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2024年3月14日 (木) 20:25時点における最新版
みふね としろう 三船 敏郎
| |
ファイル:Stray Dog59.png | |
本名 | |
---|---|
別名 | |
生年月日 | 1920年4月1日 |
没年月日 | 1997年12月24日 |
出生地 | テンプレート:CHN1912・山東省 |
死没地 | |
国籍 | |
民族 | 日本人 |
身長 | |
血液型 | O |
職業 | |
ジャンル | 映画俳優 |
活動期間 | 1947年 - 1995年 |
活動内容 | 1947年:デビュー 1962年:三船プロダクション設立 1965年:東宝より独立 1981年:三船芸術学院設立 1997年:死去 |
配偶者 | 吉峰幸子(1950年1月5日 - ) |
家族 | |
公式サイト | |
主な作品 | |
『酔いどれ天使』 『羅生門』 『七人の侍』 『蜘蛛巣城』 『用心棒』『椿三十郎』 『座頭市と用心棒』 | |
受賞 | |
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞 ブルーリボン賞 キネマ旬報賞 紫綬褒章・勲三等瑞宝章 | |
備考 | |
長男:三船史郎 娘:三船美佳 | |
三船 敏郎(みふね としろう、1920年4月1日 - 1997年12月24日)は日本の俳優。
ヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、「世界のクロサワ」の黒澤明と共に「世界のミフネ」と呼ばれた。米映画『グラン・プリ』、70mm『太平洋の地獄 Hell in the Pacific』、フランス映画『レッド・サン』など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する三船プロダクションは東京世田谷に大手の映画会社に次ぐ規模のスタジオを所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。
元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、女優の三船美佳は内縁の妻(女優の喜多川美佳)との間にできた子供。
来歴・人物[編集]
中華民国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃から良い意味でも悪い意味でもワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。満州陸軍第七航空隊に入隊。写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。この時期に知り合った鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となる。熊本の特攻隊基地で終戦を迎える。
東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩である大山年治から「戦後、仕事に困ったら尋ねてきなさい」と言われていた為、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に回されていたため、面接を受けることになった。人を食ったような態度(笑ってみて、と審査員に言われた時「面白くもないのに笑えませんよ」と答えたという)で不合格になりかけたが、山本嘉次郎監督が審査委員長をしていた中、山本の弟子ともいえる黒澤明がたまたまそれを目撃した。当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労組代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。
1947年に黒澤が脚本、黒澤の盟友・谷口千吉が監督をつとめた映画『銀嶺の果て』でデビュー。雪山で遭難する3人のうちの一人を演ずるが、2人目は志村喬だった。翌1948年にはデビュー3作目として黒澤監督『酔いどれ天使』に、破滅的な生き方をするチンピラ役で登場した。主演は医師役の志村だったが、ぎらぎらした野性味あふれる演技で圧倒、一躍人気が上昇する。
その後、黒澤作品には欠かせぬ存在となり『酔いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』1作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えられた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントした(ちなみに、三船の死から半年後に黒澤も死去)。
黒澤作品以外にも稲垣浩監督の『戦国無頼』(1952年)、『宮本武蔵』(1954年)、『無法松の一生』(1958年)、岡本喜八監督の『侍』(1965年)、『赤毛』(1969年)、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』(1989年)など数多くの作品に主演。初期のころは『七人の侍』の影響か豪放な役が多かったが、その後戦国武将や東郷平八郎・山本五十六といった軍人・偉人の役が多くなった。
晩年は山田洋次監督『男はつらいよ 知床慕情』(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の『竹取物語』(1987年)の竹の造翁など、渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。
