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細川 晴元(ほそかわ はるもと)は室町時代末期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流 細川氏。官位は従四位下右京大夫。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺顕如の義兄に当たる人物でもある。
生涯[編集]
永正11年(1514年)、細川澄元の子として生まれる。永正17年(1520年)、澄元が阿波で死去したため、晴元は7歳で家督を継承した。
大永6年(1526年)、三好元長らと共に挙兵して細川高国を攻め、大永7年(1527年)に高国が第12代将軍・足利義晴らとともに近江へ落ち延びると、晴元は足利義維と共に和泉堺を本拠とし、義維を将軍と成した(堺公方)。享禄4年(1531年)、三好元長に命じて、高国を摂津天王寺において討たせた(天王寺の戦い)。この戦いにおいて高国は戦死している。
しかしやがて元長と対立し、天分元年(1532年)に晴元は本願寺証如や木沢長政らと手を結び、一向一揆を扇動して元長を堺で殺害した。さらに足利義維とも不和になったために追放し、将軍・足利義晴と和睦した。その後、一向宗は堺公方を襲撃するなど対立し、対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動が活発であった近江の六角氏とも協力して山科本願寺を攻めた。天文5年(1536年)には京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角氏と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。天文6年(1537年)、右京大夫に任官し、幕政を支配した。
天文12年(1543年)、細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵した。氏綱は畠山政国や遊佐長教らと手を結び、将軍・足利義晴も天文15年(1546年)、将軍職を実子の足利義輝に譲った上で氏綱を支持し、晴元と敵対する。これに対して晴元は義晴らを近江坂本へ追放し、氏綱らと戦い続けた。
しかし天文17年(1548年)、元長の嫡男で三好宗家の家督を相続していた三好長慶が、晴元に一族の三好政長の討伐を要請し、これを拒否されたため、天文18年(1549年)に氏綱側に寝返った。このため、晴元は摂津江口において長慶らと戦って敗北する(江口の戦い)。この戦いで三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、こうして細川政権は終焉した。
その後、晴元は将軍・足利義輝を擁して三好長慶と争うが、敗北し続け、永禄4年(1561年)に六角義賢の仲介を受けて長慶と和睦する。そして剃髪し、摂津富田の普門寺に隠棲した。
永禄6年(1563年)3月1日に死去。享年50。