「麻生太郎」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(海外留学)
26行目: 26行目:
  
 
==== 海外での事業 ====
 
==== 海外での事業 ====
 +
帰国後の[[1966年]]に実家の麻生産業(後に清算)に入社し、1960年代後半に[[ブラジル]][[サンパウロ市]]に1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。また、麻生太郎の従兄弟に当る人物がブラジルに移民していたことも近年になって判明した。
 +
 +
その後、[[1970年]]から2年間に渡って西アフリカの[[シエラレオネ]]にて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していた事が知られている。<ref>この採掘事業を開始したのは、麻生太郎の父親である[[麻生太賀吉]]と実弟で専務の[[麻生典太]]だったと言われており、同国のダイヤモンド採掘を長らく支配していたイギリス人とレバノン人以外の人に掘ってもらいたい、という現地の意向から麻生家に鉱区が提供されたと[[麻生典太]]は語っていたと言われる。その後、同国での内戦勃発に伴って麻生家は事業から撤収した。
 +
[[2006年]]1月19日に日本記者クラブにて行われた外務大臣演説で[[シエラレオネ]]のダイヤモンド採掘業での経験について発言しているほか、当時製作されたニュース映画にも現地の事業を指揮する麻生太郎本人がインタビューに答えて登場している
 +
 +
==== 帰国後の経歴 ====
 +
[[1973年]]にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現:[[麻生 (企業)|株式会社麻生]])の[[代表取締役]]社長に就任。[[炭鉱]]業から[[セメント]]業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代にまた、社長業の傍らで、[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック]]に[[クレー射撃]]の日本代表選手として出場(結果は41位)している。
 +
 +
=== 政界入り後の経歴 ===
 +
[[1979年]]10月、[[第35回衆議院議員総選挙]]に(旧福岡2区、現:[[福岡県第8区]])から出馬。初当選を果たし政界入りする。落選した[[第37回衆議院議員総選挙]]を除き、現在まで全ての総選挙で当選している。[[宏池会]]に所属。
 +
 +
[[1996年]]に[[第2次橋本内閣]]の[[経済企画庁]][[長官]]に就任し、初入閣。
 +
 +
[[1999年]]1月、党内で長年所属した宏池会を離脱し、元総裁[[河野洋平]]を会長に大勇会(現在の[[為公会]]、通称”麻生派”)旗揚げ。
 +
 +
[[2001年]]4月、[[2001年自由民主党総裁選挙|01年自民党総裁選]]に出馬し、[[小泉純一郎]]、[[橋本龍太郎]]と戦い31票で3位。その後発足した[[小泉政権]]では党[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|政務調査会長]]を務め、[[2003年]]9月からは[[総務大臣]]として入閣し、[[郵政民営化]]を担当した。
 +
 +
2006年9月、[[2006年自由民主党総裁選挙|06年自民党総裁選]]に立候補するも[[内閣官房長官]](当時)の[[安倍晋三]]に敗れる(安倍:464票 麻生:136票 [[谷垣禎一]]:102票)。
 +
 +
[[2007年]][[3月20日]]、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。
 +
 +
2007年9月、[[2007年自由民主党総裁選挙|07年自民党総裁選]]に立候補する。党員票では[[福田康夫]]を僅差で上回るも133票差で敗れる(福田:330票 麻生:197票)。
 +
 +
[[2008年]]9月、[[2008年自由民主党総裁選挙|08年自民党総裁選]]に4度目の立候補をし351票を獲得。[[自民党総裁]]に就任する。
 +
 +
2008年[[9月24日]]、第92代[[内閣総理大臣]]に就任。[[麻生内閣]]を[[組閣]]する。就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。
 +
 +
2008年[[10月2日]]、[[麻生内閣メールマガジン]]「太郎ちゃんねる」を配信。創刊号では[[景気]]対策の必要性を訴えているほか、「麻生内閣の一員になったつもりで忌憚のない意見を」と呼びかけている。内閣としては初の動画も用意している。
 +
 +
[[2009年]][[8月30日]]、[[第45回衆議院議員総選挙]]で自由民主党が惨敗、衆議院第1党の座から転落。同日夜に退陣を表明。
 +
 +
2009年[[9月16日]]、自由民主党総裁を辞任。同日の臨時閣議にて麻生内閣総辞職を決定。政権を[[民主党代表]]:[[鳩山由紀夫]]に明け渡した。
 +
 +
== 政治的主張 ==
 +
=== 経済 ===
 +
 +
 +
 +
 +
== 脚注 ==
 +
{{脚注ヘルプ}}
 +
 +
 +
 +
 +
 +
 +
 +
{{日本国歴代内閣総理大臣
 +
|当代=[[麻生内閣|92]]
 +
|在任期間=2008年 - 2009年
 +
|前代=[[福田改造内閣|91]]
 +
|前首相名=福田康夫
 +
|次代=[[鳩山由紀夫内閣|93]]
 +
|次首相名=鳩山由紀夫}}
 +
 +
[[Category:日本の内閣総理大臣]]
 +
[[Category:日本の閣僚経験者]]
 +
[[Category:自由民主党の国会議員]]
 +
[[Category:衆議院議員]]
 +
[[Category:日本の実業家]]
 +
[[Category:オリンピック射撃競技日本代表選手]]
 +
[[Category:日本のカトリックの人物]]
 +
[[Category:飯塚市]]
 +
[[Category:福岡県の政治家]]

