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'''石島 唯一'''(いしじま ゆいいち?、生年不詳 - 没年不詳)、通称:'''茨木 誠一'''(いばらき せいいち)は、[[日本陸軍]]の[[情報将校]]。[[後方勤務要員養成所]]出身。[[広東]]各地で[[スパイ]]・[[特務機関|特務]]として活動した後、1942年に[[シンガポール]]の[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令部参謀部2課に移り、[[スマトラ]]の[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀部2課付を兼務。1943年6月に[[パレンバン州]]の軍政部警務部特高科長となり、同年9月の[[スマトラ治安工作]]の一斉検挙を指揮。1944年に[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]麾下で立ち上げた[[茨木機関]]の機関長となり、シンガポールと[[ジョホール州]]の内陸の防諜・謀略を指揮した。[[ポツダム宣言]]受諾後、戦犯追及をおそれ、機関員を連れてスマトラ島へ集団で潜行。機関員が第25軍の[[近衛師団|近衛第2師団]]に抑留された後も潜伏を続けていたが、1946年に英軍に拘束された。1947年に[[蔡和安]]の手引きで脱走・潜伏し、1948年に日本に密かに帰国。帰国後も[[東京]]で潜伏を続け、日本が独立した後の1952年12月に復員した。 | '''石島 唯一'''(いしじま ゆいいち?、生年不詳 - 没年不詳)、通称:'''茨木 誠一'''(いばらき せいいち)は、[[日本陸軍]]の[[情報将校]]。[[後方勤務要員養成所]]出身。[[広東]]各地で[[スパイ]]・[[特務機関|特務]]として活動した後、1942年に[[シンガポール]]の[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令部参謀部2課に移り、[[スマトラ]]の[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀部2課付を兼務。1943年6月に[[パレンバン州]]の軍政部警務部特高科長となり、同年9月の[[スマトラ治安工作]]の一斉検挙を指揮。1944年に[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]麾下で立ち上げた[[茨木機関]]の機関長となり、シンガポールと[[ジョホール州]]の内陸の防諜・謀略を指揮した。[[ポツダム宣言]]受諾後、戦犯追及をおそれ、機関員を連れてスマトラ島へ集団で潜行。機関員が第25軍の[[近衛師団|近衛第2師団]]に抑留された後も潜伏を続けていたが、1946年に英軍に拘束された。1947年に[[蔡和安]]の手引きで脱走・潜伏し、1948年に日本に密かに帰国。帰国後も[[東京]]で潜伏を続け、日本が独立した後の1952年12月に復員した。 | ||
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石島 唯一(いしじま ゆいいち?、生年不詳 - 没年不詳)、通称:茨木 誠一(いばらき せいいち)は、日本陸軍の情報将校。後方勤務要員養成所出身。広東各地でスパイ・特務として活動した後、1942年にシンガポールの南方軍総司令部参謀部2課に移り、スマトラの第25軍参謀部2課付を兼務。1943年6月にパレンバン州の軍政部警務部特高科長となり、同年9月のスマトラ治安工作の一斉検挙を指揮。1944年に第7方面軍麾下で立ち上げた茨木機関の機関長となり、シンガポールとジョホール州の内陸の防諜・謀略を指揮した。ポツダム宣言受諾後、戦犯追及をおそれ、機関員を連れてスマトラ島へ集団で潜行。機関員が第25軍の近衛第2師団に抑留された後も潜伏を続けていたが、1946年に英軍に拘束された。1947年に蔡和安の手引きで脱走・潜伏し、1948年に日本に密かに帰国。帰国後も東京で潜伏を続け、日本が独立した後の1952年12月に復員した。
経歴[編集]
1937年に召集を受ける[1]。
南支那派遣軍に配属され[5]、広東各地でスパイ・特務として活動[2][6][7]。南京、上海、広東、汕頭をはじめ、香港、仏印、シンガポール、ビルマ、ジャワ、フィリピンなどへ赴任したという[1]。
軍歴はスパイとしての活動のみで、嶺南大学の学生やアモイと中山県の国境の税関長を装って二重生活をしたり、広東省政府顧問、連絡官などの肩書きを使っていたこともあった[1]。
1942年の中頃[7]、南方軍総司令部参謀部2課付属の調査室が強化された際に、広東からシンガポールの南方軍総司令部参謀部2課に移り、スマトラの第25軍参謀部2課付を兼務[2][8]。吉永弘之大尉とともに、調査室の分室に所属し、「残置諜者(占領地域に残された連合軍のスパイ)」を探したり、治安情報を収集する実務を担当した[9]。
1943年(昭和18)6月、パレンバン州(パレンバン)の軍政部警務部特高科長に着任[5]。同年9月、特高科長としてスマトラ治安工作による抗日地下組織メンバー・支援者の一斉検挙を指揮した[5][2][8]。
