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== 沿革 == | == 沿革 == | ||
=== 構想 === | === 構想 === | ||
− | 1910年(明治43年)は「名古屋開府300年」にあたり、祝賀行事の一環として、尾張徳川家は同年4月9日から3日間、名古屋で、初代・[[徳川義直|義直]]ゆかりの品を中心とした什器の展覧会を開催し、また同年3月-6月に名古屋市門前町の[[愛知県商品陳列館]]で開催された新古美術展覧会に書画や器物を出品した。それ以降、尾張徳川家の什宝は『[[国華]]』誌でたびたび取り上げられるようになった。 | + | 1910年(明治43年)は「名古屋開府300年」にあたり、祝賀行事の一環として、尾張徳川家は同年4月9日から3日間、名古屋で、初代・[[徳川義直|義直]]ゆかりの品を中心とした什器の展覧会を開催し、また同年3月-6月に名古屋市門前町の[[愛知県商品陳列館]]で開催された新古美術展覧会に書画や器物を出品した。それ以降、尾張徳川家の什宝は『[[国華]]』誌でたびたび取り上げられるようになった。{{Sfn|香山|2014|pp=3-6,7-8,16}} |
− | + | 1912年4月には、[[東京帝国大学]]・[[京都帝国大学]]の文科大学の教授・講師が名古屋・大曽根邸を訪問して什宝を観覧、同行した[[国華]]社が什宝の写真を撮影し、同年5月18日に東京帝国大学文科大学の集会所でこの写真の展示会が行なわれ、反響を呼んだ。また1915年5月29日には、東京帝国大学の[[東京大学の建造物#本部・共同利用施設|山上御殿]]で源氏物語絵巻3巻など尾張徳川家所蔵の絵巻物6点の展覧が行なわれ、約700人が観覧に訪れた。{{Sfn|香山|2015|p=28}}{{Sfn|香山|2014|pp=15,20}} | |
− | 什宝の展覧会がたびたび話題を呼んだことで、尾張徳川家第19代当主・[[徳川義親|義親]]は、什宝の保存や公開の必要性を感じるようになり、美術館の設立を構想したとみられている | + | 什宝の展覧会がたびたび話題を呼んだことで、尾張徳川家第19代当主・[[徳川義親|義親]]は、什宝の保存や公開の必要性を感じるようになり、美術館の設立を構想したとみられている{{Sfn|香山|2014|p=20}}。 |
=== 設立準備 === | === 設立準備 === | ||
− | 1910年代後半に尾張徳川家は拠点を名古屋から東京に移して、名古屋の土地家屋を処分、拠点・事業の整理・縮小を進め、名古屋における同家の拠点は大曽根の別邸に集約されることになった。同家[[尾張徳川家#御相談人|御相談人]]の[[片桐助作 (1851年生)|片桐助作]] | + | 1910年代後半に尾張徳川家は拠点を名古屋から東京に移して、名古屋の土地家屋を処分、拠点・事業の整理・縮小を進め、名古屋における同家の拠点は大曽根の別邸に集約されることになった。同家[[尾張徳川家#御相談人|御相談人]]の[[片桐助作 (1851年生)|片桐助作]]は、1910年から1915年にかけて未鑑定品を中心に同家の什宝の整理を進めた。{{Sfn|香山|2015|pp=27-28,31-32}}{{Sfn|香山|2014|p.11}} |
− | 1920年1月12日に義親は新聞を通じて大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表 | + | 1920年1月12日に義親は新聞を通じて大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表{{Sfn|香山|2015|pp=28,32-33}}<ref>{{Harvtxt|香山|2014|p=2}}は、1919年(大正8年)に美術館建設計画を発表した、としている。</ref>。予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた{{Sfn|香山|2015|pp=32-33}}。1921年には、片桐の整理の結果を基に、重複品・不要品とされた什宝(全体の10-15%)が[[競売]]に出され、売上総額約57万円は博物館の設立準備金として運用された{{Sfn|香山|2015|pp=28,32-36}}。 |
=== 開設 === | === 開設 === | ||
− | 1929年に[[鈴木信吉]]が尾張徳川家の家令となると、博物館構想は急速に具体化し | + | 1929年に[[鈴木信吉]]が尾張徳川家の家令となると、博物館構想は急速に具体化し{{Sfn|香山|2016|p=104}}、1931年12月、[[財団法人]][[徳川黎明会|尾張徳川黎明会]]が設立され、尾張徳川家伝来の什宝・書籍類のほとんどが同財団に寄付された{{Sfn|小田部|1988|pp=18,46-47}}{{Sfn|林政研|2013}}。 |
− | + | 1932年に美術館のデザイン設計が懸賞公募に付され、その優秀作を基に施行設計図が作成された{{Sfn|徳川|2006|p=99}}。同年9月に大曽根で美術館建設が着工した{{Sfn|香山|2016|p=121}}。 | |
