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最上義光
最上義光之像
最上義光之像
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文15年1月1日1546年2月1日
死没慶長19年1月18日1614年2月26日
改名白寿、義光
別名通称:源五郎、二郎太郎(通称)
渾名:高楡小僧丸、出羽殿、虎将
 出羽侍従
諡号
神号
戒名光禅寺殿玉山道白大居士
霊名
墓所光禅寺山形県山形市三日町)
官位従四位上右京大夫左近衛少将
出羽守、贈正四位
幕府室町幕府羽州探題
主君豊臣秀吉秀頼徳川家康
出羽国山形藩
氏族最上氏
父母父:最上義守  母:小野少将
生母を大崎氏とする説もある
兄弟最上義光中野義時?、長瀞義保
楯岡光直
正室:大崎夫人(釈妙英)
継室:清水義氏の娘
側室:天童頼貞の娘、他
最上義康最上家親清水義親
山野辺義忠上野山義直大山光隆
竹姫、松尾姫、駒姫
特記
事項
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最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名出羽(後の羽前国)の戦国大名最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。

本姓源氏家系清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利一門斯波氏の血筋で、最上氏は奥州探題大崎氏の庶流。大崎氏はもともと斯波氏を名乗っており、次男斯波兼頼が羽州探題として最上郡(今の村山郡)に入部し最上氏を名乗るようになった。

関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石[1]の大名に成長させて全盛期を築き上げた。

生涯[編集]

幼少期[編集]

天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将(永浦尼?)との間に長男として生まれる。幼名は白寿、通称は源五郎。

白寿誕生より遡ること三十余年の永正11年(1514年)、最上氏第9代義定は、長谷堂城における戦いで伊達稙宗に大敗した。稙宗の妹を義定の正室とすることを条件に両者は和議を結んだ。永正17年(1520年)には義定が僅か29歳で急死し、一時山形城まで占領されるほどであった。

義定には子がなかったため、最上氏は一族の中野義守を養子に迎える。伊達氏は最上家を傀儡化しようとしたが、最上一族が団結し抵抗したため果たせず、大永2年(1522年)、義守は最上家を継いだ。義守は最上家領内の復興に努め、天文11年(1542年)に伊達稙宗と伊達晴宗との父子の間に天文の乱が発生すると、稙宗に属して伊達領に出兵し長井を制圧し、独立を果たした。

白寿は永禄3年(1560年、永禄元年説あり)に15歳で元服し、将軍・足利義輝より「」の字を賜り義光と名乗った。この年3月、父の寒河江城攻めに随って初陣を飾っている。義守はこの寒河江攻めで戦果をあげることができず領土の拡張を断念した。伊達家のくびきからも完全に脱したとは言えず、最上氏の権威は失墜していた。

そんな中、義光は文武両道に秀でた青年に育ちつつあった。16歳の時には高湯温泉(現蔵王温泉)で盗賊を撃退し、その勇猛さを証明している。また、永禄6年(1563年)に義守・義光父子は上洛し将軍・義輝に拝謁しており、その道中の安全と武運長久を祈り義光の母・永浦尼が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。

永禄7年(1564年)頃には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)、長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生む。この婚姻はのちの両家に大きな影響を与えることとなる。

家督相続[編集]

義光が長じるにしたがって、父の義守は義光を嫌い父子同士が相争うようになった(天正最上の乱)。これに関しては、義守が伊達氏に父子和解を報告する書状が残っている。なぜ父子が対立したかについては原因がはっきりしていないが、父が伊達寄りの立場であったのに対して義光が伊達のくびきから脱する意志があったという立場の違いもあった。また、義光排斥を目指していたのは、義守のみではなかったことから、最上家再興を目指す義光に対する伊達家と義守の危惧や、周辺諸侯の反発があったことは否定できない。これらのことを考慮すれば、従来よく言われてきた義守と義光の個人的・感情的憎悪という理由のみでこのことを考えることはできない。

元亀元年(1570年)5月、対立していた最上父子は和解したと伝わる。翌元亀2年(1571年)、父・義守は下炬語を受け「栄林」と号し禅門に入り、その後は政治に関与しなかった。こうして義光は家督を相続した。

