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男児は同地区に住む[[放射線科]][[医師]]の次男で、当時11歳であった。男児は[[祖父]]の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。少年が男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、多井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、[[身体障害者]]のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年が直接知り合ったわけではなく、少年の一番下の弟が同級であったからである。その際に少年の家で飼っていた[[カメ]]に男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。 | 男児は同地区に住む[[放射線科]][[医師]]の次男で、当時11歳であった。男児は[[祖父]]の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。少年が男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、多井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、[[身体障害者]]のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年が直接知り合ったわけではなく、少年の一番下の弟が同級であったからである。その際に少年の家で飼っていた[[カメ]]に男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。 | ||
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殺害は[[絞殺]]であったが、当初は腕で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、[[ナイフ]]で殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、[[撲殺]]を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていき、それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。殺そうとするが死なない男児に対し、少年は腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。この時、少年の手には首の肉にギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。ようやく死んだと思い、その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。 | 殺害は[[絞殺]]であったが、当初は腕で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、[[ナイフ]]で殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、[[撲殺]]を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていき、それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。殺そうとするが死なない男児に対し、少年は腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。この時、少年の手には首の肉にギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。ようやく死んだと思い、その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。 |
2015年6月6日 (土) 16:11時点における版
酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)は、神戸連続児童殺傷事件の犯人である。
1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生東真一郎(以下「少年」と称す)による連続殺傷事件。別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。この事件で、2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。
目次
概要
数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。
警察は聞き込み捜査の結果、少年が動物への虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。
一方で、中学生には到底不可能な犯行とされること、警察が少年に虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性を指摘する者もあるが犯人が否定している。
事件の経緯
第一の事件
1997年(平成9年)2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴムのショックレス・ハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。
犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。
この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第二・第三の事件は防げたのではないか」、「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。
なお、この事件に関しては被害者の家族の要望もあり、非公開とされていた。
第二の事件
3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学4年生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月23日に脳挫傷で死亡した。
さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。ナイフの刃先は胃を貫通して、背中の静脈の一歩手前で止まっていた。仮に静脈まで達していたら、救命は不可能だったという。また、手術の時に、1.8リットルの輸血を要した。
第三の事件
5月24日
5月24日午後、神戸市に住む男児を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。
少年は人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た。
男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。少年が男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、多井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年が直接知り合ったわけではなく、少年の一番下の弟が同級であったからである。その際に少年の家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。
咄嗟に「○君なら、僕より小さいので殺せる」と思い、男児の方へ近づいた。少年は男児に対し「向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」とタンク山に誘い出し、その場で絞殺して遺体を隠した。