− | [[1935年]] | + | 義親は、1933年に、[[蜂須賀正氏]]の「[[豊国祭礼図屏風]]」、[[紀伊徳川家]]の[[徳川頼貞]]の「[[加藤清正|清正]]公兜」など、他の華族が経済的に逼迫して競売に出した家宝を落札、1935年には[[近衛文麿]]から「[[侍中群要]]」を交換で入手するなどして、開館準備を進めた{{Sfn|小田部|1988|pp=47-49}}。また義親は、源氏物語絵巻の一般公開に際して、長年絵巻の開巻を繰り返したことにより劣化が進んでいたため、[[田中親美]]に絵巻を切断させた{{Sfn|小田部|1988|p=30 - 義親の日記による。当初周囲の猛反対にあって切断が実行されるまでに3年を要したという。}}。 |
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+ | [[1935年]]3月に美術館の建物が竣工し{{Sfn|徳川|2006|p=99}}、同年[[11月10日]]に美術館は一般公開を開始した{{Sfn|香山|2014|p=1}}{{Sfn|林政研|2013}}{{Sfn|愛知県|2011}}{{Sfn|小田部|1988|p=29}}。 | ||
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+ | === 戦災 === | ||
+ | 戦時中には、爆撃機の標的とならないように、建物の外壁が迷彩柄に塗られたが、建物近くに爆弾が落ちて建物北側の窓や扉のガラスが爆風で吹き飛び、爆弾の破片により建物内の展示ケースのガラスが割れるなどの被害を受けた。また[[戦時回収]]によって金属製の部品が持ち去られた。{{Sfn|徳川|2006|p=107}} | ||
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+ | === 暴風雨被害と復旧 === | ||
+ | 戦後、応急措置をして再開館したが、1959年9月の[[伊勢湾台風]]で地下室が浸水し、庭木が倒れるなどの被害を受けた{{Sfn|徳川|2006|p=109}}。1961年に[[東京銀行]]を退行した[[徳川義宣]]は、美術館の建て直しに取り組み、資金も限られていたため、山林種苗組合から[[山出し]]用の外国樹種の[[三葉松]](学名ピヌス・テーダ)の苗約500本を購入し、美術館の職員が総出で庭木を植樹した{{Sfn|徳川|2006|p=109}}。 | ||
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+ | === 改修 === | ||
+ | 1986年9月から、開館から50周年を期に大規模な増改築工事が行なわれ、新たな展示室6室が設けられて、1987年10月に再開館した{{Sfn|徳川|2006|pp=93,100}}。 | ||
== 建物 == | == 建物 == | ||
− | 徳川美術館本館と南収蔵庫の建物は、[[吉本与志雄]]の設計により1935年に竣工した[[帝冠様式]](和風の屋根や外観をもった洋式建築)のデザインの建物で、造形の規範となっているものとしてそれ自体が[[1997年]]6月12日に国の[[登録有形文化財]](建造物)に登録されている<ref>[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=101&item_id=00000212 国指定文化財等データベース > 徳川美術館本館] | + | 徳川美術館本館と南収蔵庫の建物は、[[吉本与志雄]]の設計により1935年に竣工した[[帝冠様式]](和風の屋根や外観をもった洋式建築)のデザインの建物で、造形の規範となっているものとしてそれ自体が[[1997年]]6月12日に国の[[登録有形文化財]](建造物)に登録されている<ref>[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=101&item_id=00000212 国指定文化財等データベース > 徳川美術館本館](文化庁、2016年)、{{Cite web |author= 愛知県 |year= 2011 |title= 文化財ナビ愛知 > 徳川美術館本館・南収蔵庫 |date= |url= http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1022-1023.html |publisher= 愛知県 |accessdate= 2016年9月29日閲覧}}</ref>。 |
− | == | + | == 収蔵品 == |
主な収蔵品は、 | 主な収蔵品は、 | ||
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*徳川将軍家や一橋徳川家、蜂須賀家など他の大名家の売立てでの購入品 | *徳川将軍家や一橋徳川家、蜂須賀家など他の大名家の売立てでの購入品 | ||