なお、義守と義光はその後も険悪な仲で、義守は死ぬまで政権奪回を狙っていたとする俗説があるが事実ではない。義光は義守重病の際には名僧を呼び祈祷を行い、葬儀は小田原参陣直前ながらも盛大に行うなど、孝を尽くしている。

家督相続に関する真偽[編集]

従来は、義光の家督継承を巡る騒動として、以下のような話が知られていた。

「義守が義光を嫌い、弟の中野義時を偏愛したため、ついに義守は義光を廃嫡し、義時に家督を譲ろうとしたため、義光は義守や義時と対立し、義光は味方となるのは近臣だけという苦しい立場に立たされた。重臣・氏家定直の調停により、元亀元年(1570年)8月(1571年8月説もあり)に義守は隠居し、義光が家督を継ぐという形で争いは終息したものの、定直死後再び両派は家督をめぐって抗争は再発、隠居していた義守も義時に味方し、家臣団も分裂、さらに陸奥から伊達輝宗が舅の義守に味方して出兵してくるなど、その抗争は激化した。しかし義光は防戦に努め、逆に一族・家臣団の粛清・統制を行ない、天正2年(1574年)に中野城を攻略し弟の義時を自害させた」

まず、江戸時代初期に最上氏が改易がされたため、最上氏の史料が少ない。そのため、軍記物や他家の史料に拠らざるをえない。しかし、江戸時代初期に成立したとされる軍記物である『最上記』『奥羽永慶軍記』などには中野義時は登場しない。また、同時代史料として重視される(敵方といえる)伊達・上杉の文書はおろか、『治家記録』のような編纂物にもその名は出てこない。義時の名は18世紀末に編纂された『稽補出羽国風土略記』において初めて登場する。家系図においてもその名が確認できないものの方が多い。

また、家督相続を願って義光が永禄13年(1570年)正月に山寺立石寺に捧げた願文を家督相続紛糾の根拠とするが、これは内容・用語・形式ともに願文の様式を呈していない。

これらの事実を重ねてみると、この逸話が創作であると見るほうが自然である。

出羽統一戦[編集]

義光が家督相続をした際、最上氏支族の天童氏東根氏蔵増氏上山氏若木氏らは素直に従わず、四面楚歌の状態であった。当時、最上氏は義守によってかろうじて独立したものの、それ以前には伊達の属国であったため威信は地に堕ち、一族の結束はすでに崩壊していた。そのため、これらの一族等は各地で独自に領国を形成し従おうとしなかったのである。たとえば天童頼貞は「今更義光に従う謂われはない」と言い放ったという。

当主となった義光は出羽統一に踏み出すが、このような不利な状況で武力を用いた戦いを仕掛けることには無理があった。義光は家中法度の整備など、まずは内政から取りかかった。天正5年(1577年)には一月遅れで織田信長に謁見し「最上出羽守」に任じられたという文書が近年発見されており、まずは中央と交渉し権威を持とうとしたことがわかる(新発見書状より、山形新聞・平成6年3月4日朝刊記事)。こうして足場を固め、攻勢に転じた義光は、謀略・説得・降伏勧告・敵陣営分裂といった手段を用いて攻略をすすめていく。

天正5年(1577年)、義光は天童氏攻略を目指すも決着せず、城主・天童頼貞の女を義光の側室とすることで和睦を結んだ。

天正6年(1578年)、上山城主・上山満兼伊達輝宗と連合して最上領に侵攻した。義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込むと、敵陣に鉄砲隊で集団射撃を加え連合軍に手痛い打撃を与えた。浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が陣中を駕籠で突っ切り参じ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。義光はこれ以来、満兼に対して強い警戒心を抱くようになった。

天正7年(1579年)8月、義光は重病に罹っていたらしく湯殿山で祈願を行っている。

天正8年(1580年)、義光は宿敵である上山城主・上山満兼の重臣・里見民部少輔に誘いをかける。この機に義光は、民部少輔に満兼を裏切り内応すれば上山2万1千石をそのまま与えると約束する。それに乗った民部少輔は兄の里見内蔵助を斬殺し、満兼を討ち取り上山城を占拠した。