殺害は絞殺であったが、当初は腕で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、ナイフで殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていき、それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。殺そうとするが死なない男児に対し、少年は腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。この時、少年の手には首の肉にギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。ようやく死んだと思い、その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。
男児をそのままにして少年は登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、5分ほど走らせて、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこで、糸ノコギリと南京錠を万引きした。そして、山へ引き返し、アンテナ施設を取り囲んでいるフェンスの入り口に掛けられている古い南京錠のUの字部分を金鋸で切り、死体を施設の中に運び入れた。金鋸をフェンスに沿った溝側にたまっている落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。
友人と4時にビデオショップ「ビブロス」の前で待ち合わせしていたため急いで向かい、4時30分ごろに着いた。その後家に帰ると、少年の母が「○君がおらんようになったみたいよ」と言うと、少年は「ふうーん」と返事をした。
午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。
5月25日
少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、午後1時から3時の間に、男児の首を切るために自宅を出た。少年は男児の頭部を入れるため、黒色のビニール袋2枚を準備する。ケーブルアンテナ施設の枯葉に隠していた金鋸を運び出すために、学校で使用している補助カバンも持って出る。さらに、「龍馬のナイフ」と呼んでいる鞘付きのくり小刀を一本、ジーパンのポケットか腹に差して持って出た。
検事調書では、「ママチャリに乗って、直接「タンク山」へと向かいました」と言っているが、少年の父親によれば正午前後にコープ北須磨の自転車置き場で出会っており、ビブロスの方向に走って行ったという。タンク山はビブロスと反対方向にあるが、ビブロス方向に走って行ったことに関して、父親は「よく思い出せません」とも話している。
黒いビニール袋の上に置いた男児の遺体を、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切ると、ノコの歯が細かったためか、スムーズに切れ、切り口が見えた。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った。その後、しばらく地面に置き、正面から鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸った。首を切断して射精した。
ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少年には見えた。さらに、男児は少年の声を借りて、少年に対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった、と供述している。それで、少年は男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。すると、男児の首はさらに文句をいった。少年は、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬のナイフ」で男児の両目を突き刺し、さらに、2、3回ずつ両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。その後は文句を言わなくなったという。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。少年は血を飲んだ理由として、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している。
少年は、人目につかない場所でもう一度じっくりと鑑賞しようと思い、タンク山を下りて、。入角ノ池の水辺の木の根元でビニール袋をひらいて頭部を眺めた。思ったより感動はなかったため、2、3分ほど眺めたあと、再びビニール袋にもどし、木の根元に隠した。首の切断に使った金鋸は、友が丘西公園のとなりにある向畑ノ池に投げ捨てた。
5月26日
男児の行方不明事件として午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始。警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった。
少年は昼過ぎに「首をじっくり鑑賞したい」と池へ向かったが、興味を失ったため、男児の頭部を家に持ち帰る。そして、土や木の葉で汚れた頭部を風呂場で15分ほどかけて洗って、自分の部屋の天井裏に隠した。少年は首を洗った理由を「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱ等を洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」と供述している。少年は首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。
少年は「警察は自分の学校に首を置くはずはないと思い、捜査の対象から逸れると考えた」と、友が丘中学校の正門前に男児の首を置くことを決めた。また、ただ首を置くだけでは捜査が攪乱できるかどうかわからないと考え、「偽りの犯人像」を表現する手紙を咥えさせようと考えた。漫画「瑪羅門の家族」第3巻の目次から引用したり、別の本で覚えていた言葉を組み合わせて、手紙を書き上げた。
さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOLL–
5月27日
5月27日未明、頭部が入ったカバンを自転車の前カゴに入れて、中学校の校門前に遺棄した。正門前に頭部を置いて、手紙を口に咥えさせ、その光景を5、6分見ていた。少年は初め、正門右側塀の上に首を置こうとしたが、据わりが悪く、地面に落ちたため「正門の前だと一番目につくところだし、地面なら据わりもいいだとろうと思い、正門の鉄扉の中央付近に顔を道路側に向けて置きました。手紙を取り出し"酒鬼薔薇聖斗"の文字が見えるように縦に『酒』いう文字の方を口にくわえさせたのです」と供述しており、その時の光景を「学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです」と供述している。また、この時少年は「性的興奮は最高潮に達し、性器に何の刺激も与えてないのに、何回もイッてました」という。少年はのちにその時の光景を「作品」と呼んでいる。
警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。
5月28日以降
6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。「鬼薔薇」と聞いたのは、5月27日に児童相談所でニュースを見ていた時である。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。声明文を書くにあたって、少年は次のような犯人像をイメージして書いたという。
高校時代に野球部に所属したことがある三十歳代の男。父親はおらず、母親からは厳しいスパルタ教育を受けながら、学校では相手にされず孤立している。学校関係の職場で働いていたが解雇され、今は病身の母親と二人暮らし。学校時代にいじめにあったので、自分を「透明な存在」と思うようになり、そんな自分を作り出した義務教育を怨んでいる。被害妄想と自己顕示欲が人一倍強く、社会を憎み、密かに復讐を考えている。