私生活では、1950年に、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚。その後、女優・喜多川美佳との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は家庭内暴力に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が三船美佳であるが、美佳とかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったと言う。不倫相手の名前である「美佳」を子供にそのまま付けるという皮肉な結果となった(ただし喜多川美佳という名前は本名ではない)。その後1992年に心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。
1962年には三船プロダクションを設立し、翌年には映画『五十万人の遺産』を自らの主演で初監督。映画『黒部の太陽』(石原プロモーションと合同で制作)のほか、『桃太郎侍』『荒野の素浪人』『大忠臣蔵』などテレビドラマを制作した。しかし、1979年に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。
1986年に紫綬褒章、1993年に勲三等瑞宝章を受章。1997年12月24日全機能不全のため死去。享年77。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』(熊井啓監督)だった。
トリビア[編集]
- 海外で空港税関係員に「Do you have any spirits?(あなたは蒸留酒を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は大和魂を持っている)」と堂々と答えたことがある。
- 達筆で知られ、自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。
- 1956年の東宝映画「ならず者」(青柳信雄監督)では主役を演じるとともに主題歌「山の男の歌」(作詞:佐藤一郎、作曲:佐藤勝)を歌った。
- 酒癖が悪く、飲むと性格が一変した。酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかり、逆に殴り返され、顔が腫れて翌日は撮影にならなかったこともある。
- 1981年のTBS正月特番ドラマだった『関ヶ原』の宣伝の一環として『8時だョ!全員集合』にゲスト出演。『関ヶ原』出演時と同じ鎧兜を付け、「石田家軍師島左近」として番組冒頭のコント劇に出演し、同じく戦国武将役のいかりや長介率いる部隊の窮地を救う役を演じる。その後、いかりやと二言三言の会話を交わし、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは志村けんを三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ~」を歌わせた。三船は舞台袖に退場したが、数歩歩いたところで突如、同番組名物だったヒゲダンス(両手を下に向け上下に動かしながら飛び跳ねるように歩く動作)を披露。世界的スターがザ・ドリフターズのギャグを演じたことに対し、客席からは笑いではなく深いどよめきが起きた。これは事前の打ち合わせにはない全くのアドリブだったようで、いかりやは舞台上で「ああいう人が、ああいうことをやるなんて…」と真顔で驚嘆した。
- 三船は冒頭コント劇の後で「少年少女合唱隊」にも出演し、早口言葉コーナーでは真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵…」と歌い、さらには「生麦生米生ビール!」とボケた。
- 三船敏郎が逝去した際、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が『トシロー・ミフネの死去』をトップニュースで報じた。外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がなく、三船の国際的知名度の高さを証明することにもなった。
「世界のミフネ」[編集]
1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』(メキシコ映画)ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。
- 1967年『グラン・プリ』(ジョン・フランケンハイマー監督)イヴ・モンタン、ジェームズ・ガーナー
- 1968年『太平洋の地獄』(ジョン・ブアマン監督)リー・マーヴィン
- 1971年 フランス映画『レッド・サン』(テレンス・ヤング監督)アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン
- 1976年『ミッドウェイ』チャールトン・ヘストン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、グレン・フォード
- 1976年『太陽にかける橋 ペーパータイガー』デビッド・ニーブン、ハーディ・クリューガー
- 1979年『ウィンターキルズ』ジェフ・ブリジッス、アンソニー・パーキンス、エリザベス・テイラー
- 1979年『1941』(スティーブン・スピルバーグ監督)ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド
- 1980年『将軍 SHOGUN』リチャード・チェンバレン
