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2015年4月3日 (金) 22:42時点における最新版
北条 泰時(ほうじょう やすとき、寿永2年(1183年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))は、鎌倉時代前期の武将・政治家。鎌倉幕府の第3代執権(在職:元仁元年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。
父は第2代執権の北条義時。母は阿波局。兄弟に朝時・重時・政村・実泰・有時・時尚・時経ら。子に時氏、時実、公義の他、三浦泰村、足利義氏、北条朝直のち北条光時、藤原実春に嫁いだ娘らがいる。幼名は金剛。通称は江馬太郎。名は最初は頼時(よりとき)だったが、後に泰時に改名した[1]。北条得宗家第2代であり、北条家中興の英主。承久の乱で幕府軍の総大将として上洛して勝利し朝幕関係の優劣を決定づけ、御成敗式目と称される武家政権初となる法典を定めて幕府の安定期を創出した。
目次
生涯[編集]
頼朝の時代[編集]
北条義時の庶長子。寿永2年生まれなのはわかっているが、誕生日に関しては不明である[2]。幼名は金剛といった[3]。
『吾妻鏡』によると建久3年(1192年)、金剛と称していた泰時が散歩中、多賀秀行が乗馬で通りかかったが下馬の礼をしなかった。これを聞いた頼朝は「北条家の金剛は汝等とは身分が違う。若年なりとて侮り、礼を欠くとは何事ぞ」と重行を叱りつけた。それに対して重行は「そんなことはしていないので、金剛殿にお聞き下さい」と弁明し、頼朝が金剛に尋ねると「多賀殿はそんなことはしていない」と答えた。それでも頼朝は重行が虚偽の報告をしていたとしてその所領を没収し、金剛に対しては幼少であるにも関わらず重行を庇った心のゆかしさを褒めて愛用していた剣を与えたという[3][4]。
建久5年(1194年)に源頼朝自ら烏帽子親となって12歳で元服し、頼朝の一字を賜って頼時と名乗る[4]。早くから頼朝に愛され[1]、また聡明だった。この元服の際に頼朝は有力御家人である三浦義澄に対して孫娘の1人を将来泰時の正室にするように命じている[4]。また後に泰時と改名しているが、それがいつ頃かは不明である[4]。
建久6年(1193年)、鶴岡八幡宮で流鏑馬が行なわれた際、その16騎の1人に選ばれた[5]。これは泰時が頼朝にとって義理の甥であり、将来の幕府の大幹部として嘱望されていた可能性を示している[5]。
頼家の時代[編集]
頼朝没後、将軍職は嫡子の源頼家(泰時から見れば従兄)が継いだ。頼朝没後の翌年、在京の武士である中原親能の郎党の吉田親清が前の若狭守護である藤原保季を殺害して鎌倉に逃亡してきた。保季が親清の妻を犯したのが原因であるが、保季の父の定長は親清の処罰を求め、大江広元や義時は対応に苦慮した。泰時は「武士の郎党ともあろう者が殿上人を殺しても名誉にはなりません。その上白昼人を殺して世を騒がした罪は軽くなく、都の検非違使に引き渡して死罪にするのがよろしいと思います」と述べ、若年での武士の本分、理非を弁えたこの意見に広元らの賞賛を受けた[5][6]。
頼家は蹴鞠に熱中して幕政を顧みず、当時伊豆など関東各地で発生していた飢饉に対応しなかった。そのため泰時は頼家(あるいは近侍の中野能成)に対して「蹴鞠は幽玄の芸能で大いに結構。さりとて大風が吹き飢饉の恐れある時、わざわざ都から芸人(紀行景のこと)をお招きになるのは如何か。それに一昨日は月星のようなものが天から降ってくるという奇怪が起こっている。陰陽学者に聞かれた上で大事無くば蹴鞠もまたよかろう。先君頼朝公も天変出現の際は浜への御遊歩を止められ、世上無為の御祈祷を行なわれた。それに比べて頼家公の御所業は合点が行かぬ。貴殿から諫言されては如何か」と述べた。頼家は祖父の時政や父の義時を差し置いての小ざかしい諫言と激怒し、かえって頼家の不興を被って幕政の中枢から追い出され、建仁元年(1201年)に伊豆への下向を命じられた。ただこの際にも「将軍家のお咎めを受けるのなら鎌倉にいようが伊豆にいようが同じこと。既に明日には伊豆に下向の用意をしている」と言い返した[6][7]。この際に伊豆に下向した泰時は百姓の苦難を見て救済するため、彼らを集めて証文を焼き、豊作になっても借金を返す必要はないと約束し、さらに用意した酒や米を振舞った。この行為に人々は北条家の繁栄を祈り、泰時はそれから鎌倉に帰還した(『吾妻鏡』)。
鎌倉に帰還してからの泰時は幕政に関与するようになり、佐々木経高が処罰されて所領を没収されたが後に罪を許され、没収された所領の1箇所を返された。この時に泰時は義時に対して「経高の領地は全て彼の勲功により与えられた恩賞ですから罪を許された以上は全て返すべきであり、譜代の勇士である彼が恨みを残したりすると困ったことになります」と述べている[8][9]。
建仁2年(1202年)に有力御家人である三浦義村の娘(矢部禅尼)と結婚し、翌年に嫡子の時氏が生まれた。後に矢部禅尼とは離婚して継室に安保実員の娘を迎えている[9]。
実朝の時代[編集]
