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'''華人労務者'''(かじんろうむしゃ)は、[[第2次世界大戦]]中に、[[中国]]の[[華北]]地方などから[[日本]]へ「移入」され、各地の事業所で使役された[[中国人]]の労働者に対する呼称。'''華工'''、'''華労'''とも呼ばれた。1944年に、戦争の長期化に伴う軍需物資・軍事施設への需要増や徴兵による労働力不足を背景として、「華人労務者の内地移入」政策が閣議決定され、日本全国の135事業所に約4万人の華人労務者が「移入」された。
  
 
戦後、生存者を中国に送還した[[外務省]]管理局が行なった実態調査によれば、その約89%は、現地で日本軍が捕えた捕虜や一般人を[[華北労工協会]]の労工訓練所を通して連行する「訓練供出」や、行政単位毎に人数を割当てる「行政供出」などの強制な方法で集められており、1946年2月末までに日本で死亡した華人労務者は6,830人、死亡率は17.5%にのぼった。
 
戦後、生存者を中国に送還した[[外務省]]管理局が行なった実態調査によれば、その約89%は、現地で日本軍が捕えた捕虜や一般人を[[華北労工協会]]の労工訓練所を通して連行する「訓練供出」や、行政単位毎に人数を割当てる「行政供出」などの強制な方法で集められており、1946年2月末までに日本で死亡した華人労務者は6,830人、死亡率は17.5%にのぼった。

2020年1月8日 (水) 23:22時点における最新版

華人労務者(かじんろうむしゃ)は、第2次世界大戦中に、中国華北地方などから日本へ「移入」され、各地の事業所で使役された中国人の労働者に対する呼称。華工華労とも呼ばれた。1944年に、戦争の長期化に伴う軍需物資・軍事施設への需要増や徴兵による労働力不足を背景として、「華人労務者の内地移入」政策が閣議決定され、日本全国の135事業所に約4万人の華人労務者が「移入」された。

戦後、生存者を中国に送還した外務省管理局が行なった実態調査によれば、その約89%は、現地で日本軍が捕えた捕虜や一般人を華北労工協会の労工訓練所を通して連行する「訓練供出」や、行政単位毎に人数を割当てる「行政供出」などの強制な方法で集められており、1946年2月末までに日本で死亡した華人労務者は6,830人、死亡率は17.5%にのぼった。

同調査の『事業所報告書』や『現地調査報告』では、内務省や警察の指導に基づいて、事業所を問わず、劣悪な食事や生活環境、苛酷な労働環境などの非人道的な処遇がとられ、これに起因する栄養失調症や虐待による死亡者が多かった実態が指摘されているが、『事業所報告書』では、非人道的な処遇や虐待への言及は少なく、死因は「胃腸炎」などの病死とされている場合も多い。

戦後、花岡事件の調査を通じて中国人の日本への強制連行・強制労働事件(「華人労務者の内地移入」の実態)がGHQに報告され、戦犯裁判アメリカ軍横浜裁判)で鹿島組花岡出張所と日本港運業会の大阪の事業所の2事業所における虐待事件が訴追されたが、冷戦が始まり、米国が戦争賠償よりも日本の経済復興を優先するようになったなどの国際情勢の変化を背景に、それ以上の責任追及は避けられた。

華人労務者の内地移入政策[編集]

1937年7月の盧溝橋事件以降、中国大陸での戦線拡大により、石炭や鉄鉱石などへの軍需物資への需要が増加する一方で、成年男性の徴兵により就業可能な労働人口は減少していた。労働力不足が深刻だった旧満州北海道の土木建築業界や鉱山採掘業界は、華北の労働力を生産に充てたいと要望し、政府・軍部との協議を経て、1941年頃から、華北で治安維持を名目にした討伐作戦や清郷工作によって捕えた捕虜や一般人を旧満州などへ連行し働かせることが行われるようになった。[1]

1941年8月には、産業界から政府に、中国の労働力を内地での労働に使役したい旨の要望書が提出された[2]

1942年11月27日東條内閣は、日中戦争の長期化と太平洋戦争の開戦にともない労働力が不足するようになった内地の国民動員計画産業に充当するため「華人労務者の内地移入」を認める閣議決定をした[3]