- 1980年『インチョン!』(テレンス・ヤング監督)ローレンス・オリビエ、ジャクリーン・ビセット
- 1980年『最後のサムライ ザ・チャレンジ』(ジョン・フランケンハイマー監督)スコット・グレン
- 1980年『兜KABUTO』(ゴードン・ヘスラー監督)ショー・コスギ
- 1994年『シャドウ・オブ・ウルフ』ドナルド・サザーランド、ルー・ダイヤモンド・フィリップス
- 1995年『ピクチャーブライド』(カヨ・マタノ・ハッタ監督)
アラン・ドロンは三船を『日本の兄』と尊敬し、自らがプロデュースするブランドの香水「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。またマーロン・ブランドは飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も弔電を(アラン・ドロンと同様に)送っている。
黒澤のファンとしてその影響を受けたジョージ・ルーカスが監督を務めた『スター・ウォーズ』(1977年)で、ダース・ベイダー役(オビ=ワン・ケノービ役という説もあったが、三船美佳が「ダース・ベイダー」であったとコメント)の申し出を断り、、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(1983年)にてダース・ヴェイダーの素顔、アナキン・スカイウォーカーの役をオファーされるが、これも辞退した。
スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた『1941』(1979年)に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。なお、『ベスト・キッド』(1984年)のミヤギ役は断っている(代わりに出演した日系人俳優パット・モリタはアカデミー助演男優賞にノミネートされた)。
米国人に最も有名なのはテレビドラマ『SHOGUN 将軍』(1980)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『サタデー・ナイト・ライブ』ではジョン・ベルーシが『用心棒』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『1941』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。
米国産コンピュータRPGの『ウィザードリィ』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。
海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年『用心棒』でヴェネチア映画祭主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年『将軍』で米国エミー賞主演男優賞ノミネート。その他、フランスの芸術文化勲章、モントリオール世界映画祭特別グランプリ、マニラ映画祭では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。
三船は多くの日本の俳優(渡辺謙や松田優作を含む)と違い、海外からの出演オファーは数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(『デルス・ウザーラ』や『スター・ウォーズ』の出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと野上照代に話している(実際1972年から1975年まで海外の作品に出演していない)。
晩年は米映画『シャドウ・オブ・ウルフ』(1993年)のイヌイット族長役や『ピクチャー・ブライド』(1994年)の日本人弁士役としても出演した。
『シャドウ・オブ・ウルフ』で共演したドナルド・サザーランドは出演オファーを受けた際、三船が出演することが決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。
なお、死後の1999年には、ミフネの演じたサムライへのオマージュともいえるデンマーク映画『ミフネ』がベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。
主な出演作品[編集]
映画[編集]
- 銀嶺の果て (1947年/※DVD発売)
- ★酔いどれ天使 (1948年/※DVD発売)
- ★静かなる決闘 (1949年/※DVD発売)
- ★野良犬 (1949年/※DVD発売)
- ★醜聞(スキャンダル) (1950年/※DVD発売)
- ★羅生門 (1950年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞
- ★白痴 (1951年/※DVD発売)
- 馬喰一代(1951年)
- 西鶴一代女 (1952年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭国際賞
- 戦国無頼 (1952年)
- 太平洋の鷲 (1953年/※DVD発売)
- ★七人の侍 (1954年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞美術賞・衣装デザイン賞ノミネート
- 潮騒 (1954年)
- 宮本武蔵 (1954年/※DVD発売)米アカデミー賞外国語映画賞
- ★生きものの記録 (1955年/※DVD発売)カンヌ映画祭コンペティション
- 暗黒街 (1956年)
- ★蜘蛛巣城 (1957年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭コンペティション、ロサンゼルス映画賞