—
しかし、少年は「はっきり言って、調子づいてしまった」と供述しており、「新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と逮捕後供述している。捜査関係者によると「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」という。また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについて少年は「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」と供述しているが、少年が浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていたという。なお、少年の作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」というものであり、そのために少年の逮捕状を請求出来なかったという。
神戸新聞社へ
この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。嘘偽りないボクの本名である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性 としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。最後に一言 この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。———— ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ———— –
6月28日、現場近くに住む少年に朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供。少年は当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際には少年の筆跡が一致したという証拠はなかった)。午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑で少年逮捕。同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた。
少年逮捕以降の動き
- 6月28日、少年逮捕。
- 6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年を男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。
- 6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
- 7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。
- 7月2日、少年の顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
- 7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索を開始。
- 7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池から金槌が発見される。
- 7月9日、別の金槌2本と細刃のナイフが向畑ノ池で発見される。3月の通り魔事件と2月の殴打事件に使われた凶器と特定。
- 7月11日、少年をバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。
- 7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年を再逮捕。
- 7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年を送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
- 7月19日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。
- 7月21日、警官2名が、少年の二人の弟に対し、少年が再逮捕された通り魔事件について、少年の学校での行動、言動などを聞く。特に少年の母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
- 7月24日、警官が少年の両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。切断された男児の首を校門の塀の上に置けなかったことに関し「作品を完成できずに悔しい」と供述した旨の報道がされる。午後、少年を伴い通り魔事件の実況見分。
- 7月25日、神戸地検が、男児殺害、通り魔事件で神戸家裁に一括送致。午後には少年は神戸家裁から神戸少年鑑別所に移送。午後、須磨署捜査本部が解散。
- 8月1日、神戸家裁により少年の審判開始が決定される。
精神鑑定結果と犯行の動機
成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。
精神鑑定結果として下記に示す少年の特徴が解明された。
- 脳のX線検査、脳波検査、CTやMRIによる脳の断層検査、染色体の検査、ホルモン検査に異常は無い。
- 非行時・鑑定時とも精神疾患ではなく、意識は清明であり、年齢相応の知的能力がある。
- 非行時・鑑定時とも離人症状と解離傾性(意識と行為が一致しない状態)があるが、犯行時も鑑定時も解離性同一性障害ではなく、解離された人格による犯行ではない。
- 未分化な性衝動と攻撃性の結合により、持続的で強固なサディズムがこの事件の重要な原因である。
- 直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者であり、その素質はこの事件の原因の一つである。
- 自己の価値を肯定する感情が低く、他者に対する共感能力が乏しく、その合理化・知性化としての虚無観や独善的な考え方がこの事件の原因の一つである。
- この事件は長期的に継続された多様で漸増的に重症化する非行の最終的到達点である。
少年は小学校5年の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった。少年自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、少年は性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながらオナニーをして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、少年は動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。少年はその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。
少年は鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。
精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人のパーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。
その後の少年の処遇
- 1997年(平成9年)10月13日、神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
- 1999年(平成11年)、第二の事件で死亡した女児の遺族と少年側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
- 2001年(平成13年)11月27日、治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