1943年4月から11月にかけての試行の後、1944年2月の次官会議の決定を経て、「華人労務者の内地移入」が本格的に行われるようになり、河北省山東省河南省などで日本軍に捕えられた中国人約4万人が日本に連行された[4]

「昭和19年(1944年)国民動員実施計画」では、中国人3万人の連行が計画された[5]

日本企業への割当[編集]

華人労務者の斡旋を希望する事業所は、厚生省に申請し、厚生省は、軍需省運輸省と協議して、事業所へ割当てる人数を決定し、「華人労務者移入計画」に反映した[6]

「華人労務者移入計画」による募集人員の情報は、大東亜省によって中国に伝えられた[7]

華労集め[編集]

中国では、日本政府の計画に基づいて、大使館、日本軍、労務統制機関(華北労工協会など)が華人労務者を集めた[8]。『外務省報告書』は、華人労務者の「募集」方法として下記の4つの方法があった、としている[9]

行政供出
中国の行政機関が供出命令を出し、各省・道・県・郷村に供出員数を割当てて、責任数を供出させる方法[9]
訓練生供出
現地の日本軍が作戦行動によって捕えた捕虜、帰順兵のうち、釈放して差し支えないと判断した者や、中国の地方法院で微罪に問われ、釈放された者を、華北労工協会に引き渡し、労工訓練所で一定期間(約3ヵ月間)の訓練を受けさせた後、供出させる方法[9]
自由募集
希望者を募る方法[9]
特別供出
「特殊労務」に必要な訓練と経験を有する「特定機関」の在籍労務者を供出させる方法[9]

当初は「訓練生供出」が「移入」の「主目標」とされていたが、この方法では所要人数を確保することが難しかったため、「行政供出」によって人員を徴用することになり、供出総数38,935人のうち61.8%は「行政供出」によって集められていた。「行政供出」と「訓練生供出」は供出総数の89.2%を占めており、「自由募集」による供出数は1,455人で全体の3.7%だった[10]

「行政供出」の場合も「訓練生供出」の場合も、供出の実務は華北労工協会が担当し、「華人労務者移入計画」による人員の割当てを受けた企業は、同協会と「労工供出契約」を締結して、華人労務者(華工、華労)を日本へ連行して使役した[11]

「行政供出」の際には、華北労工協会の職員が同会出張所の付近にある村落に直接労工を集めに行き、人員確保のため囚人なども含めて中国人を「狩集め」ていた。使役企業の担当者がこれに同行し、「募集半強制的なるため」に華北労工協会の職員は華人労務者から恨まれており、身の危険を感じ生命の不安を口にしていたと報告している[12]

また行政供出による者は「強制せられたる者」だったので、逃亡しようとする者が多かった、との報告もなされている[13]

募集方法

第1回 300人対日供出

第2回 300人行政供出

前者は供出人員を獲得或は場所や盛り場等に集合したる労工を支那警官に依り一網に拉致するか、「コソドロ」や華北交通に妨害をなしたる者を、20、30と集めたる者を事業体に引渡す場合を云う。

後者は俘虜、土匪、通匪等を一定の訓練所に一定期間収容訓育をなしたる者を事業所に引渡すを云う。

(・・・)

行政供出は強制せられたる者の為め隙あらば逃走し帰郷せんとし逃亡者多き(・・・)

三井鉱山美唄鉱業所の『事業所報告書』より[14]

渡航前の収容所生活[編集]

詳細は 華北労工協会 を参照

華北労工協会に集められた華人労務者は、同協会所管の訓練所や収容所に収容されたが、収容施設の生活環境や処遇は劣悪で、特に食事や飲料水に問題があり、日本への渡航前から疲労のため衰弱したり、栄養失調になる人が多かったとされている[15]

日本における取扱い[編集]

使役企業・事業所[編集]

外務省報告書』によると、華人労務者の割当てを希望し、認められたのは、企業35社の135事業所[16]

使役先は全て軍需産業で、炭鉱や鉱山が最も多く、発電所や飛行場などの建設現場も多かった[17]