- 柳生武芸帳 (1957年/※ビデオ化)
- ★どん底 (1957年/※DVD発売)
- 無法松の一生 (1958年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭金獅子賞
- ★隠し砦の三悪人 (1958年/※DVD発売)ベルリン映画祭監督賞、国際批評家連盟賞
- ◎独立愚連隊 (1959年/※DVD発売)
- 日本誕生 (1959年/※DVD発売)
- ◎暗黒街の対決 (1960年/※DVD発売)
- ★悪い奴ほどよく眠る (1960年/※DVD発売)ベルリン映画祭コンペティション
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 (1960年/※DVD発売)
- ★用心棒 (1961年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭主演男優賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート
- 価値ある男 (1961年、メキシコ映画)米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞
- ★椿三十郎 (1962年/※DVD発売)
- 太平洋の翼 (1963年/※DVD発売)
- ★天国と地獄 (1963/※DVD発売)ヴェネチア映画祭コンペティション
- 五十万人の遺産 (1963年/※DVD発売。製作・監督も担当)
- 大盗賊 (1963年/※ビデオ化)
- ◎侍 (1965年/※DVD発売)
- ★赤ひげ (1965年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭主演男優賞・サンジョルジュ賞
- 太平洋奇跡の作戦 キスカ (1965年/※DVD発売)
- ◎血と砂 (1965年)
- 奇巌城の冒険 (1966年/※ビデオ化)
- ◎日本のいちばん長い日 (1967年/※DVD発売)
- グラン・プリ (1967年)米アカデミー賞編集賞・音響賞・音響効果編集賞
- 祇園祭(1968年)
- 黒部の太陽 (1968年)
- 連合艦隊司令長官 山本五十六 (1968年/※DVD発売)
- 太平洋の地獄 (1968年/※DVD発売)
- 風林火山 (1969年/※DVD発売)
- 日本海大海戦 (1969年/※DVD発売)
- ◎赤毛 (1969年/※DVD発売)
- 新選組 (1970年/※DVD発売)
- ◎座頭市と用心棒 (1970年/※DVD発売)
- 幕末 (1970年/※DVD発売)
- 激動の昭和史・軍閥 (1970年/※DVD発売)
- 待ち伏せ (1971年/※DVD発売)
- レッド・サン (1971年、フランス映画)
- 太陽にかける橋・ペイパー・タイガー (1976年、イギリス映画)
- ミッドウェイ (1976年/※DVD発売。アメリカ映画)山本五十六役
- 人間の証明 (1977年/※DVD発売)
- 柳生一族の陰謀 (1978年)
- 赤穂城断絶 (1978年)
- 水戸黄門 (1978年)
- Winter Kills (1979年、アメリカ映画)
- 金田一耕助の冒険 (1979年)
- 1941 (1980年、アメリカ映画/※DVD発売)
- インチョン! (1980年、アメリカ映画)
- 二百三高地 (1980年/※DVD発売)
- 将軍 SHOGUN (1980年、アメリカ映画)
- 日本海大海戦 海ゆかば (1983年/※DVD発売)
- 海燕ジョーの奇跡 (1984年)
- シャタラー (1987年、日本・イタリア合作映画)
- 男はつらいよ 知床慕情 (1987年/※DVD発売)
- 竹取物語 (1987年/※DVD発売)
- 千利休 本覺坊遺文 (1989年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭銀獅子賞
- 兜 KABUTO (1991年、アメリカ映画)
- 深い河 (1995年/※ビデオ化)モントリオール世界映画祭エキュメニカル賞
- シャドー・オブ・ウルフ (1996年、フランス・カナダ合作映画)
- ピクチャーブライド (1996年日本公開、アメリカ映画)カンヌ映画祭コンペティション
テレビドラマ[編集]
- 大忠臣蔵 (1971年)
- 荒野の素浪人 (1972年、NET/三船プロダクション)
- 荒野の用心棒 (1973年、NET/三船プロダクション)
- 剣と風と子守唄 (1975年、日本テレビ/三船プロダクション)
- 人魚亭異聞 無法街の素浪人(1976年、NET/三船プロダクション)
- 隠し目付参上 (1976年)
- 江戸の鷹 御用部屋犯科帖 (1978年)
- 駆け込みビル7号室(1979年)
- 赤穂浪士 (1979年)
- 江戸の牙 (1979年 - 1980年)
- 関ヶ原 (1981年)
- 素浪人罷り通る (1981年)
- 勇者は語らず いま、日米自動車戦争は (1983年)
- 山河燃ゆ (1984年)
文献[編集]
- 阿部嘉典 『「映画を愛した二人」 黒沢明 三船敏郎』 ISBN 4831901121
- 高瀬昌弘 『東宝砧撮影所物語 ― 三船敏郎の時代』 ISBN 492460982X
外部リンク[編集]
- 公式サイト
- Toshiro Mifune Forever - Message Boardbg:Тоширо Мифуне
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