- 2002年(平成14年)7月、神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
- 2004年(平成16年)3月10日、成人した少年は少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
- 2005年(平成17年)1月1日、少年の本退院が認可される。
- 2005年(平成17年)5月24日、被害者少年の八周忌。少年が弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
- 2007年(平成19年)3月、第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、少年の両親が出版した本の印税の他、1ヶ月に少年から4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。
少年の更生
法務省は従来の矯正教育計画を見直し、収容期間を2年以上に延長した新課程「G3」を新設し、関東医療少年院は、精神科医や法務省教官など専門家で作るプロジェクトチームを編成した。
精神鑑定で家庭における親密体験の乏しさを指摘されたのに対し、関東医療少年院は男性の主治医を父親役、女性の副主治医を母親役に配するなど「疑似家族」を作り上げるという前例のない治療体制が組まれた。更生は一定の効果を見せたように思えたが、少年が入院して1年ほど経った頃、少年院の工作の実科(授業)で、新聞広告のチラシを切り抜いて画用紙に貼り付け、コラージュを制作した時に、少年は乳児の写真を目や耳、手足など部位別に一つ一つハサミで細かく切り刻んで、それを画用紙にわざとバラバラに貼った作品を作って、「精神と肉体の融合」の題を付けて発表した。また、少年が「理想の母親のような」人と慕う女性精神科医について、院生の一人が「色っぽい白ブタ」と発言し、その途端、少年は物凄い形相で激昂して、近くにあったボールペンを逆手に持って、院生の目を突き刺そうとした。少年院関係者は「この言葉によって、少年の殺意の引き金がひかれてしまい、それまでやっと積んできた矯正教育の成果がパーになってしまったわけだ」と語っている。また、少年自身が少年院仲間に「いくら遺族の手記を読んでも、薬を飲んでも、治らないんだよ。僕は性格が異常なんだから……」「闘争と破壊こそ真の世界の姿だが、少年院ではいい子にしていなければ出られないから気をつけなくちゃ……」と発言している。
2001年11月、東北中等少年院に移送された後に、院生からいじめを受け、さらに院生の一人がたまたま教官の持っていた書類を盗み見たところ、少年が偽名であることが発覚。「お前、まさかあの酒鬼薔薇なのか」と問いかけると、少年がニヤッと笑って頷いたという噂がひろまり、少年の正体が一部の収容者にばれたという。その後、いじめが過激になり、2002年初夏に突然、半裸状態で意味不明の奇声を発し、職業訓練で使うカッターナイフを振り回し、周りを威嚇し始めたという。教官らが駆けつけ、ほかの院生を連れ出し、少年を取り囲んで説得を始めたが、カッターナイフで自分の性器を切り付けたという。少年は直ちに個室に軟禁されて、事情聴取を受けたが、なかなか興奮が冷めず危険なうえ、動揺が激しく、何を言っているのか分からなかったため、最終的に「奇行」と断定された。
この騒動の後、神戸家裁が「少年の犯罪的傾向はまだ矯正されているとは言えない」と判断を下し、2004年末まで少年院収容継続を決定した。しかし、関東医療少年院は2003年3月に少年の仮退院を申請している。被害者からは「神戸家裁の判断から半年余という短い期間で突然、少年が変身したとでも言うのか」という批判や疑問の声が上がった。
少年の現在
一橋文哉が、2004年秋に法務省幹部に取材を行ったところ、「ある団地の一室で法務省関係者と同居し、一緒に炊事や買い物を行うなど社会勉強中です。少年院で取得した溶接の資格を生かし、仮退院の数日後から毎朝8時、篤志家の一人が経営する工場に歩いて出勤し、仕事ぶりは極めて真面目。夕方5時に退社後は、保護司宅で面談を受ける日々です。ほかに毎週1回、精神科医のカウンセリングを受け、10日に1回程度は、母親とも会っているようです」と語っている。また、法曹関係者は「別の身元引受人と養子縁組して名前を変えたほか、出生地や学歴など偽のプロフィールを用意し、同僚や付近住民も正体を分かっていません。年齢も22歳になり、少年院で毎日、5階までの階段ダッシュを15往復、腕立てと腹筋を各100回こなし、身長170センチ、体重70キロと心身ともに逞しくなった。事件当時の写真を見た人でもまず、今の彼は分からないでしょう」「犯罪者予防更生法で1週間以上の旅行は許可が必要など、ある程度の制約は受けていますが、酒は飲めるし、好きなテレビゲームに嵌まるなど基本的に自由な生活を送っています。しかも04年末までの保護観察期間が過ぎれば、同居者も姿を消し完全フリーになるんです」と語っている。
少年の居住地や勤務先について、法務省は「彼の更生には世間の温かい理解と協力が重要だ。公表は支障をきたす」とノーコメントを通し、マスコミや市民団体に、意図的に偽情報を流しているフシがあるという。全国各地で「酒鬼薔薇が都内の保護司宅で新しい生活を始めた」「埼玉県に住む身元保証人と養子縁組し、全くの別人に生まれ変わった」などの情報が乱れ飛んだ。少年が住んでいた神戸市でも、地元住民が「少年が家族とともに舞い戻るのではないか」と疑心暗鬼に陥っているという。
一橋の取材によると、少年の更生プログラムの病理診断の欄に「現時点にあっても、少年の病理は『寛解』段階に過ぎない」とあり、「現時点」は「退院しても問題ない」とされる「総括期」を指しており、少年の性的サディズムは治癒しておらず、退院直前でも再発する可能性が十分あることを、法務省が認めていたことになっている。また、前述のように退院間近の少年が少年院で問題を起こして、誰もが「性障害が完治していなかった」と医療少年院に戻されると思っていたが、「何しろ、この段階で少年を送り帰そうものなら、仮退院はパー、国家の威信をかけた更生プログラムを組んだ法務省の面子は丸潰れになる。そこで院内には厳重な箝口令が敷かれ、何と少年の奇行はウヤムヤになり、社会復帰のための最終的な研修は予定通り終了したことになってしまった。上層部は保身に走り、現場の少年院も『やるべきことはすべてやった。こうなれば一刻も早く、少年を手放したい』という腫れ物に触るような弱腰姿勢が見え見えだった。もっとも更生したかどうかの決定的な証拠など、何もないからね」と法務省幹部が語っており、一橋は「冗談ではない。人間の一生や人々の安全というものは、役人の面子や保身で決める話ではあるまい」と批判している。
女医を襲った!「少年A」
2005年1月1日、神戸児童連続殺傷事件の「少年A」こと東真一郎(22)が、ついに関東医療少年院を正式に退院した。はたして病気は完治したのか。事件は2004年12月下旬に起こった。東真一郎が、カウンセラーの精神科の女医を暴行しようとした。本来ならば、即刻、仮退院は取り消しのはず。だが、その事実は密かに闇に葬られ、東真一郎は社会に放たれた。
2004年12月24日、法務省は「少年Aの保護観察が31日で終了し、年明けに完全に社会復帰する」との見通しを発表した。
はたして東真一郎の病気は完治したのだろうか。被害者のみならず、一般の関心がその点に向かうのは当然である。しかし、法務省は、「被害者への贖罪の気持ちを持ち続けている。定職に就き、更生に向けた努力を重ね、精神的にも安定した生活を送っている」
と、そっけない説明を加えただけだ。加害者の人権に配慮するあまり、具体的な居住地や仕事の内容、生活ぶりなどには一切触れていない。事件の被害者にも納得できる説明はなかった。
「昨年12月中旬頃、神戸の保護観察所で、法務省の方から最終報告という形で少年の現状について一通りの説明を受けました」
と話すのは、東真一郎にナイフで刺されて重傷を負った少女(当時9歳)の父親の堀川耕一郎さんである。
「精神的な面でも何ら問題がなく更生していると聞きました。ただし、法務省の人たちは絶対に具体的な話をしてくれないのです。我々が突っ込んだ質問をしても、それについてはお答えできませんと繰り返すばかりです」
堀川さんは半信半疑で聞くしかなかった。