*名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家をはじめとする篤志家らからの寄贈品 | *名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家をはじめとする篤志家らからの寄贈品 | ||
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収蔵点数は、2018年現在、[[国宝]]9件、[[重要文化財]]59件を含む1万件余り<ref>[http://www.tokugawa-art-museum.jp/about/treasures/ 徳川美術館 > おもな収蔵品]</ref>。 | 収蔵点数は、2018年現在、[[国宝]]9件、[[重要文化財]]59件を含む1万件余り<ref>[http://www.tokugawa-art-museum.jp/about/treasures/ 徳川美術館 > おもな収蔵品]</ref>。 | ||
+ | *2002年頃、『[[東福門院入内図屏風]]』を購入{{Sfn|徳川|2006|pp=112-118}} | ||
*2000年当時は、国宝9点、重要文化財52点<ref>毎日新聞社(2000)pp.92-93</ref> | *2000年当時は、国宝9点、重要文化財52点<ref>毎日新聞社(2000)pp.92-93</ref> | ||
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を収蔵していた。 | を収蔵していた。 | ||
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== セクハラ事件 == | == セクハラ事件 == | ||
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{{Quotation|財団にはこれまでにも再三訴えて参りましたが、このような'''前近代的'''かつ恣意的な措置がとられる組織において、職制を通じた申し入れなど全く意味をなさないため、これからは退職勧奨問題・ハラスメント問題など、全て組合が対応いたします。||徳川美術館 学芸員一同}} | {{Quotation|財団にはこれまでにも再三訴えて参りましたが、このような'''前近代的'''かつ恣意的な措置がとられる組織において、職制を通じた申し入れなど全く意味をなさないため、これからは退職勧奨問題・ハラスメント問題など、全て組合が対応いたします。||徳川美術館 学芸員一同}} | ||
− | 同年10月28日に名古屋地裁の労働審判で調停が成立し、黎明会は事実上ハラスメントと受け取られる行為があったことを認め、女性職員側は損害賠償の請求を放棄した<ref> | + | 同年10月28日に名古屋地裁の労働審判で調停が成立し、黎明会は事実上ハラスメントと受け取られる行為があったことを認め、女性職員側は損害賠償の請求を放棄した<ref>『中日新聞』2014年10月29日</ref>。 |
その後の顛末は不明。 | その後の顛末は不明。 | ||
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* [[蓬左文庫]] | * [[蓬左文庫]] | ||
* [[桜井清香]] - [[画家]]。同館学芸員を務めた。 | * [[桜井清香]] - [[画家]]。同館学芸員を務めた。 | ||
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+ | == 付録 == | ||
+ | === 脚注 === | ||
+ | {{Reflist|18em}} | ||
+ | === 参考文献 === | ||
+ | *{{Aya|徳川黎明会|year=2016}} [http://www.tokugawa.or.jp/image02-PDF/H27-houkoku.pdf 平成27年度事業報告書] 公益財団法人徳川黎明会、2016年7月4日 | ||
+ | *{{Aya|香山|year=2016}} 香山里絵「[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf 『尾張徳川美術館』設計懸賞]」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-7594 | ||
+ | *{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備]」(pdf)『金鯱叢書』第42巻、徳川美術館、2015年3月、27-41頁、ISSN 2188-7594 | ||
+ | *{{Aya|香山|year=2014}} 香山里絵「[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/41.pdf 徳川義親の美術館設立想起]」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-7594 | ||