華人労務者の属性[編集]

  • 年齢構成:11歳から78歳まで[18]
  • 婚姻状況:妻子のいた人が全体の60%を占めていた[19]

警備体制[編集]

日本では、当時、実質的な交戦国だった中国から日本へ労務者を移入すれば、脱走や反乱が起きて治安面で問題があるのではないか、と不安視する人が多く、このために華人労務者を使役する事業所では厳重な警備が敷かれた。[20]

  • 1944年4月付で内務省は「移入華人労務者取締要領」を発出し、華人労務者の逃亡を防止し外部との接触を阻止するために、華人労務者の宿舎や作業場を日本人・朝鮮人とは隔離し、外出を禁止し、通信を検閲することなどを指示し、各事業所に対して、毎月内務省に華人労務者の「稼働状況」や「指導員」や警察官の警備状況について報告するよう求めた[21]
  • これにより、各県の警察から華人労務者使役事業所に対して、警官の配備や逃亡時の対処方法のほか、外出を禁止し通信を検閲することなどを指示する文書が発出され、華人労務者が宿舎と作業現場を移動する際には現場に派遣された警察官が監視にあたった[22]

非人道的な処遇[編集]

他方で、当時の中国人に対する敵愾心に由来して、治安面では必ずしも適切でないと評価されていた非人道的な処遇をとるよう内務省から指示が出されており、これに基づいて華人労務者に対して非人道的な処遇が取られていた[23]

  • 軍部からは強圧的に接すれば反発を招くおそれがあり、宥和的に接することが脱走や反乱を予防する治安上有効な対策との意見もあったが、外交筋から「甘やかすとつけあがるから厳格に処遇すべき」といった主張もなされていた[24]
  • 1944年の3-4月頃から、内務省嘱託の本間房吉や小澤某は、内務省の指示の実施状況を確認するため、合せて20回程度の視察旅行をして各地の華人労務者使役事業所を訪れ、「管理が良好に過ぎる」ことを批判し、食事を減らしたり、宿舎の設備や衛生施設、衣服などを「中国人にはこれで充分だ」として、粗末なものにするよう指示したりしていた[25]
  • 内務省の指導に基づいて、各県の警察は、華人労務者使役事業所に対する指示文書の中で、治安対策上の指示の他に、華人労務者の住居や食事を「成るべく悪」いものにすること、親切にすれば増長するから親切に接しないこと、働けなくなった華人労務者の食事を減らすことなどを指示していた[26]
    • 例えば、移入288人中123人が死亡した日鉄鉱業・釜石事業所の『現地調査報告』は死因について以下のように報告している。

死亡率41.1%程度にして高率なるは、報告書記載の通、受入人員の素質劣悪なりしこと、及び、気候の悪条件が極めて強力なるも、特記すべきものとして、当県(岩手)警察部の極めて積極的な干渉により、全然俘虜の如き看守方針をとり、蟄居せしめ、給与待遇も劣悪を事業所側に強いたる明文あり。之が華労管理上決定的要素なりし為、会社側の自主的意向は全然採用されず、数次にわたり所長以下関係者、警察に召喚され、取締警備の点につき指示を受け居たり。

華労の宿舎は採光通風悪く、これが冬期厳寒時の悪条件と相俟ち、帯患たる皮ふ病、呼吸器病、栄養障碍等の治療を著しく阻害したる事実は、医師の明言する処にして、作業場と宿舎内とに行動を限定し蟄居せしめ居りたる事の精神的肉体的に与えたる影響、亦、甚大と言わざるべからず。之らが死亡率の高率なりし原因の一とも考えらるる点あり。

日鉄鉱業釜石鉱業所の『現地調査報告』[27]

死亡の状況[編集]

外務省報告書』によると、日本に連行・使役された華人労務者約4万人のうち6,830人が日本への連行中や使役先の事業所で死亡しており、全体の死亡率は17.5%にのぼった[28]。中でも死亡率の高かった事業所は下表のとおり。