村山郡を征圧した義光は、小野寺氏が支配する最上郡攻略を目指した。天正9年(1581年)、早春、尾花沢で「馬揃え」を大々的に行う要出典。これには村山郡だけではなく最上郡の国人衆も大挙して集った。こうして最上の力を見せつけることで、戦わずして国人を支配下に置き、かつ敵味方の区別をつけた。この馬揃えに出馬しなかった小国城主・細川直元に対し、義光は出兵した。細川直元の裏を掻き、山刀伐峠を越えて細川領に攻め入った。慌てて軍を返した細川直元は万騎の原で敗れ、小国城は落城し滅ぼされた。夏には小野寺氏の重臣で鮭延城主・鮭延秀綱に調略を仕掛け、秀綱を降伏させ最上郡も制圧する。秀綱は本領を安堵され、義光の重要な家臣となった。

天正10年(1582年)、三男・義親を産んだ天童御前が病死したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。

天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画する。しかし、義光は事前に大宝寺家臣の前森筑前を内応させており、前森筑前は逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃し、義光は庄内進出の一歩を踏み出した。

天正12年(1584年)、谷地城主の白鳥長久の勢力伸長が義光にとって目に余るものとなってきていた。長久は無断で羽州探題を名乗って織田信長と親交を深めていた。この状況を危惧した義光は、嫡子・義康と長久の娘を婚約させることで懐柔しようとしたが、長久は応じなかった。義光は一計を講じ、病で重体であると偽り長久を山形城に招き、自ら斬殺した。しかし谷地城の遺臣たちは降伏を潔しとせず、義光は軍を派遣して落城させた。このあとすぐに、義光は長久と連合していた寒河江城主・大江高基に狙いを定める。高基の先代である大江兼広は、男子がなかったため義光の嫡男・義康に跡を継がせる約束をしていたが、これを反故にして吉川高基を後継者にすえており、義光の不興を買っていた。高基は白鳥氏の旧臣と糾合して防戦した。高基の弟・羽柴勘十郎の奮戦に苦しんだ義光は、陣を引いたと見せかけて勘十郎を誘い込み、伏兵の鉄砲射撃により射殺した。高基は逃走して切腹した。こうして寒河江大江氏は滅んだ。

同年、父・頼貞の跡を継いだ、天童頼久を攻めるも、天童氏と盟約を結ぶ延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。満延の武勇に感嘆した義光は、満延の嫡男・延沢康光に次女・松尾姫を嫁がせることで、寝返らせることに成功する。以降、延沢満延は義光の最も信頼の厚い重臣の一人として活躍する。満延の寝返りを機に「天童八楯」と称された一団は崩壊し、天童氏と同族にあたる東根氏の東根頼景に対しては、家老・里見源右衛門を調略し内応させて内側から東根城を切り崩すことで勝利をおさめた。こうして追い詰められた天童頼久は伊達氏を頼って落ち延びた。

天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。

天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・大宝寺義興上杉家家臣本庄氏出身)が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃、自刃させた。また、義興の養子・大宝寺義勝を追放した。

天正16年(1588年)2月、伊達政宗は1万の軍勢で大崎義隆を攻撃した(大崎合戦大崎氏は義光の正室の実家)。それに対し義光は援軍5,000を派遣、伊達軍を破ったが、妹・義姫(保春院)の懇願によって和睦した。また、伊達政宗が山形に侵攻した時これを迎え撃つ姿勢を取ったが、伊達家との決戦の直前義姫が突然戦場に現れ、両者を驚かせた。義姫は自分の兄(最上義光)と息子(伊達政宗)、つまり伯父と甥の骨肉の争いを見るに偲びず、両者の和解のために両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせた。義光と政宗は再三戦場から立ち退くよう要求したが、義姫は応じず、結局両者は戦うことなく和議を結んで撤退した。このとき、最上勢が動けないと判断した大宝寺義勝の実父・本庄繁長が大軍を率いて庄内に進軍する。義光も派兵するが、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は上杉氏に奪われた。その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は対抗して徳川家康を通じて交渉にあたるも、外交戦に敗れ庄内地方は上杉領として公認された。これ以後も、義光と家康の友好関係は続き、最終的には関ヶ原の対上杉戦、さらには江戸幕府の領地加増につながる。