+ | *{{Aya|林政研|year=2013}} [http://www.tokugawa.or.jp/institute/002.0000-rekishi.htm 徳川林政史研究所ホーム > 徳川林政史研究所の歴史] 徳川林政史研究所、2013年 | ||
+ | *{{Aya|徳川|year=2006}} 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120 | ||
+ | *{{Aya|毎日新聞社|year=2000}} 毎日新聞社図書編集部編、文化庁監修『国宝・重要文化財大全 別巻(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)』毎日新聞社、2000年。ISBN 4620803332 | ||
+ | *{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次 『徳川義親の十五年戦争』 青木書店、1988年。ISBN 4250880192 | ||
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徳川美術館(とくがわびじゅつかん)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園内にある、公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。おもな収蔵品は、尾張徳川家伝来の大名道具や、他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品などで、2018年現在、国宝9件、重要文化財59件を含む1万点余りを収蔵している。2014年に管理部長によるセクハラ事件が公になり、黎明会の「前近代的」な対応が物議をかもした。
目次
沿革[編集]
構想[編集]
1910年(明治43年)は「名古屋開府300年」にあたり、祝賀行事の一環として、尾張徳川家は同年4月9日から3日間、名古屋で、初代・義直ゆかりの品を中心とした什器の展覧会を開催し、また同年3月-6月に名古屋市門前町の愛知県商品陳列館で開催された新古美術展覧会に書画や器物を出品した。それ以降、尾張徳川家の什宝は『国華』誌でたびたび取り上げられるようになった。[1]
1912年4月には、東京帝国大学・京都帝国大学の文科大学の教授・講師が名古屋・大曽根邸を訪問して什宝を観覧、同行した国華社が什宝の写真を撮影し、同年5月18日に東京帝国大学文科大学の集会所でこの写真の展示会が行なわれ、反響を呼んだ。また1915年5月29日には、東京帝国大学の山上御殿で源氏物語絵巻3巻など尾張徳川家所蔵の絵巻物6点の展覧が行なわれ、約700人が観覧に訪れた。[2][3]
什宝の展覧会がたびたび話題を呼んだことで、尾張徳川家第19代当主・義親は、什宝の保存や公開の必要性を感じるようになり、美術館の設立を構想したとみられている[4]。
設立準備[編集]
1910年代後半に尾張徳川家は拠点を名古屋から東京に移して、名古屋の土地家屋を処分、拠点・事業の整理・縮小を進め、名古屋における同家の拠点は大曽根の別邸に集約されることになった。同家御相談人の片桐助作は、1910年から1915年にかけて未鑑定品を中心に同家の什宝の整理を進めた。[5][6]
1920年1月12日に義親は新聞を通じて大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表[7][8]。予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた[9]。1921年には、片桐の整理の結果を基に、重複品・不要品とされた什宝(全体の10-15%)が競売に出され、売上総額約57万円は博物館の設立準備金として運用された[10]。
開設[編集]
1929年に鈴木信吉が尾張徳川家の家令となると、博物館構想は急速に具体化し[11]、1931年12月、財団法人尾張徳川黎明会が設立され、尾張徳川家伝来の什宝・書籍類のほとんどが同財団に寄付された[12][13]。
1932年に美術館のデザイン設計が懸賞公募に付され、その優秀作を基に施行設計図が作成された[14]。同年9月に大曽根で美術館建設が着工した[15]。
義親は、1933年に、蜂須賀正氏の「豊国祭礼図屏風」、紀伊徳川家の徳川頼貞の「清正公兜」など、他の華族が経済的に逼迫して競売に出した家宝を落札、1935年には近衛文麿から「侍中群要」を交換で入手するなどして、開館準備を進めた[16]。また義親は、源氏物語絵巻の一般公開に際して、長年絵巻の開巻を繰り返したことにより劣化が進んでいたため、田中親美に絵巻を切断させた[17]。
1935年3月に美術館の建物が竣工し[14]、同年11月10日に美術館は一般公開を開始した[18][13][19][20]。
戦災[編集]