表1:華人労務者使役135事業所のうち、死亡率上位10事業所
事業所 都道府県 「移入」数 うち死亡数 死亡率
戦線鉱業・仁科 静岡県 200 104 52.0%
川口組・芦別 北海道 600 273 45.5%
北海道炭鉱汽船・空知天塩 北海道 300 136 45.3%
日鉄鉱業・釜石 岩手県 288 123 42.7%
古川鉱業・足尾 栃木県 257 109 42.4%
鹿島組・花岡 秋田県 986 418 42.4%
日本鉱業・峰ノ沢 静岡県 ※197 81 41.1%
地崎組・大夕張 北海道 388 148 38.1%
三井鉱山・芦別 北海道 684 245 35.8%
宇部興産・沖ノ山 山口県 291 98 33.7%
資料:NHK(1994,pp.74-75)および石飛(2010,pp.27,28-35)により作成。 出所:外務省報告書。 ※日本鉱業・峰ノ沢の「移入」数は、石飛(2010,p.31)では177人とされているが、NHK(1994,pp.74)の死亡率と整合するよう197人に修正した。

皮膚病と視力障害[編集]

『事業所報告書』や『現地調査報告』の中では、事業所を問わず、非人道的な処遇による栄養失調症や虐待が高い死亡率の原因になっていたことが指摘されている[29]

NHK(1994,pp.166-169)は、『事業所報告書』に目立つ記載として、皮膚病の罹患者・死者と、視力障害者・失明者が多かったことを挙げている。

  • 『外務省報告書』は、連行者のうち延べ2万人以上が皮膚病に罹患していたとしている[30]
  • また同報告書は「不具廃疾」の総数467人のうち失明が217人、視力障害が79人を占めており、原因としてもともとトラホームなどの患者が多く、その後の衛生・医療状況が悪く、食糧事情からビタミンDが欠乏して視力障害を惹起・失明したものと推測している[31]

虐待[編集]

華人労務者に対する私刑や虐待があったことは、『外務省報告書』の要旨の中で「遇々末端に於ける指導の行過ぎ、虐待、不正取扱等の事実も絶無とは称し得ざる状態にして(・・・)」と言及があり、各事業所が作成した『事業所報告書』の中では虐待への言及は少ないが、調査員が作成した『現地調査報告』では、虐待の事例が具体的に報告されている[32]

華人労務者は日本人の警察官や事業所の指導員に監視されていたが、日本人が華人労務者を直接殴打することは少なく、華人労務者隊の統率者(大・中・小隊長など)に私刑ないし制裁を指示して、中国人に中国人を殴打させることが多かった[33]

暴動事件[編集]

1945年6月30日には、食糧など生活環境に関する非人道的な処遇や、指導員による虐待を背景として、鹿島組花岡出張所で華人労務者による暴動・集団脱走事件が起き、暴動直後の1945年7月の1ヵ月間に、同事業所では100人の華人労務者が死亡した(花岡事件[35]

戦後処理[編集]

華人労務者使役事業所での非人道的な処遇や虐待は、鹿島組・花岡出張所以外の事業所でも普遍的に行なわれていたとみられているが、終戦直後に日本政府からの命令を受けて関連資料の焼却など証拠の隠滅が行なわれ、冷戦の開始など国際情勢の変化もあって、訴追を受けた事業所は鹿島組花岡出張所など2事業所に止まり、それ以外の事業所での死没者について、戦犯裁判で「内地移入」政策や使役企業・事業所の管理責任が問われることはなかった。

  • 終戦直後の1945年8月16日には土木建設業者の業界団体・日本建設工業統制組合が軍需省から命令を受けて戦時中の中国人や朝鮮人に関する統計資料訓令その他の重要書類を焼却するなど、証拠の隠滅が行なわれ、
  • 戦後の1945年10月に、進駐軍による鹿島組花岡出張所の調査によって、中国人が日本に強制的に連行されて使役され、非人道的な処遇によって多数の死者が出ている状況が初めてGHQに報告された[36]
  • 1946年3月1日付で、華人労務者の中国への帰還事業を担当していた外務省管理局は実態調査をまとめた報告書(『外務省報告書』)をまとめ、日本における華人労務者の高い死亡率などの実態が明らかにしたが、内部資料としての取扱いに止まった[37]
  • 戦犯裁判アメリカ軍横浜裁判)では、鹿島組花岡出張所と日本港運業会の大阪の事業所の2事業所における虐待事件が戦犯裁判で訴追され、冷戦が始まり、米国が戦争賠償よりも日本の経済復興を優先するようになったなどの国際情勢の変化を背景に、それ以上の責任追及は行なわれなかった[38]