豊臣政権下[編集]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に徳川家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった。奥州仕置の際、仙北で起きた大規模な一揆に乗じて仙北に出兵し、小野寺領の雄勝郡上浦郡の一部)を領有した。

なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺をもくろんでいたとされることがあるが、荒唐無稽な謬説と考えた方が自然である(義姫参照)。

天正19年(1591年)頃から、義光は徳川家康との接近を強めており、家康が九戸政実討伐に来た際には次男・家親を、諸大名にさきがけて徳川家の小姓として差し出している。この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。義光は断ったが、度重なる要求に屈ししぶしぶ娘を差し出すこととなった。駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。

一方で秀吉とその側近たちとは波長が合わなかったようである。奥羽で撫で斬りも辞さない過酷な検地を行う秀吉に義光は不快感を抱き、一方で緩やかな検地を行う義光を秀吉側は相手と通じているのではないかと疑った要出典

天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。2月、連歌師たちは、連歌会に義光より発句をもらうことにしていた。義光はこれに答え、のちに畑谷城で奮戦する江口光清を使者として、京まで句を届けている。また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。

文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。この計略にはまった義道は道為を成敗した。その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、戦後改易された。

文禄4年(1595年)、豊臣秀次が謀叛の疑いで切腹させられ、その際、義光の娘の駒姫が京三条河原で15歳の若さで、事件に連座し処刑された。一説ではこのとき駒姫は実質的な側室ではなかったという。義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事をとることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。

義光は秀吉の不興をかい、さらに伊達政宗らとともに秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。このとき、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場がわかる。この処分は間もなく解けたが、義光と最上家臣団は秀吉への不信感と敵意を募らせたとみられる。後の関ヶ原の戦いで東軍方についたのも、この件が影響しているという説もある。これ以来、慶長の大地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康の護衛を自発的にする等、徳川方への傾斜をますます強めていく。

慶長3年(1598年)、会津領主蒲生家で幼君蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封された(蒲生騒動)。もともと蒲生氏は、奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために秀吉により送り込まれていた。秀吉は家臣の争いも治められない幼君の蒲生氏の代わりに、上杉景勝を越後から転封させた。これは義光にとっては非常な脅威となった。景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、さらに最上領は西と南から上杉領に挟まれてしまうこととなる。逆に景勝からみると、会津と庄内の間を最上領により分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。

慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)[編集]

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝が軍備を増強していることを詰問する。上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。しかし、家康が会津征伐に赴いている最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵する。家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、伊達政宗、結城秀康らに上杉景勝の牽制を命じ上方に引き返した。

これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。しかし、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。

上杉景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して最上義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。

わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。他にも上山城・里見民部湯沢城楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。

義光は嫡子・義康を派遣し、甥・伊達政宗に援軍を要請した。この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた。政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。一説によれば、政宗は重臣片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。

9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。

上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃した。こうして短期間のうちに上杉領の庄内地方・由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。

義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽(後の羽前)山形藩の初代藩主となった。また、秋田実季が東軍を裏切ったとして訴え、移封させた。

最上の藩政[編集]

江戸幕府成立以降、藩政の確立に尽力した。義光は居城である山形城の大改築を行い、国内有数の広さの平城に拡張した。また、自らの隠居所として大宝寺城を鶴岡城と改称し、改築にも着手した。義光は人材や築城技術においても全国各地からすぐれたものを取り入れようと取り組んでおり、こうした技術は山形城の構築、最上川開削等に反映されている。義光は山形城下においては免税措置を行った。地子銭年貢を免除し間口四間半あるいは五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えた。職人たちは諸役と人足役も免除した「御免町」で優遇した。職人の中には家臣並の待遇を受けたものもおり、特に城下建設に必要であった大工は手厚い保護を受けた。当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒半で人口19,796人であった。これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。

