編集]
官僚として[編集]
- 農林省で梓の7年後輩の楠見義男によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。(中略)入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」[2]という。
- 楠見義男によると、梓は昼近くになると、「よう、楠見君」と声をかけ、三越の特別食堂ができると、よく梓に連れて行かれたという。夕方、時間になると「さあ、帰ろう」と誘い、帰路、明治屋でよく一緒にコーヒーを飲んだという。楠見義男は、「平岡さんはいつも砂糖を入れない真っ黒なやつ(ブラック)を飲んでいました。都会人なので農林省は肌が合わなかったのでしょうか」と述べている。また、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」とも述べている。猪瀬直樹の解説によると、梓は席にいたためしがなく、廊下をうろうろし、暇そうな事務官を見つけては油を売っている“廊下トンビ”だったという[2]。
梓と三島由紀夫[編集]
- 夏子によって息子が軟弱に育てられたという反省から、男らしく育てようと意気込み、公威が、大好きな猫をかわいがったりする光景も男らくしない癪にさわる行為と映り、梓は猫を思い切って捨てた。しかし、公威はどこからか代わりの猫を探してきて、またかわいがって飼っている。そんなことの繰り返しの末、今度、梓は猫の餌に鉄粉を混ぜて、死なそうとしたという。しかし猫は衰弱するどころか、かえって元気になっていった[4]。
- 文学に熱中する息子・公威の姿を苦々しく思った梓は、執筆中の公威の自室に突如侵入し、書きかけの原稿を破り捨て、叱り飛ばした。公威は、梓が1937年(昭和12年)10月から1941年(昭和16年)1月まで大阪に単身赴任した時期を利用して、存分に小説を執筆する。公威の妹・美津子と聖心女子学院で同級生だった紀平悌子(旧姓・佐々悌子)によると、美津子は、「かわいそうなの、うちのお兄ちゃま。(中略)お父さまは、小説家なんかにならずに役人になれっていうし、お兄ちゃまが小説を書いていると、いい顔をしないの。ひどいのよお父さまったら、お兄ちゃまの原稿用紙をみつけると、片っ端から破って捨てちゃうの。ほんとうにかわいそう。(中略)お兄ちゃまがお父さまに反抗すると、想像もつかないほど怒り狂うのよ、お父さまは」と語っていたという[5]。
- 梓は1944年(昭和19年)、公威が東京帝国大学に入る際にも文学部への進学に猛反対して法学部に進ませた。しかし、三島は後年、このことを梓に感謝した。法学部での教育が自らの文学に類稀な論理性を与えたと信じていたからである。これは、三島文学に対する梓唯一の貢献として知られている[6]。
- 三島は大蔵省の仕事と作家活動が重複し多忙であった。依頼された原稿の執筆で、睡眠時間は3、4時間で朝6時には起床し出勤するという状態を続けていた。文学への思いは断ちきれず、梓にどうか大蔵省を辞めて小説家で身を立てさせてほしいと繰り返し懇願したが、「馬鹿なこと言うな。絶対許さん」と梓は頑強に承知しなかった。妻・倭文重が仲を取り持とうとすると、「貴様、俺の味方をして、二人力を合わせて倅を口説くのが女房であり、母である。それを向うの味方になるということがあるかっ!」と近所中に聞こえそうな大声で怒鳴りつけたという[3]。
- 『仮面の告白』の執筆前の1948年(昭和23年)、三島が勤めを辞めて小説に専念したいと申し出た時には、「朝日新聞に連載が持てるような一流の作家になること」を条件として渋々ながら退職を許可した。梓は、三島が雑誌「人間」に短編を発表していた1947年(昭和22年)頃、鎌倉文庫の編集長・木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね。朝日新聞に載るような一人前の作家になれますか。どうお考えなのでしょうか」と尋ねたという。この父親の来社を木村は三島には報告しなかったという[7]。
- 1946年(昭和21年)12月14日、太宰治を囲む会に出席した帰り道、練馬から渋谷駅まで三島と一緒だった中村稔は、渋谷駅のハチ公口を出ると、そこに三島の父親が迎えに来ていたと述べている。「終電車に近い時刻で、いまとなっては想像しにくいかもしれないけど、殆んど人通りがなかった。私たち三人は、現在の東急デパートの辺りをとおって、三島氏の松涛の住居まで、三島氏の父君が旧い一高の出身だ、というような話をお聞きしながら、歩いていった。それから私は駒場の寄宿舎へ帰ったわけだが、その間、まるで嫁入り前の娘みたいだなあ、と私は思っていた。何時帰るか分からない息子を寒い真冬の深夜、いつまでも駅に立って待っている父親は、私にはじつに異様にみえたのである」[8]と語っている。
- 風貌が永井荷風を思わせたことから、三島からは蔭で“荷風先生”と呼ばれていた。ちなみに、永井荷風とは夏子の家系での遠い親戚にあたる。なお、三島は自身の件で、父親に面会する相手には、手紙で、「父は変わり者なので、無礼はご寛容下さい(大意)」と述べた事もあったという。梓は晩年は、近場の食べ歩きを趣味としていた。
- 三島の没後の1972年(昭和47年)に、回想録『伜・三島由紀夫』を文藝春秋から上梓(文春文庫で1996年(平成8年)再刊)。たくまざるブラックユーモアと露悪的な筆致が話題を呼んだ。続編『伜・三島由紀夫 没後』(妻・倭文重との回想対談も含む)も、1974年(昭和49年)に出している。