「法務省の説明では、関東医療少年院からずっと彼を担当している精神科のドクターが、定期的にカウンセリングを行ってきた。そのドクターが、今後、一切、薬物の投与も必要ない、本人がそういった形で更生しているので、再犯の恐れはない、とお墨付きを与えたということでした。我々としては法務省の言うことですから、100%信用せざるをえない」
だが、それで被害者の不安が払拭されたわけではなく、不信感が残っただけだ。
「法務省の方とは、昨年8月にも一度お会いして話を聞きました。その8月時点と12月では、相も変わらず同じ話を繰り返しているだけなんです。本人は更生しています、12月いっぱいで我々の手を離れます、と。こう言っては何ですが、野放し状態になるわけですよ。ですから我々は、8月のときにも、可能であれば、年が明けてからも監視のようなものを幾分でも継続できないかとお願いしてみたのです。が、それに関しては一切できない、と。代わりにボランティアの人たちがどういう状況で生活しているのかということを定期的に我々の方に報告いただけるということでした。本当にお役人というか、そうしたことを淡々と言うものですから、決められたことは仕方がないんだな、と感じただけでした」
少年犯罪としては異例の7年余にわたる入院期間だった。東真一郎は、平成9年10月に東京都府中市にある関東医療少年院に収容された。平成13年11月から1年間、宮城県の東北少年院で職業訓練を受けた後、再び関東医療少年院に戻り、昨年3月にいよいよ社会復帰に向けて仮退院。法務省は、年明けの退院までの手続きを、滞りなく進めることだけに腐心していたかのような印象を受けるのだ。
事件はその最中に起こっていた。
東真一郎が心を開いた相手
仮退院中の東真一郎の居住地について、法務省は 「近畿地方以外」としか発表していないが、彼は、首都圏近郊で生活している。法務省関係者はいう。
「彼は、ひきこもりや不登校の子供たちを支援し、就労などの世話をする民間の団体の関係先にいます。その団体には協力企業が何社かある。その団体の自立支援プログラムに沿って、彼はそのうちの1社で働いています」
東真一郎には、保護観察官が24時間体制で張り付いていた。また、関東医療少年院で担当だった精神科の女医のカウンセリングを、1週間に1度の割合で受けていた。退院に向けて、順調に回復しているように見えたのだろう。だが、それは彼を更生させたいという当局の希望的観測に過ぎなかった。
昨年12月のことである。
「実は、東真一郎が、カウンセリングの最中に、その女医を押し倒して暴行を働こうとしたのです」と、先の法務省関係者は打ち明けるのだ。
「それで大騒ぎになり、東真一郎本人も精神的に非常に不安定になったので、急遽、精神病院に入院させた。とてもじゃないが、社会復帰させられる状態ではなかった」
東真一郎は、居住地に比較的近い国立の精神病院にひとまず入院させられた。ところが、そこでまた問題が生じたという。
「東真一郎を入院させた直後にわかったのですが、昨年秋に、その病院の井戸からヒ素が検出されて問題になり、新聞沙汰になったことがあった。ヒ素の件でまたマスコミが取材に来たら、東真一郎が入院していることも漏れてしまうんじゃないか、という恐れがあり、法務省や警察庁の担当部局は転院先を探すので、一時、てんやわんやの騒ぎになった。結局、その病院は出て、別の病院に転院したのです」
東真一郎は、どうしてその女医を襲ったのか。
「彼は、その女医に心を開いており、医者と患者を超えた信頼関係があった」
と話すのは、関東医療少年院の関係者である。
「東真一郎の性的サディズムなどの異常な性格は、母親との関係が大きく影響していた。彼は母親を憎んでおり、心を閉ざした彼を治療するためには、職員が擬似家族的な関係を作ってカウンセリングに当たる必要があったのです。そのために彼女がスタッフとして加わった。東真一郎の母親より3歳年下ですが、細身で髪の長い面長の女性で、年齢よりずっと若く見える。松本零士のマンガに出てくる女性のような美人です。彼女が親身になって接したおかげで、彼は心を開くようになった」
別の関係者もこう話す。
「彼は最初は女医を母親のように思っていたが、やがて恋心に変わっていったようだ。院生の話によれば、その女医に『キスしてください』と頼んだことがあったし、院生の1人が東真一郎の前で女医の悪口を言ったら、東真一郎は本当に怒って、ボールペンでその院生を刺そうとしたこともあったのです」
東真一郎の性的関心が、残虐行為からようやく異性に向けられるようになった。彼にとっては、閉ざされた医療少年院の生活の中で、深い触れ合いを持った唯一の女性だったのである。
攻撃性に性衝動が結びついた
だが、そうした性衝動は、必ずしも東真一郎の病気が完治したことにはならない。帝塚山学院大教授の小田晋教授は語る。
「カウンセリングの過程で、感情転移ということが起こる。精神分析的な療法をやる際に、心の絆を作るために母親のような愛憎を与えようとすると、相手は本当に好きになってしまうんですね。しかしその感情に母親役の女医は当然応えられなくなってしまう。東真一郎にしてみれば、裏切られたという気持ちになって、そうした行動に出たのだと思う。彼は、東北少年院で、他の院生から、からかわれて、自分の性器を切断しようとした一件があった。これは衝動性に、性的なことが絡んでいる傾向が切れていないということです。攻撃性に性衝動が結びついている。女医に手を掛けたということは、まだ性と結びついた衝動性が治っていないということなのです」
精神科医の町澤静夫氏もいう。
「女医を襲ったという行為は、東真一郎が性的な感情のコントロールを十分にできていないととらえることができる。仮に性的サディズムが克服されていても、それでは、私たちは安心することはできない。また、性的サディズムがある一方で、普通の性愛もあるということは非常によくあるケース。現在の状態は、性的サディズムが心の奥に隠れて表に出なくなっただけということも十分ありえます」
少年に関するエピソード
少年が在籍していた友が丘中学校の当時の校長である岩田信義は、少年には問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かったと証言している。
他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年が在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという。
担任の話によると、少年の表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという。
しかし、これら少年の行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している。
中学校では入学早々から繰り返される少年の問題行動に手を焼いていた。少年の保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年を指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。
それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年ではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と静止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。
1996年(平成8年)5月11日、当時、中学2年生の少年は母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年は両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年はその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年が母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。
少年は、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「竜が台の通り魔事件の犯人にまちがいない」と被害者の同級生がいいふらしていたためと少年の仲間は答えているが、少年は「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第一弾として学校を休むことにした」と書いていた。