戦時中には、爆撃機の標的とならないように、建物の外壁が迷彩柄に塗られたが、建物近くに爆弾が落ちて建物北側の窓や扉のガラスが爆風で吹き飛び、爆弾の破片により建物内の展示ケースのガラスが割れるなどの被害を受けた。また戦時回収によって金属製の部品が持ち去られた。[21]
暴風雨被害と復旧[編集]
戦後、応急措置をして再開館したが、1959年9月の伊勢湾台風で地下室が浸水し、庭木が倒れるなどの被害を受けた[22]。1961年に東京銀行を退行した徳川義宣は、美術館の建て直しに取り組み、資金も限られていたため、山林種苗組合から山出し用の外国樹種の三葉松(学名ピヌス・テーダ)の苗約500本を購入し、美術館の職員が総出で庭木を植樹した[22]。
改修[編集]
1986年9月から、開館から50周年を期に大規模な増改築工事が行なわれ、新たな展示室6室が設けられて、1987年10月に再開館した[23]。
建物[編集]
徳川美術館本館と南収蔵庫の建物は、吉本与志雄の設計により1935年に竣工した帝冠様式(和風の屋根や外観をもった洋式建築)のデザインの建物で、造形の規範となっているものとしてそれ自体が1997年6月12日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されている[24]。
収蔵品[編集]
主な収蔵品は、
- 駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具
- 徳川将軍家や一橋徳川家、蜂須賀家など他の大名家の売立てでの購入品
- 名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家をはじめとする篤志家らからの寄贈品
などで、国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭図屏風、「初音の調度」[25](初音蒔絵調度)、菊折枝蒔絵調度などの所蔵品で知られる[26][27]。
収蔵点数は、2018年現在、国宝9件、重要文化財59件を含む1万件余り[28]。
を収蔵していた。
なお、徳川美術館所蔵の国宝・重要文化財の所有者は、公益財団法人 徳川黎明会(法人所在地は東京都豊島区)とされているため、統計上は美術館所在地の愛知県ではなく、法人所在地の東京都の文化財としてカウントされており、美術館の建物は名古屋市の登録文化財としてカウントされている[31]。
収蔵品の一覧を閲覧できる外部サイト[編集]
常設展[編集]
常設展示室には、藩主の公的生活の場であった、名古屋城二の丸御殿の一部を時代考証に基づいて復元してある。こうした展示方法により、道具類(現代の言葉でいう「美術品」「文化財」)が、床の間、茶室、能舞台といった実際の場面で、どのように飾られ、使われたのかが理解できるように工夫されている。(出典?)
企画展・展覧会[編集]
- 1965年頃、「琳派展」[32]
- 1968年、「沖縄美術展」(某東京のデパートによる「沖縄展」の巡回展)[33]
- 1971年、「能装束と能面展」於 イタリア・ミラノ[34]
- 1977年4月、「将軍の時代展」於 National Gallery of Art(ワシントンD.C.)[35]
- 1984年11月、「将軍の時代展」於 Haus der Kunst(ミュンヘン)[35]
セクハラ事件[編集]
2014年6月に、徳川美術館の女性職員2人が、徳川黎明会から派遣されてきた大手都市銀行OBの男性管理部長によるセクハラ・パワハラが放置されているとして、名古屋地裁に対し、黎明会の使用者責任を問い、計400万円の損害賠償金の支払いを求め、労働審判を申し立てた[36]。
申し立てによると、管理部長は2013年1月から2014年5月までの間、2人に対し、肩や手を触ったり、ホテルや旅行に誘うなどした。また、ボーナス査定時に「パワハラ、セクハラに付き合えば10万円アップ」と発言。「ジャズクラブに行こう」などと誘い、断られると「業務命令だ。出世に関与する」と威圧するなどした。美術館の女性職員15人のうち、2人を含む6人が管理部長のセクハラを証言する陳述書を提出した。[37]
更に、女性からハラスメントについて相談を受けた四辻秀紀副館長兼学芸部長が管理部長を注意したところ、管理部長は行為を否定、逆に、管理部長を注意した四辻副館長が、黎明会の専務理事から叱責を受け、更に黎明会(会長・徳川義崇)から、ハラスメントを訴えた女性とともに退職勧奨を受け、副館長職を解任された。[38]
これを受けて、同年7月、徳川美術館の職員有志(学芸員一同)が、インターネット上で、退職勧奨の取消しを求める署名活動を展開し、署名を徳川義崇・黎明会会長に提出[39]。
黎明会はホームページに反論を掲載した[40]。
同年9月29日に、美術館の職員有志は、退職勧奨が取り下げられず、更に黎明会が労使合意なく賃金等の労働条件改定を強行しようとした、として、労働組合を結成した[41]。
財団にはこれまでにも再三訴えて参りましたが、このような前近代的かつ恣意的な措置がとられる組織において、職制を通じた申し入れなど全く意味をなさないため、これからは退職勧奨問題・ハラスメント問題など、全て組合が対応いたします。
– 徳川美術館 学芸員一同