商人町としては、羽州街道沿いに「市日」のつく区画を整備した。南から五日町、八日町、十日町、七日町、六日町、四日町、さらには脇の二日町、笹谷街道沿いの三日町にも市が立ったということは、一と九を除く毎日どこかで市があったということがうかがえる。商業にも力を入れ、近江商人をはじめ外来の商人の出入りの自由も許した。職人も募集し、職人町として桶町、檜物町、銀町、塗師町、蝋燭町、材木町を創った。

交易品の流通路となる街道の整備に取り組み、山形から庄内への道と、寒河江経由で庄内に出る街道を大改修した。これらの道は大変狭く、悪天候下では危険極まりなく、冬期間は通行不能となっていたためである。また、水運路である最上川の三難所も開削し、舟運の安全を図った。こうして近畿との交易を活発化し、出羽の特産物を全国に流通させた。「西の堺、東の酒田」とよばれた酒田港発展の基礎は義光時代に築かれたのである。

義光は治水工事を積極的に推進した。慶長11年(1606年)からは赤川の治水を行い、家臣に命じ因幡堰、中川堰、青龍寺川といった疏水を開削した。これにより鶴岡を洪水から守り、用水問題を解決した。

最も大規模な治水事業は、北楯大学堰である。最上川左岸地域は、平坦だが水利が悪く雑木林と草原広がり、細々と田を耕す民がまばらにいるだけだった。狩川城主・北楯利長はこれを憂い、十年間地道な調査を行った。彼は立谷沢川の水を平野にひくことで数千ヘクタールにも及ぶ土地を潅漑しようという計画し、義光に願書を提出した。しかし近代的な技術もない当時は実現は難しく、重臣たちは評定でこぞって反対した。利長はあきらめずに義光に直訴するが義光も即答せず、石井若狭という土木技術に優れた家臣に改めて調査を命じたところ、成功の見込みがあると報告されたため開発を許可した。このとき庄内一円から集められた人夫は7,400名に及んだ。「三年以内に開発できねば、切腹する」と宣言した利長の決意にうたれた義光は、利長の命に背く者は即刻懲罰に処すと各城主に厳命した。工事は慶長17年(1612年)夏から始まり、翌年秋までに全長12kmにおよぶ大水路が完成した。義光は利長に300石を加増し、この用水で開拓される新田が何万石に達しようと、利長の知行として取らせるという証書を下した。さらに頭巾を賜り、「庄内末世の重宝を致し置き候」と述べその功績を絶賛した。この工事の結果庄内の石高は上昇し、これより20年の間に18ヶ村が増えた。こうして完成した北楯大堰は、現在に至るまで農業生産に大きく寄与している。

最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。愛用の指揮棒に「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。義光は領土拡大と藩政確立に伴い、寺社の建立と保護を行った。最上山専称寺、立石寺、羽黒山、義光山常念寺(嫡子義康の菩提寺)などは義光時代に建てられた寺である。山形一の伽藍を持つ専称寺は、非業の死を遂げた愛娘・駒姫と妻を供養するためのものだといわれ、山形城内から駒姫の居室が移築された。境内には義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説のある「駒つなぎの桜」が残されている。

義光の政策の特色として、家臣の厚遇があげられる。俸禄4万5千石を最高に1万石以上の家臣が14~18名に達していた。家臣の知行割りをあわせると、合計66万石以上であった。「最上百万石」という呼称は、知行割りを合計すると百万石を超えたためと言われている。この家臣優遇策は、彼の代まではその求心力で保たれていたが、結果的に最上崩壊の一因となる。

文化面では一花堂乗阿山本宗佐らを領内に招いている。乗阿は慶長8年(1603年)、光明寺の住職として招請しており、彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた。義光は文化の保護と移入に取り組んでおり、文学を家臣等にも熱心に奨励した。こうして山形城下に、華麗な桃山文化が花開いた。

晩年[編集]

繁栄を誇っていた最上家に、暗い影を落とす事件が起こった。義光と嫡男・義康は当初良好な関係であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。そんな中、慶長8年(1603年1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない(最上義康参照)。

家康は、義光が近侍させていた次男・最上家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には二代目・家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。

義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。

慶長16年(1611年)3月、従四位下左近衛少将出羽守に叙位・任官する。その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。

慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。享年69。葬儀当日、寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。

義光後の最上家[編集]

義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、義光の孫・最上義俊が藩主となったが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易となった(最上騒動)。義俊の死後はさらに石高を1万石から5000石に減らされ、最上家は大名の座から消えたが、幕府の旗本の高家として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。また、四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。テレビ時代劇水戸黄門に登場する国家老・山野辺兵庫は、山野辺義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。

大正13年(1924年)2月11日、宮内省より正四位を追贈された。昭和52年(1977年)、霞城公園内に「最上義光公勇戦の像」が作られ、平成元年(1989年)12月1日、最上家史料を展示し義光を顕彰する施設として、山形市によって最上義光歴史館が建設された。

人物像[編集]

戦術的特性[編集]

  • 義光の戦いの特色として謀略が真っ先に思い浮かべられることが多いが、その裏には合理性と無意味な殺戮の忌避がある。そもそも、家督相続時は数郡を支配したに過ぎず力攻めなどできない状態であったため、義光は戦わずして勝つ方法を模索せねばならなかった。敵陣営の分裂や離反を計って戦う前に戦意を喪失させることを得意とし、無駄な損耗を避けていた。敗走した相手を追うことはせず、天童頼久らが逃亡してもこれを黙認している。嫡流を義光に滅ぼされた寒河江氏は、蘆名氏を頼って落ちのびていたが、義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。
  • 義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正2年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。最上家には弓500張に対し2,000丁余の鉄砲があった。
  • 義光に降伏や内通する敵が多かったのは、彼の寛大な性格が知れ渡っていたことも大きい。彼は「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。彼は有能な人材を見ると配下に加えたいと熱望し、勧誘するのを常とした。その際にはその人物の好みにあわせて、かなりの好条件を提示していた。
  • 義光は力が強く武勇にも優れていた。幼少の頃から背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度に見え、16の頃には7,8人がかりで動かしたた大石をやすやすと転がしたという。蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人で持ち上げたという「義光公の力石」が残されている。16歳のとき、父の供をして蔵王温泉へ湯治に行った際、鹿狩りのあと眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。義光は先頭に立って防戦、二人に重傷を負わせ一人と組み合って刺殺、その際に顔に複数の傷を受けたという。我が子の武勇を賞して父は名刀・笹切を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙していたという(羽陽軍記奥羽永慶軍記に記述あり)。また、最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒は、重量およそ1.8キログラム(刀の約二倍)であり、義光が実戦で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったと想像できる。
  • 家臣の制止を振り切った義光が単騎突撃を行い、敵の首を取って自陣に引き返してきたのを見た氏家守棟が涙ながらに「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか、御大将ならば軽々しい振る舞いは控えられよ」と諫めたため、義光は面目なさげに首を投げ捨てたという話が伝わっている。
  • 義光は、他の奥羽の武将に比べ上方や天下の情勢に精通していた。小田原参陣前に義光が安東愛季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とあり、彼が事前に豊臣政権中央と交渉していたことがわかる。

主な内政業績[編集]

義光は自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」という唄になるほどであった。

  • 治水工事の積極的な推進による、米の増産
  • 最上川三難所の岩礁の大開削による水運の向上
  • 寺社・仏閣の建立、および巡礼者の保護
  • 山形城の大改築
  • 山形城下の整備
  • 大規模な免税、「地子銭」の廃止
  • 紅花の種まき・栽培の奨励要出典
  • 米穀管理のための「米券法」制定
  • 文化の移入と保護

こうした義光の政策は、現在に至るまで山形の都市基盤として残っている。山形市の町割り・初市、最上川の水運開発による酒田港の繁栄、庄内平野の開墾による日本屈指の米どころの誕生などである。

文化人としての素養[編集]