加害者である少年の父親はその後文藝春秋より『「少年A」この子を生んで…』を刊行している。事件後、父親は親戚の元へ身を寄せ、また離婚して苗字を改名した。他にも弟二人がいたが、追及を避けるため、別の土地で暮らす手段が採られた。
ある時、被害者への謝罪に関し、警官は少年の父に対しこう質問した。「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」-これに対し、少年の父は答えられなかった。警官は、父親に、加害者家族の苦痛を斟酌した上で、それ以上に被害者の家族が苦しみながら生きていることを諭した。
マスコミ報道の様子
被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。
犯人像
読売新聞大阪本社版の朝刊では「劇画やアニメの影響を受けた無口な犯人」と報道した。言語学者からは、挑戦状に出てくる難しい熟語は劇画では頻繁に登場し、長文ながら口語調がほとんどない点について、犯人が日頃会話が少ないことの表れと分析している。
朝日新聞には多数の意見が寄せられ、「高い教育程度」「孤独な30代」「複数の可能性」などの犯人像が報じられた。
犯行声明文の文章の組み立ても論理的なことから高い教育を受けている。
—弁護士
年齢は30歳代と思う。10代や20代の若者では、声明文にあった「銜える」などの漢字を使おうという発想を持たないだろうし、逆にあえてこの漢字を使ったところに若さが抜けない30代ならではの背伸びを感じる。
—作家
単独犯人説が強いが、私はあえて知的レベルの高い複数犯と考える。
—作家
南京錠
5月30日付の朝日新聞大阪本社版の朝刊で「金物店に同型の南京錠求める不審な男性」が浮上と報道した。男性は30代半ばで身長165センチ、ベージュの作業着に紺色のズボンと報道。
読売新聞でも、アンテナ基地の南京錠と同じメーカーの錠を求めて5月初め、垂水区内の金物店を訪れた男は30-40歳と報道。
しかし、6月23日付の産経新聞で、捜査本部が南京錠を購入するための金物店を訪れた二人の男性は無関係と報道した。したがって、「南京錠を探していた男」の線は無くなった。
スクーター
6月2日付の朝日新聞で「不審なスクーター目撃、『タンク山』へ向かう」という見出しが掲載された。記事によると、タンク山の入り口付近で遺体が発見された前日の5月26日夕方、スクーターで山に向かう不審な男性が目撃されているという。運転していた男性は40代で身長170センチ、眼鏡はかけておらず、白色のジャンバー姿だったという。しかし、スクーターの男性が名乗り出たため、事件とは無関係と判明した。
ところが、6月7日付の毎日新聞で、再びスクーターの男が浮上。頭部が遺棄された時間帯に目撃された不審なスクーターがあるという情報が寄せられた。当日は晴れていたにもかかわらず、紺色の雨合羽上下を着用し、つばのある黒いヘルメットをかぶっていた。この男が、前かごから黒いポリ袋を落として走り去ったという。その後の報道で、この男は黒いポリ袋をさげて歩いていた男と同一人物ではないかとされた。
一旦は車説が浮上したためスクーター説がなくなったが、再浮上。6月23日付の朝日新聞で、「二輪車タイヤ痕採取」と報道。頭部が置かれる直前の5月27日早朝、正門付近を猛スピードで走るスクーターが目撃されているころが判明。黒のブルーバードに加えてスクーターについても事件に関連している疑いがあるとみて特定を急いでいる、と報道された。しかし、この後にスクーターに関する新たな目撃談は取り上げられなかった。
車
犯行に使用された車として多くの目撃情報が寄せられたのが「黒のセダン」と「白い車」であった。不審車の目撃情報を追ったのは、被害者と犯人が路上で一緒にいるところを見たものがいないこと、被害者がいつも愛用している自転車を使わなかったこと、などがら犯人が車を使って拉致したと考えたからである。
まず、浮かび上がったのは「黒のセダン」で、新聞各社が、被害者の頭部が遺棄された5月27日午前5時過ぎ、友が丘中学校正門前で不審な旧式の黒い乗用車が目撃されている、と報じられた。さらに、被害者が行方不明になった5月24日の昼過ぎにも、自宅マンション近くに黒っぽい不審な乗用車が停止しているのを近くの住民が目撃していた。
また、胴体部が発見された「タンク山」でものふもと付近の市道でも、事件前の5月22、23日の夜間に二日続けて黒い黒い乗用車が停止しているのを近くの主婦が目撃したと報道。この「黒のセダン」が犯行に使われた可能性が高いとして一気にクローズアップされた。タンク山のふもと付近では、不審な中高年の目撃証言もあり、毎日新聞によれば、男は35-40歳、身長160-170センチで短髪のがっちり形で、目がぱっちりしているのが特徴だという。
そして、6月12日付の朝日新聞大阪本社版で、被害者の自宅周辺などで相次いで目撃された不審な黒い乗用車について、捜査本部は、角張った車体の特徴などから、車種を日産の旧型ブルーバードと特定した、と報道した。
その一方で、注目されたのが「白い車」だった。頭部が発見された5月27日早朝、友が丘中学校付近で白いワゴン車が目撃されているという。6月9日付の産経新聞では、最も重要視しているのは白っぽい車を使った身長170センチ前後、20-40歳の男と報道。「黒のセダン」と「白のワゴン」の2台の不審車両の割り出しが犯人逮捕につながると各社は取材につとめた。
黒い袋の男
マスコミは逮捕直前まで、「黒い袋の男」を追いかけていた。5月28日付の産経新聞夕刊で、30歳くらいの不審者が頭部が発見された発見された中学校正門前で目撃されたという情報が報じられた。目撃された男は30歳代くらいで身長170-180センチで白っぽい上着を着用。普段歩かない車道を歩いていたため不審に思ったという。
5月31日付の読売新聞朝刊では、中学通用口にゴミ袋を持ってかがみ込んでいる不審な30歳代の男について報道。
6月3日付の朝日新聞夕刊で「中学校校門近くに黒い袋持つ男」の目撃証言を掲載。男は40歳前後、身長170センチぐらい。続けて6月9日付の朝刊に「黒い袋の男、3度目撃」と報じた。目撃された日はゴミ収集日ではないこと、男の行動は極めて不自然として捜査本部も強い関心を寄せているとし、犯人である可能性が高いことを匂わせたという。
6月24日付の朝日新聞で、「『黒い袋の男』最重要視」と報道。
犯人像として浮かび上がったのは「30-40歳、身長170センチ前後」と各社ともだいたい同じだったが、最も具体的なのは読売新聞だった。6月13日付朝刊で、「目撃証言のゴミ袋男はスポーツ刈り 後ろ姿の絵作成へ」とゴミ袋の男がスポーツ刈りだったと報じられた。新聞によれば、捜査本部は数回に及ぶ事情聴取の結果、スポーツ刈りで、がっちりした体格の男との証言を得たという。2日後には、行方不明になる前後にタンク山にいた不審な男の目撃証言も取り上げた。この男の特徴も角刈り風の短髪、がっちりした体つきで目付きが鋭く、ゴミ袋の男と酷似している、と報じている。
産経新聞でも、ゴミ袋の男は身長170センチ前後の筋肉質で横わけできないほどの短髪であると報道。さらに、新たな目撃証言では、がっしりした体格でホームベース形の角張った顔、短髪という具体的な犯人像が浮かび上がった。「ホームベース形の角張った顔」「横わけできないほどの短髪」という目撃情報が加わることにより、犯人像がどんどんひとり歩きした。
6月24日付読売新聞では、兵庫県警捜査本部は犯人像を「二十代から四十代前半までの身長一メートル七〇前後、スポーツ刈りの男」との見方を強め、不審者を約40人に絞りこんだ模様、と報じている。
テレビ、週刊誌も新聞同様に「黒のブルーバード」「白いワゴン」「30-40歳の短髪男性」などをキーワードに犯人像の特定に励んだという。
6月中旬、あるスポーツ紙が「本誌が全身像を作成」と独自に犯人のイラストを掲載。「不審な30-40歳の男」は自社取材で肉付きがよく引き締まった顔、きつい目、首と腕が太い、などの特徴があることがわかったとし、それらのデータを元に全身像を作成した、という。夕刊紙にも、スポーツ紙と似た「(本紙が)目撃情報をもとに独自に作製した『酒鬼薔薇聖斗』の似顔絵」をカラーで掲載。
さらに、民放のワイドショー番組でも似顔絵を数種類作製し、不審人物を目撃したという市民に見せて回るという犯人捜しが行われた。