2011年2月5日 (土) 13:34時点における版

麻生 太郎
麻生 太郎

麻生 太郎(あそう たろう、1940年昭和15年〉9月20日 - )は、日本政治家実業家衆議院議員(10期)。為公会(麻生派)会長。

経済企画庁長官(第53代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)(第2代)、総務大臣(第345代)、外務大臣(第137138代)、内閣総理大臣第92代)や、自由民主党政務調査会長自由民主党幹事長自由民主党総裁(第23代)などを歴任した。

モントリオールオリンピッククレー射撃クレースキート競技)日本代表(41位)。元麻生セメント(現・株式会社麻生[1]代表取締役社長。妹は寛仁親王妃信子クリスチャンカトリック)である。

経歴

政界入りまで

福岡県飯塚市麻生太賀吉・和子の長男として生まれる[2]麻生塾小学校(閉校 後の学校法人麻生塾・麻生専門学校)を経て、小学3年生の頃上京し、学習院初等科に編入。

海外留学

1963年学習院大学政経学部を卒業した。 学習院大学卒業後は、下記のような海外留学生活を送ったとされている。

  • 1963年9月 - スタンフォード大学大学院に留学
  • 1965年 - スタンフォード大学大学院を中退、ロンドン大学政治経済学院に留学
  • 1966年8月 - ロンドン大学を中退

スタンフォード大学・大学院(米国)では政治学、ロンドン大学・大学院(英国)では経営学を学んだと2001年4月の自民党総裁選挙候補者プロフィール中には記載されていたが、現在の本人オフィシャルサイトにこの期間についての一切の記載はない。2007年9月16日 読売新聞には、1963年3月 学習院大政経学部卒業、同年9月 スタンフォード大大学院留学、と紹介されており、上記の総裁選候補者プロフィール中にあるロンドン大学への留学については記述が無い。

尚、米国での留学生活は麻生が過剰にアメリカナイズされる事を恐れた実家の意向で中断され、一旦帰国した後に、再度ロンドン大学に留学したとされている。

華やかな留学歴を持つが、肝心の学位は取得できないまま帰国しており、留学中は学業をはおろそかにしていたと自ら語っている。引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています
  1. 麻生産業から分社した麻生セメントは、麻生と社名変更している。現在の麻生ラファージュセメントは、麻生からさらに分社化した麻生セメント(2代目)が社名変更したもの。
  2. 父方の祖父の名前も“麻生太郎”である