  • 義光は絵巻物・屏風・陶器等の美術品の蒐集を好んでおり、山形城下に華やかな桃山文化を伝えた。
  • 義光は『源氏物語』、『伊勢物語』等古典文学に親しんだ。『源氏物語』に関しては、上洛中一花堂乗阿から指導を受け、切紙(免許状)を授けられた。
  • 義光が残した連歌の数は、同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さであり、現存33巻、248句にのぼる。同席した文化人も里村紹巴黒田如水前田玄以など錚々たる顔ぶれであり、後陽成天皇から発句を賜ったこともあった。連歌の研究書『連歌新式注』一巻も執筆しており、義光を桃山連歌の主要作家と評する声もある。 「梅咲きて 匂い外なる 四方もなし」などは、義光の見事な句である。和歌や手紙の文体・書体も秀でており、その文才は高く評価されている。
  • 妹・義姫との間でやりとりした手紙が現在も多数残されている。「さてもさても御ねんころに候て、一度御めにかかり、そら(虚)もまこと(実)もかたり申度候」といった文面からは、兄妹の仲の良さがよくわかる。長らく、義光はその名前から「よしみつ」、「よしてる」等と呼ばれていたが、彼が義姫に宛てた手紙に自らの名を平仮名で「よしあき」と書いていたことから、「よしあき」が正しい呼び名であることが明らかになった。名護屋滞在中に家臣に当てた書状の一節「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候(最上の)水を一杯のみたく候」は、彼の強い郷土愛をしのばせる。晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず、自筆で書状を記していることも注目される。

逸話[編集]

  • 義光には当時描かれた肖像画は伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。
  • 冷徹な印象が強い義光だが、家族を愛する面を示す逸話もある。最上伊達両家の抗争を止めよう駕籠で乗り付けた義姫に、幼い我が子が慕い戯れたのを見て号泣したという。
  • 義光は豪傑肌の人物を好むところがあった。家臣の延沢満延が大層な剛力だと知った義光は、家中より豪傑を7、8人ほど集めて庭に潜ませた。その庭に満延を案内し、豪傑を彼に飛びつかせた。満延は飛びかかった男どもをすぐさま振り切ったため、義光はこれは敵わないと逃げ出し幹廻り2尺ほどの桜に捕まった。「放せ!」、「放すか!」と両者がもみ合ううちに桜の木は根から引き抜かれて、義光ごと倒れた。義光はますます満延を気に入り、彼の息子の嫁とする娘・松尾姫の将来を彼に頼んだ。義光は延沢夫妻を気に入っていたのか、名護屋からの手紙でも「早く延沢夫妻に会いたい」と書きつづっている。またある時義光は、由利一族の大井五郎という剛力のものが横暴だとして、土地の者から討ち果たすよう頼まれた。義光は五郎を山形城に招いたが、5、6人前の食事を平らげる五郎の男ぶりにすっかり感心し、暗殺計画をすべて打ち明け褒美をとらせて帰らせたという。
  • 鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛が、義光の正室付きの侍女・花輪に惚れ、隠れて文のやりとりを重ねるようになった。ある日落とした恋文よりこのことが発覚し、義光はこの二人に死罪を命じた。しかし義光は鮭延秀綱の諫言により罰することをとりやめ、花輪を勘兵衛の妻として賜った。勘兵衛はこれに感激し、慶長出羽合戦では鮭延秀綱をかばい討ち死にを遂げ、花輪も夫のあとを追い自害した。勘兵衛の遺書を目にした義光は、二人を罰しようとしたことを大いに恥じ涙を流し、丁重に夫妻を弔った。
  • 日本三大植木市の一つとされる山形市の「薬師祭植木市」は、義光が大火で失われた緑を取り戻そうと住民に呼びかけたのがはじまりとされている。
  • 山形城にある義光像は馬が二本脚で立つ大変珍しい形をしている。この造型は寄贈者である鈴木傳六でん六創業者)たっての意向であり、大変難度の高い技術を用いているとのことである。

評価[編集]

義光について、軍記物においてであるが、以下のような評価が存在し、英雄視されていたことが分かる。

  • 「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし」(『最上義光物語』)
  • 「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。」(『会津四家合考』)
  • 「武勇は人にすぐれ、就中(なかんづく)慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。」(『会津四家合考』)
  • 「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。」(『奥羽永慶軍記』)