右利きと左利き
5月29日付の産経新聞では「犯人は左利きか」という記事を掲載。3月の連続通り魔事件では、重傷を負った女児のけがの特徴から犯人が左利きである可能性も指摘されているとし、犯人が残した挑戦状は、この特徴を隠すために定規を使ったのではないかと推測している。
その一方で、6月17日付の朝日新聞大阪本社版では「犯人は右利きか 遺体の舌の骨折れず」と報じた。両手で首を絞めた場合、強い力が加わり舌骨が折れることが多いが、被害者の首には右手の指の跡しか残っておらず、捜査本部は、犯人の利き腕が右手であると見ている、と報じた。
なお、少年は右利きである。
その他
中国語
台北発として産経新聞は「挑戦状の一部が中国語と符合」と報じた。記事によれば、犯人が被害者に残した挑戦状に中国語と類似する表現が含まれていることが、犯罪問題に詳しい台湾筋などで指摘されているという。被害者の口に残されたメモには「酒鬼薔薇聖斗」など、日常の日本語とはかけはなれた感じの表記が多く見られるという。台湾筋の指摘によると、「酒鬼」は「大酒飲み」を意味する標準中国語(北京語)の口語表現、「学校殺死」として登場する「殺死」も、「殺害する」という意味の動詞であり、中日大辞典は「殺死」の項目で「首を切り落として殺すことをいうことが多い」と説明している。しかし、挑戦状の新しい解釈として興味をひかれたものの、犯人との結びつきについては言及していない。
ニュースでの光景
少年が逮捕された数時間後、須磨警察署からのニュース報道が行われたが、茶髪の少年が後ろでピースサインをしたり携帯電話で電話しているという姿が映し出された。
この光景に対して、神戸小学生殺人事件を考える会が行った調査では、半数以上が「馬鹿・恥知らず」という回答だった。「馬鹿の見本市のようだった」「あの時間に須磨にいるのだから、全員が地元の子だろう。地元にいて、なぜあんなことができるのか。考える頭がないのでは?」「ことの重大さがわかっていない。親の顔が見たい」という意見があった。また、「恥ずかしい・情けない」と答えた10代の回答者も多くいた。「ピースサインはまだしも、携帯をかけていたのにはびっくりした。友達に『俺、映ってる?』と言ったのだろうが、見ているこっちが恥ずかしくなった」「最近の若者は馬鹿、と言われても仕方がないと思った」「酒鬼薔薇と同じように、あの少年たちの顔もモザイクでもかけてやったほうがいい。あんなにばっちり顔が映っては、将来に傷がつく」などの意見があった。その一方で、「あれが普通の少年」という回答もあった。「子供を殺しているよりは罪がない」「いつでもどこでもああいう子供たちはいる。無邪気で健全といえないこともない」といった意見も見受けられた。また、他には「友が丘中学、タンク山近辺は他府県ナンバーの車が観光にやってきている。中学の校門前で、記念撮影している大人もいた。震災直後に崩壊した建物の前で記念撮影をしていた人たちを思い出した」といった意見もあった。
アメリカでの報道
事件当初、アメリカでは大した規模での報道は行われていなかった。しかし、犯人が14歳の中学生と分かった翌日の6月29日に各紙で取り上げられた。日本社会に大きな影響を与えた事件として、事件の全容を概括している。
1ヵ月前に発生した猟奇的殺害事件は、比較的凶悪犯罪の少ない日本全体を震撼させる大事件であり、橋本総理も解決に全力を傾けるよう、警察当局に指示を与えていた。犯人は警察や新聞に「殺人が楽しくてたまらない」など挑戦状を送り付け、次の犯行予告まで行い、犯罪心理学者らはその犯人像を20-40歳と推測していた。
警察当局は500人の警官を投入して遂に被疑者逮捕にこぎ着けたが、発表によると被疑者は同地区に居住する14歳の中学生ということであった。この地域は最近、猫が殺されるなど残虐行為の痕跡があり、これをつめることが逮捕に至ったようだ。
容疑者逮捕は一応、人々の心を落ち着かせたようだが、容疑者が14歳であるという事実が再度、国中に衝撃を与えているようだ。社会の風潮、インターネットなど、今度はかかる若年者を殺人者に仕立てていく日本の内部構造の解明が新たな要望として浮上してくる。
日本をゆるがした小学生殺人・遺棄事件で、日本社会全体をはじめ警察をも犯人を凶悪な大人と想定して調査を続けてきたが、28日、この事件は14歳の中学三年生が容疑者として連行され、事情聴取の末、自白に追い込むという結末を迎えた。日本では19歳以下を少年法対象として保護するが、本件犯人も少年で刑事被告の対象とならない。最終的には20歳までの保護処分といったことになろう。
日本はこの事件のショックに動揺し、改めて家庭、社会、教育に関する議論が活発となる。10代の倫理道徳に関する議論も盛んとなっている。だが、日本の犯罪は統計的に見れば欧米のそれよりも遥かに低い。
日本中を騒がせた猟奇殺人事件で14歳の中学生が容疑者として逮捕された。
少年は被害者の知己であり、地域社会の普通の中学生である。この犯人は書状を新聞社などに送り付け、捜査を混乱させるとともに、世間には変質的な大人の犯行を思わせてきた。
近隣の住民は犯人逮捕に安堵したと同時に、それが地域内の少年であった事実にショックを隠せない。警察は当初から大人数の捜査官を投入していたが、鳩や小動物を殺していた学生を犯人として追い込んだ手順に関してはその説明を拒否している。
少年の情報漏洩騒動
少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。
写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。
また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。
その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。
なお、ワイドショーで少年の家を映した際、表札が見えたという証言がある。
被害者側の人権
特に、この事件をきっかけにして、大きくクローズアップされだしたのが、被害者側の人権問題であった。これまでも、この種の少年犯罪による事件では、犯罪者側の人権は十分に保護されるにもかかわらず、被害者側は個人のプライバシーまで暴き出され、マスコミからもさまざまな迷惑や圧力を蒙ることが問題視されてきたが、特に世間が大きく注目したこの事件がきっかけとなり、その後、多少の変化の兆しが見られるようになった。また、被害者側の働きかけにより、この事件の審判の過程においても異例の措置がとられるなど、司法側にも幾分の配慮が見られた。
少年法の壁
いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。第三の事件の被害者の父とその弁護人である井関勇司が取り組んだのは、まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、被害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。
この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。
マスコミによる暴力
上記のごとく、被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。また、1998年(平成10年)2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。
民事訴訟
1998年(平成10年)8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年(平成11年)3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。
このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側は不快に感じ、出版の中止を望んだ。
世間の反応
14歳の中学生が起こした事件として、世間は大きく騒がれた。以下の調査は神戸小学生殺人事件を考える会によるもの。
犯人が14歳の中学生