(1944年3月)南方総軍のマニラ移転に伴い、第7方面軍参謀部2課付となる[2][8]。
1944年春頃、広東から日本人や台湾人の特務機関員・軍属・通訳を連れてきて浪機関の組織を強化した[10]
- 中野校友会 (1978 553)は、(石島少佐の名前を挙げてはいないが、)この頃、浪機関が広東から城戸某・吉開某ほか台湾人を含む多数の軍属を採用したことに言及している。
1944年暮頃、近藤次男大尉、安達孝大尉と茨木機関を編成し、調査室分室から分離独立[9]。
1945年8月、終戦に際し、茨木機関の機関員を連れて、スマトラ島へ潜行[11]。
- 本田 (1988 92)によると、石島はスマトラ治安工作で手柄を立てていたため、オランダから戦犯指名されることは目に見えており、終戦前の相当早い時期からスマトラ行きを決意していたようだ、という。
1946年3月、英軍に拘束され、ベラワン の英軍管理の戦犯収容所に拘置[12]。
- 本田 (1988 254)は、茨木少佐は、安達大尉と特操14名とともにシアンタル に潜伏していたが、同月、近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵と合流してベラワンから乗船しようとした際に、安達大尉とともにオランダ軍の憲兵に戦犯容疑で拘引された、としている。
- 茨木 (1953 140-143)は、第7方面軍参謀部第2課の桑田(仮名、桑原)中佐から「連合軍の取調べが始まっているが、情報関係、特に共産党対策関係で不明な点が多い。絶対に逮捕しないから出頭してほしい」旨の電報を受け、メダンの飛行場へ行ったところで、英軍に拘束された、としている。
- 中西 (1994 183-187)は、中西たちが同年1月末にスマトラを離れる船上で、茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報に接した、としている。
脱走、潜伏[編集]
逮捕から1ヶ月ほどしてから飛行機でシンガポールへ移送され、当初はチャンギー刑務所で、のちジョホール・バルの英軍情報部に拘置されて、英軍からマラヤ共産党対策について訊問を受け、報告書の執筆を求められた[13][14]。[15]
3ヵ月ほど経過してから、身柄をオランダ軍に引渡される予定であることが分かったといい[16]、蔡和安の手引きを受けて、脱走を計画[17][18]。1947年2月ないし5-6月頃[19]、英軍情報部から脱走し[20]、元機関員の華人の支援を受けて、クルアン の町から西北へ25km2ほどの山中に潜伏[21][22][23]。
1948年(昭和23)3月5日、マレー半島東岸のメルシンから、潜伏を支援してくれた元機関員の華人が用意してくれたジャンクに乗船し、同年5月10日に香港に到着[24][25]。香港で半年ほど過ごした後、「林景山」名義の偽造パスポートを使い、台湾を経由して、中国汽船に乗船し、同年11月17日に門司港に到着した[26]。
帰国後も戦犯追及をおそれて、郷里の茨城に帰らず、東京で統制品ではない亀の子タワシの行商をしながら、焼けたビルや上野の地下道、神社の軒下などに寝泊りして潜伏生活を続けたといい[27]、日本の独立後、半年ほど経った1952年(昭和27)12月23日に千葉県稲毛の復員局留守業務部南方班に出頭し、復員の手続きをした[28]。[29]
人物[編集]
石島少佐は、茨木機関では、茨城県出身で[30]、茨城弁を話していたことから[31]、茨木少佐と呼ばれていた[2][32][30]。[33][34]
- 「口を開くと、朴訥な茨城弁が出てきた。期待していたスマートさは全くなかった。何だこんなものか、とがっかりしたが、彼は案外話上手だった。」(本田 1988 26)
- 「茨木少佐は、たいてい中国服姿で、インド人の運転する車で本部にやってくる。彼の住居は2軒あるとのことだった。出勤時間は不定で来ない日もある。出勤すると、円柱をめぐらした2階の大広間の椅子にどっかと坐り、だれかを呼びつけては大声でどなっているか、駄洒落をとばして笑っているかである。」(本田 1988 39)
- 「私は茨木少佐が、なぜ中国服を着てきたのか不審に思った。昭南の市民は大部分が中国系だが、中国服を着ているのは、よっぽどの老人でもなければ見たことがなかった。それなのに、なぜ人目につくような格好をするのか、それがふしぎだった。/おそらく、これは彼の示威行動にすぎなかったのだろう。特務機関員はこんなにすごいんだぞ、と見せびらかしたかったのである。飛行帽、飛行服に半長靴で町を歩くようなものである。つまり彼の稚気の現れであった」(本田 1988 25)
著書[編集]
- 石島唯一「まだ戦っている男 - 絞首刑・日本人戦犯の脱走手記」読売新聞社『週刊読売』v.14 n.43、1955年10月、p.4、NDLJP 1813671/3
- 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、NDLJP 1660537
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 茨木 1953 68
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 中西 1994 138
- ↑ 本田 1988 37,39
- ↑ 中野校友会 1978 556,840