また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)というように称されることがある。

しかし、死後に最上家が改易されたため最上家側の史料は乏しく、義光について書くとなると敵対した伊達家側の史料を引用することが多くなること、また、義光自身に調略を用いて敵を滅ぼした事蹟がたびたびあること、さらに検証不足の史料で誇張された様々な奸悪な挿話の印象から、現代の小説・時代劇などでは奸雄として描かれることが多い。近年では改善されつつある。

NHK大河ドラマ独眼竜政宗』は平均視聴率、最高視聴率ともに歴代大河No.1になるほどブームとなったが、この作品においても最上義光(原田芳雄)は陰謀で政宗を窮地に落とし込む悪役として描かれることになってしまった(ドラマと史実との相違点など詳細は「独眼竜政宗の登場人物」を参照)。

系図[編集]

兄弟姉妹
  • 大崎氏(? - 1595)としよ姫、大崎義隆の妹。秀次事件後、義光とともに聚楽第に監禁され1595年8月16日急死。肖像画が専称寺に残されている。墓所は寒河江市不動産正覚寺。
  • 天童氏(? - 1582)天童頼貞の娘。天童氏との和睦条件として嫁ぐ。三男・義親出産直後の1582年10月12日に死去
  • 清水氏(1577 - 1638)清水城主・清水義氏の娘。大崎夫人の死後、20歳で義光に嫁ぐ。文才に秀でていたという。義光死後は落飾し浄土真宗光明寺を開基、寺領54石の御朱印を賜った
  • 最上義康(母:大崎氏、1575 - 1603)廃嫡後何者かによって暗殺される
  • 最上家親(母:大崎氏、1582 - 1617)山形藩二代藩主、三男説あり
  • 清水義親(母:天童氏、1582 - 1614)清水城主、豊臣方へ通じた疑いをかけられ兄・家親に攻められ自刃、二男説あり
  • 山野辺義忠(母:深堀氏?、1588 - 1644)山野辺城主、最上家改易後は水戸藩家老となる。義光の男子で唯一天寿を全うした
  • 上野山義直(母:不詳、1594 - 1622)上野山城主、最上家改易後、預け先で切腹
  • 大山光隆(母:不詳、1602 - 1625)最上家改易後、預け先で切腹
  • 竹姫(母:大崎氏、天正年間前期生まれか)氏家光氏
  • 松尾姫(母:大崎氏、1578 - 1606頃)延沢康光
  • 駒姫(母:大崎氏、1581 - 1595)別名お伊万の方。豊臣秀次側室、秀次に連座し処刑される

主要家臣[編集]

江戸初期の主な城将配置[編集]

義光は江戸初期に、領内各地の城に城主を配置した。多くの城主が領内を支配し、山形藩は事実上、城主の連合政府であった。以下に、主な城主を表示する。

最上一門
家臣団

一万石以上の家臣が16人、千石以上が63人、100石以上が850人いたという(「最上家伝覚書」)。

参考文献[編集]

  • 『山形市史 上巻』(原始・古代・中世編)
  • 『山形市史 中巻』(近世編)
  • 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』
  • 『山形県史 第二巻』(近世編上)
  • 『奥羽の驍将 最上義光』
  • 『最上義光』
  • 『北天の巨星 最上義光』
  • 『最上義光合戦記』
  • 『評伝 最上義光』
  • 『最上義光の面影を追う』
  • 『陸奥・出羽 斯波・最上一族』
  • 『戦国大名家臣団辞典 東国編』
  • 『山形藩』
  • 『山形合戦』
  • 『川崎浩良全集』
  • 『歴史読本』2007年8月号
  • 最上義光歴史館だより
  • 最上義光(中村晃:PHP文庫)

関連項目[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

TVドラマ[編集]

楽曲[編集]

  • 清水大輔「決戦の運命~Fate of a Decisive battle」

脚注[編集]

  1. 『徳川実紀』、伊豆田忠悦「山形藩」『藩史大事典 第1巻』(雄山閣出版、1988年)による。

外部リンク[編集]

出典[編集]


先代:
最上義守
出羽最上氏当主
第11代:1570年 - 1614年
次代:
最上家親
先代:
-
山形藩主(最上家)
初代:1600年 - 1614年
次代:
最上家親