犯人が14歳の中学生であったことに関して、半数以上が「驚いた」という意見だった。その次に多かったのが「信じられなかった」という意見である。その一方で、少数ではあるが「やはり、と思った」という意見もあった。しかし、その中でも「10代だとは思っていた。しかし14歳とは……」という意見が多数だった。逆に、「14歳だからかえってあんな事ができたのか」という人も少数ながらいた。また、「恐ろしい」という意見もあった。「14歳でこんなことをしてしまう酒鬼薔薇が怖い」「こんなことが中学生にできてしまうという現実が恐ろしい」などがあったが、何を恐ろしいとするかは人それぞれだった。
少年法
犯人が少年法に守られていることに関して、「許せない」「納得できない」といった意見が7割を占めた。その一方で、「仕方ない」といった意見も多く、「そうなっているなら仕方ない」「仮に少年法が改正されても、酒鬼薔薇には適用されない。ここまで放置してきてしまったのだから、もう遅い」「おかしいとは思うけど、法治国家とはこういうものでは?」「酒鬼薔薇だけ特例にしたら、秩序がなくなる」などの意見があった。30歳以上の中には「14歳では責任能力がない。成年と同じ処罰を与えるのは無理」と、「守られて当然」という意見もあった。しかし、10代はほぼ全員「許せない」「納得できない」という意見だった。
フォーカス
犯人である少年の顔写真が掲載されたフォーカスを手に入れた人は1割にも満たなかった。しかし、コピーを含めると約4割が見たことがあるという。
顔写真を見た印象としては、「普通の子と変わらない」という意見が最も多かった。次に多かった順に、「恐い」「陰湿な印象」といった意見だった。
フォーカスに顔写真を載せたことに関しては、6割以上が賛成といった意見だった。
新聞
犯人逮捕後、新聞での報道は日が経つにつれ、教育問題などを背景とする記事を取り上げることが多くなったが、これに対しては「偽善的」といった意見が多かった。「悪いのは社会、というように酒鬼薔薇を擁護するような書き方が多い」「罪を憎んで人を憎まず、という姿勢がかえって不気味」という意見があった。また、「人権侵害ということにびびりまくっている感じ」「少年法に守られている容疑者だから、言いたいようことの半分も言えないのだろう」と「歯切れが悪い・つっこみが甘い」といった意見も多かった。一方、年配者には「新聞は興味本位で書き立てるべきではないし、事実のみを伝えるもの」と「これが妥当」といった意見も多かった。逮捕後は識者のコメントや分析が目立つようになったが、10代の中には「心理学者だの小説家がわかったふうなことを書いているのには腹がたった。勝手に酒鬼薔薇の気持ちを推理して決めつけていたが、こんな人たちにわかるはずがないのに、と思った」「最近の若者という枠で、酒鬼薔薇のことを語らないで欲しい。あんなヤツと一緒にされたくない」という意見が出た。
ホラービデオなどの規制
犯行声明にバイオレンスコミックが引用されていたり、部屋にホラームービーが何本もあったことから規制の声があがった。実際、規制すべきといった意見が多かった。「小学生が読むマンガでも、暴力シーンが多い。あまりにも簡単に人が死ぬので、子供に『死』というものを軽くとらえられている気がする」「ガイドラインを作って、一斉に規制するのは検閲のようでよくない。作者や発売元の良心に任せる程度の規制が望ましい」「いちばん影響が大きいのはテレビゲームだと思う。大抵のゲームが、相手を倒して自分が生き残る、強くなるものばかり。幼稚園の子供が『死ね、死ね』と叫びながらコントローラーを持っている姿は怖い」という意見があった。しかし、規制は必要ないといった意見も多く、「ホラービデオ愛好家がみんな殺人を犯すわけではない」「表現の自由の侵害。ビデオを見なくても、人ぐらい殺せる」「規制しても意味がないと思う。いまだって未成年でも酒もたばこも買えるし、アダルトビデオも見られる」「マンガを規制するくらいで犯罪が減るなら、この世に犯罪者はいない。『水戸黄門』ファンの殺人犯だっているはずだ」「国が法律で規制するのではなく、親がチェックすべき問題だと思う」といった意見があった。また、他には「規制しろ、ともっともらしいことをいうテレビ番組で『これが犯行声明に引用されたマンガです』と何度も紹介していた。宣伝してどうする?」「宮崎事件のときはオタクはみな危ないといい、今度はマンガやホラー。なぜすぐにわかりやすい原因をみつけたがるのか?」という疑問の声も上がった。
事件の影響
この事件を教訓に、こども110番の家が設置されるようになった。事件の残虐性に加え、逮捕されたのが14歳の少年であった点も、社会に強い衝撃を与えた。結果、この事件を境に、少年事件やそれに関連する法整備、少年事件における「マスコミの対応」などが大きく注目されるようになった。さらにこの事件を皮切りに当時の内閣が少年法改正に動く事にまで影響が及んでいる。
また、テレビ番組が少年に与えた影響が取りざたされたため、猟奇シーンの含まれる番組(『銀狼怪奇ファイル』、『エコエコアザラク』など)の放送や新シリーズ制作が中止になったり、特撮番組においてヒーローが切断技で怪獣の首をはねたり胴体を真っ二つに切断し倒す演出が自粛されるようになった。
また当時、大人気であったミニ四駆の全国大会「ジャパンカップ」関西大会の地区予選が、社会情勢を考慮するとの理由で中止になっている。
少年は冤罪か
逮捕された少年が犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。
多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年が在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。
- 第二の事件で殺害された女児の頭の傷は八角げんのうを左手に持って殴りつけてできたと考えられ、右利きの少年がやったとは考えにくい(「#右利きと左利き」も参照)。
- 第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している。
- 筆跡鑑定の結果は声明文が少年によって書かれたものだと断定はできないというものであった。のちに、鑑定結果を弁護士から知らされた少年は「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている。ただし、赤インクの太字と定規を使用したと見られる直線で描かれたもので、筆跡をごまかしているため、鑑定の結果自体は冤罪の根拠とはならないという意見もある。ただし、少年の中学での国語の成績は入学以来常に5段階評価の「2」で、事件直前の授業の作文と比較して犯行声明のような高度な文法や複雑な読みまわしの漢字を書く能力があったかどうかには疑問が残っている。
- 取り調べにおいて警察は声明文の筆跡鑑定が確定的であるかの様に説明し、それを受けて少年は自白を始めた。これは違法行為であるため、家裁審判においてこの自白調書は証拠として採用されなかったが、少年の弁護士は非行事実について争おうとはしなかった。
- 少年の素行についての証言が逮捕直後から多数報道されていたが、調査してみると多くは伝聞情報ばかりで直接の目撃証言が確認できない。
- 判決文による非行事実は荒唐無稽で実行不可能な部分が多い。
- 14歳少年に実行可能な犯罪とは到底考えられない。犯行声明文は14歳少年が作成したものとは思えないほど高度である。岩田は、この犯行声明文は全体的に難解な論理を特異な比喩を使いながら展開しているにもかかわらず論旨は明快で、成績の悪い少年Aに到底書けるとは思えなかったと述べている。
少年の母が2002年5月に少年と面会し、「お母さん、あんたの口からハッキリと聞いておきたいことがある。○君を殺したの? ○君を殺したんは、本当にお前なんか? あの事件は冤罪ということはあり得へんの?」と冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「あり得へん。間違いなくそうです。自分がやりました」と語っている。
出典・脚注
関連項目
- 少年犯罪
- 少年法
- 家庭裁判所
- 少年院
- 郊外型犯罪
- 猟奇殺人
- 快楽殺人
- 厳罰化
- 職場体験・トライやる・ウィーク(この事件を機に始まった)
- 不謹慎ゲーム
- 『凶悪犯罪ファイル』(神戸連続児童殺傷事件編)
- キレる17歳
- 注意欠陥・多動性障害
秘密の県民ショー、県民ドラマで同名の人物が登場している。