性格・人柄など[編集]
- 野坂昭如著『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』111 - 112頁によると、 「梓は小心な、いわゆる役人気質、開成中学からの受験に、二度失敗すると、神経衰弱風となり、三島の文学志向に異常なほど反対した梓だが、この時期、文芸、哲学書に親しんでいる。彼もまた、性格の極端に対立する両親に悩まされたといえないでもない、もっとも父はほとんど不在、梓の中学在籍時と定太郎の長官時代がほぼ重なるのだが、梓は、“後四年で家は華族だ”と父の地位を鼻にかけ、友人に顰蹙(ひんしゅく)されている」という。また、「梓は、定太郎について、“酒よし女よし、一世紀ほど時代のずれた人物”といっているが、梓の女遊びもかなりのもの、十三年から十六年にかけて、大阪営林局長在職中、ダンサーに入れ揚げ、神戸福原遊郭の小店に、馴染みがいた。また宗右衛門町、花隈、先斗町の茶屋にも足を向けて放恣にふるまっている」[9]という。
- また、同著146頁によると、「父はほとんど家にいない、母にかえりみられず、梓も、人間をよく知らぬまま育った、情緒面で、まったく乾き切った人柄、五ヵ月足らずの本省水産局長で退官の経歴も、一つにはそのせいといわれる。劣等意識から、上に楯つくのはいいが、下の者に対しきわめて傲慢。親族づき合いは、エリートを輩出した母の生家に恭しく、父の系統には侮蔑の限りをつくした。梓の大阪時代、下僕の如くつくし、金銭的面倒をみた従弟に対してのみ例外だったが、しかし彼が戦後落ちぶれて、少々の援助を頼んだ時、ケンもホロロに追い返し、ついに屑屋で生計を立てると聞いて、“平岡家の血族が屑屋をやるとは許せぬ。上京せよ”と命じ、結局、何の手助けもしないまま、屑屋が立ち行かなくなると、一言、“それでよし”といったのだ」[9]という。
- 増村保造(三島が主演した映画『からっ風野郎』の監督)は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという[10]。
家族 親族[編集]
- 父・定太郎(内務官僚、第3代・樺太庁長官)
- 母・夏子(東京府士族・元大審院判事永井岩之丞の長女。幕臣・玄番頭・永井尚志の孫)
- 妻・倭文重(漢学者・橋健三の次女)
- 長男・公威(作家)
- 長女・美津子
- 次男・千之(外交官)
- 孫
- 紀子(演出家)
- 1959年(昭和34年)6月2日生。1990年(平成2年)9月24日、冨田浩司(外交官)と結婚し、富田との間に二女一男を儲けている。
- 威一郎(元実業家)
系譜[編集]
- 平岡家
平岡家系図
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━平岡利兵衛━利兵衛━太左衛門━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━太吉━━━┓ ┣━┳━萬次郎━━┓ 寺岡つる━┛ ┃ ┣┳こと ┃ 桜井ひさ━┛┗萬壽彦 ┃ ┣━定太郎━━┓ ┃ ┣━梓━┳━公威(三島由紀夫)━┓ ┃ 永井なつ━┛ ┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━┛┃ ┃ ┃ ┗━威一郎 ┃ ┣━美津子 ┣━久太郎━━┓ ┗━千之 ┃ ┣┳義夫 ┃ (?)━━┛┗義一 ┃ ┗━むめ━━━┓ ┣┳義之 田中豊蔵━┛┣義顕 ┣繁 ┗儀一
参考文献[編集]
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
- 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- 平岡梓『倅・三島由紀夫』(文藝春秋、1972年)
関連人物[編集]
脚注[編集]
- ↑ 我妻栄『文章のスタイル』(ジュリスト226号 1961年5月15日号に掲載)
- ↑ 2.0 2.1 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- ↑ 3.0 3.1 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)
- ↑ 平岡梓『倅・三島由紀夫』(文藝春秋、1972年)
- ↑ 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年
- ↑ 三島由紀夫『法律と文学』(東大緑会大会プログラム、1961年12月)、三島由紀夫『私の小説作法』(毎日新聞 1964年5月10日に掲載)
- ↑ 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ、1982年)
- ↑ 中村稔『三島由紀夫氏の思い出』(ユリイカ 1976年10月号に掲載)、中村稔『私の昭和史 戦後編上』(青土社、2008年)にも収む。
- ↑ 9.0 9.1 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- ↑ 藤井浩明「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)