- ↑ 5.0 5.1 5.2 中野校友会 1978 556
- ↑ 南洋商報 1947
- ↑ 7.0 7.1 本田 1988 37
- ↑ 8.0 8.1 8.2 本田 1988 37-38
- ↑ 9.0 9.1 本田 1988 38
- ↑ 南洋商報 1947 、「飯島少佐」の経歴として。
- ↑ 本田 1988 93
- ↑ 茨木 1953 140-143
- ↑ 中西 1994 202-206
- ↑ 茨木 1953 147-167
- ↑ 篠崎 (1981 53)は、茨木少佐は英軍によってシンガポールのチャンギー刑務所に収容された後、篠崎が翻訳・通訳として働いていた東南アジア軍の保安隊に引き取られてきた、としている。篠崎 (1978 17)によると、1946年末頃、英東南アジア軍情報部直属の野戦保安隊(フィールド・セキュリティー・フォース)は、シンガポールのバルモーラル路(Balmoral road)にあった。
- ↑ 茨木 1953 246-249
- ↑ 中西 1994 202-206。シンガポールの捕虜収容所にいた総軍班の中西淳は、蔡の手配で解放され、英軍情報部でジョンゴス(召使い)として働き、連絡役をしていた。茨木少佐は当初、自身が戦犯に問われるのか、情報提供後に釈放されるのか分からないため、脱走すべきか判断がつかない様子だったという。
- ↑ 篠崎 1981 53は、保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。
- ↑ 茨木 1953 261には脱走前に書き留めた遺書の日付が1947年(昭和22)2月とあり、同書 p.275には「今日」は「9月14日」で「脱走してからもう4ヶ月近くなっていた」とある。
- ↑ 茨木 1953 261-267
- ↑ 茨木 1953 270-271
- ↑ 茨木 1953 251-253に、茨木少佐が、「最も信頼している華僑の有力者K氏(蔡和安?)」に脱走の相談をすると、K氏はそれを予期して或る島の山中にバラックを建てておいた、と答え、脱走を手引きした、とあるが、同書 pp.253-260は、茨木少佐がK氏の申し出を断り、自力で逃走した経緯を記している。
- ↑ 篠崎 1981 54にある脱走の経緯は、茨木 (1953 253-291)の大意と同じ内容。
- ↑ 茨木 1953 291
- ↑ 篠崎 1981 54は、かつて浪機関に所属していた林樹森という華僑の所有するジャンクに乗船した、としている。
- ↑ 茨木 1953 291-292
- ↑ 茨木 1953 292-293
- ↑ 茨木 1953 290
- ↑ 篠崎 (1981 54)によると、篠崎は、1951年に日本を訪問した蔡和安の依頼で浪機関の吉永元大尉を通じて(潜伏中の?)石島少佐と連絡をとり、東京・八重洲で4人で顔を合わせたという。
- ↑ 30.0 30.1 篠崎 1981 52
- ↑ 本田 1988 26,64
- ↑ 本田 1988 25
- ↑ 本田 (1988 25)は茨木機関の機関長の名前を「茨木誠一」としているが、中西 (1994 104,138)および篠崎 (1981 52)は、「いばらぎ」、「茨城」ないし「茨木」は仮名で、本名は「石島」としており、スマトラ治安工作に関する経歴の共通点から、中野校友会 (1978 556,840)にある「石島唯一」が本名とみられる。
- ↑ 南洋商報 (1947 )は、広東でスパイ活動をしてから、シンガポールにやってきて自らリバー・バレー に「飯島機関」を組織した人物として「飯島大尉(のち少佐)」に言及しているが、経歴などの説明から、「石島機関」の「石島大尉(のち少佐)」に言及していると思われる。同記事は英文を参照して中国語に翻訳していたようなので、ishijimaをiijimaと誤判読したように思われるが、中野校友会 (1978 840)には「飯島良雄」という乙II短の卒業生の名前も確認できる。飯島の経歴については未詳。
- ↑ 茨木 1953 13
参考文献[編集]
- 石島(茨木)の著書については、#著書を参照。
- 中西 (1994) 中西淳『諜報部員脱出せよ - 実りなき青春の彷徨い』浪速社、ISBN 4888541523
- 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
- 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
- 篠崎 (1981) 篠崎護「大東亜戦争と華僑 - ある特務機関長の脱走」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、pp.50-54、NDLJP 7925922/27
- 篠崎 (1978) 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、pp.17-24、NDLJP 7925915/10
- 南洋商報 (1947) 昭南時代 組織之秘密 浪機關『南洋商報』1947年7月12日12面
- 日本語訳:「5 浪機関の秘密」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年、ISBN 4250860280、134-143頁