同年10月28日に名古屋地裁の労働審判で調停が成立し、黎明会は事実上ハラスメントと受け取られる行為があったことを認め、女性職員側は損害賠償の請求を放棄した[42]。
その後の顛末は不明。
交通手段[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- http://www.tokugawa-art-museum.jp/(日本語)
- 徳川美術館(@tokubi_nagoya)- Twitter
- 徳川美術館 - Facebook
- 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 徳川美術館・徳川園
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 香山 2014 3-6,7-8,16
- ↑ 香山 2015 28
- ↑ 香山 2014 15,20
- ↑ 香山 2014 20
- ↑ 香山 2015 27-28,31-32
- ↑ 香山 2014 p.11
- ↑ 香山 2015 28,32-33
- ↑ 香山 (2014 2)は、1919年(大正8年)に美術館建設計画を発表した、としている。
- ↑ 香山 2015 32-33
- ↑ 香山 2015 28,32-36
- ↑ 香山 2016 104
- ↑ 小田部 1988 18,46-47
- ↑ 13.0 13.1 林政研 2013
- ↑ 14.0 14.1 徳川 2006 99
- ↑ 香山 2016 121
- ↑ 小田部 1988 47-49
- ↑ 小田部 1988 30 - 義親の日記による。当初周囲の猛反対にあって切断が実行されるまでに3年を要したという。
- ↑ 香山 2014 1
- ↑ 愛知県 2011
- ↑ 小田部 1988 29
- ↑ 徳川 2006 107
- ↑ 22.0 22.1 徳川 2006 109
- ↑ 徳川 2006 93,100
- ↑ 国指定文化財等データベース > 徳川美術館本館(文化庁、2016年)、愛知県 (2011) 愛知県 文化財ナビ愛知 > 徳川美術館本館・南収蔵庫 愛知県 [ arch. ] 2016年9月29日閲覧
- ↑ 3代将軍徳川家光の長女千代姫が数え年3歳で尾張家2代藩主徳川光友に嫁いだ際の婚礼調度類(小田部 1988 29-30)
- ↑ 徳川 2006 29-30
- ↑ 27.0 27.1 小田部 1988 29-30
- ↑ 徳川美術館 > おもな収蔵品
- ↑ 徳川 2006 112-118
- ↑ 毎日新聞社(2000)pp.92-93
- ↑ 指定文化財等目録一覧 名古屋市、2010年
- ↑ 徳川 2006 153
- ↑ 徳川 2006 119
- ↑ 徳川 2006 104
- ↑ 35.0 35.1 徳川 2006 42-43
- ↑ 『中日新聞』2014年6月12日、『東京新聞』2014年6月12日
- ↑ 『中日新聞』2014年6月12日、『東京新聞』2014年6月12日
- ↑ 『中日新聞』2014年6月12日・同年10月29日、『東京新聞』2014年6月12日
- ↑ 『中日新聞』2014年10月29日、徳川美術館 四辻秀紀氏・大田智恵氏への退職勧奨の取り消しを求めます。 徳川美術館学芸員一同
- ↑ 『中日新聞』2014年10月29日
- ↑ 『中日新聞』2014年10月29日、ご報告 徳川美術館 学芸員一同、2014年11月13日
- ↑ 『中日新聞』2014年10月29日
参考文献[編集]
- 徳川黎明会 (2016) 平成27年度事業報告書 公益財団法人徳川黎明会、2016年7月4日
- 香山 (2016) 香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」(pdf)『金鯱叢書』第43巻、徳川美術館、2016年3月、103-131頁、ISSN 2188-7594
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」(pdf)『金鯱叢書』第42巻、徳川美術館、2015年3月、27-41頁、ISSN 2188-7594
- 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」(pdf)『金鯱叢書』第41巻、徳川美術館、2014年3月、1-29頁、ISSN 2188-7594
- 林政研 (2013) 徳川林政史研究所ホーム > 徳川林政史研究所の歴史 徳川林政史研究所、2013年
- 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
- 毎日新聞社 (2000) 毎日新聞社図書編集部編、文化庁監修『国宝・重要文化財大全 別巻(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)』毎日新聞社、2000年。ISBN 4620803332
- 小田部 (1988) 小田部雄次 『徳川義親の十五年戦争』 青木書店、1988年。ISBN 4250880192