1980年代前半の花岡事件に関する鹿島建設に対する補償交渉などから、日本に連行され使役された中国人やその遺族が使役企業に謝罪や補償(損害賠償)を要求するようになり、花岡事件の他にも、1992年9月に熊谷組の事業所で使役されていた182人が熊谷組の北京事務所に謝罪と賠償を求める要求書を提出し、1993年7月に西松組の安野発電所で使役された中国人が来日して謝罪や補償を要求するなど、中国の強制連行被害者を日本の市民団体が支援して、日本企業に対する損害賠償請求が広く行なわれるようになった[39]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. NHK(1994)pp.122-123、杉原(2002)pp.35-44
  2. NHK(1994)p.67-北海道炭鉱汽船(編)『石炭国家統制史』による。
  3. 野添(1993)pp.9-11、NHK(1994)pp.66-68、杉原(2002)pp.45-49,西成田(2002)pp.60-61、林(2005)pp.9-10、石飛(2010)pp.20-21。国立国会図書館リサーチナビ トップ>政治・法律・行政>日本> 昭和前半期閣議決定等> 華人労務者内地移入ニ関スル件 2017年12月30日閲覧。
  4. 西成田(2002)pp.175-183、野添(1993)pp.11-14
  5. NHK(1994)p.68
  6. NHK(1994)pp.70-71、西成田(2002)pp.54-58
  7. NHK(1994)pp.70-71
  8. NHK(1994)pp.70-71
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 NHK(1994)pp.71-72
  10. NHK(1994)pp.73,242。差分の7.1%は「特別供出」による(同)。
  11. NHK(1994)p.72、西成田(2002)pp.54-58
  12. NHK(1994)p.146
  13. NHK(1994)pp.149-150-三井鉱山美唄鉱業所の『事業所報告書』による。
  14. NHK(1994)pp.149-150
  15. NHK(1994)p.147-151
  16. NHK(1994)pp.68-70、石飛(2010)pp.28-35。前者は「35社135事業所」を挙げているが、石飛(2010,pp.28-35)の一覧表には36社135事業所があり、業種:港湾かつ会社名:三共が5事業所あるが、NHK(1994,pp.70)によると業種:港湾の事業所は全て会社名:日本港運業会となっている。
  17. NHK(1994)p.74
  18. NHK(1994)pp.73-74
  19. NHK(1994)pp.73-74
  20. NHK(1994)pp.97,154-162、西成田(2002)pp.68-71
  21. NHK(1994)pp.157-158
  22. NHK(1994)pp.155-156-古河鉱業足尾鉱業所の『現地調査報告』による。
  23. NHK(1994)pp.97,154-162、西成田(2002)pp.68-71
  24. 西成田(2002)pp.68-71
  25. NHK(1994)pp.157-162
  26. NHK(1994)pp.155-156,162-166
  27. NHK(1994)pp.165-166
  28. NHK(1994)p.74
  29. NHK(1994)pp.166-169
  30. NHK(1994)pp.166
  31. NHK(1994)pp.166
  32. NHK(1994)pp.169-174
  33. NHK(1994)pp.172-174
  34. 例えば林(2008,pp.297-298)など。
  35. NHK(1994)pp.174-180
  36. NHK(1994)pp.183-184
  37. NHK(1994)pp.34-35,39,51
  38. 杉原(2002)pp.132,165-166、NHK(1994)pp.61,182-184
  39. NHK(1994)pp.216-219

参考文献[編集]

  • 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
    • 石飛仁『ドキュメント悪魔の証明-検証中国人強制連行事件の40年』経林書房、1987年、4767302773の増補改訂・改題版。
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
  • 林(2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波新書〉岩波書店、2005年、4-00-430952-2
  • 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
  • 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
  • NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
  • 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X