建保元年(1213年)の和田合戦に参加し、当時の将軍である源実朝(泰時の従弟)を法華堂で守備し、和田義盛の軍勢と戦った。この戦功により陸奥遠田郡の地頭に任命される。承久元年(1219年)に従五位上駿河守に叙任し、後に武蔵守に転じた[1]。
駿河守に叙任した年に実朝が殺害されて頼朝の直系による源氏将軍が断絶し、朝幕関係が緊張し、承久3年(1221年)5月には遂に承久の乱が勃発する。この時、泰時は父の義時に叔父の時房を付けられて西上する幕府軍の総大将に任命される。この際、『増鏡』によると泰時は義時より「己をこのたび都に参らする事は、思ふ所多し。本意の如く清き死をなすべし。人に後見えなんには、親の顔また見るべからず。今を限りと思へ、賤しけれども義時、君の御為に後めたき心やはある、されば横様の死をせん事はあるべからず。心を猛く思へ。己打勝つならば、再びこの足柄・箱根山は越つべし」と必勝の訓戒を受けた。6月5日、幕府軍を率いた泰時は尾張一宮に着陣。この尾張で大内惟信ら朝廷軍を撃破して京都まで一気に進軍し、1か月ほどで承久の乱を終わらせた。以後、泰時は京都において戦後処理を行ない、また六波羅探題北方として京都に駐在した。在京中は明恵に帰依して親交を深めた[1][10]。
泰時の治世[編集]
元仁元年(1224年)に鎌倉で義時が急死したため、叔父の時房と共に鎌倉に帰還し、泰時は第3代執権に、時房は泰時を補佐する連署に就任した。代わりに六波羅探題北方には嫡子の時氏が派遣されて就任している。その翌年に幕府の重鎮であった大江広元と伯母の北条政子が相次いで亡くなったので幕政は不安定になった。そのため同年末には元義父の三浦義村ら11人を政治顧問にした評定衆による合議体制を設置してこの難局を乗り切ろうとする。また実朝の死で絶えていた将軍に源氏の遠縁にあたる摂家将軍の藤原三寅を藤原頼経と元服させて嘉禄2年(1226年)1月に新将軍として擁立し、頼家の遺女である竹御所を頼経の正室に据えた[10]。
だが寛喜2年(1230年)から翌年にかけて天候異変を原因とした寛保の大飢饉が発生。また次男の時実が暗殺され、期待の嫡子であった時氏は早世し、娘も死去するなど泰時の家族の相次ぐ死が続くなどその治世は苦難の連続だった。貞永元年(1232年)に泰時は『関東御成敗式目』(貞永式目)と称される51か条からなる武家最初の法典を制定。この式目は武家社会の道理、頼朝以来の先例を基準とした武家の手になる法典で、裁判の基準や多発する所領紛争を敏速に解決するために制定された「関東の鴻宝」と評された法典であった。嘉禎元年(1235年)に石清水八幡宮と興福寺が争い、また比叡山延暦寺の宗徒などによる神人蜂起が発生すると、泰時は強硬な姿勢で寺院勢力に臨んで幕府の権力が寺院を上回る事を示した。暦仁元年(1238年)、頼経の上洛に従って泰時も入洛し、京都の治安維持に努めた[10]。
仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御した。すると朝廷・幕府間で後継の皇位をめぐって対立が発生し、朝廷では順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立しようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者のひとりであることからこれに強く反対し、忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。同年4月末、過労を原因として病床に臥した泰時は赤痢を併発させ、出家して観阿と号し、6月15日に鎌倉で死去した。享年60[10]。第4代執権には早世した時氏の長男である北条経時が就任した。
評価[編集]
泰時は優秀な政治家、器量の大きい人物として評価されている。参議の広橋経光は日記において「性凜廉直、道理を以て先となす。唐尭、虞舜の再誕と言うべきか」と昔の中国の聖人君主に讃えて評価した。『百練抄』では「貴賤、父母喪ふが如し」と泰時の死去に対して愛惜の情を示した[10]。
経歴[編集]
※日付は旧暦
- 建久5年(1194年)、2月2日、元服。
- 建暦元年(1211年)、9月8日、修理亮に任官。
- 建保4年(1216年)、3月28日、式部丞に遷任。12月30日、従五位下に叙位。式部丞如元。
- 建保6年(1218年)、讃岐守に転任。
- 建保7年(1219年)、1月5日、従五位上に昇叙。讃岐守如元1月22日、駿河守に遷任11月13日、武蔵守に転任。
- 承久3年(1221年)、6月16日、幕府六波羅探題北方となる。
- 貞応3年(1224年)、6月17日、六波羅探題退任。6月28日、執権となる。
- 貞永元年(1232年)、4月11日、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
- 嘉禎2年(1236年)、3月4日、従四位下に昇叙。武蔵守如元。12月8日、左京権大夫兼任。
- 嘉禎4年(1238年)、3月18日、従四位上に昇叙。左京権大夫・武蔵守如元。4月6日、武蔵守辞任。12月7日、左京権大夫辞任。
- 延応元年(1239年)、9月9日、正四位下に昇叙。
- 仁治3年(1242年)、5月9日、出家。6月15日、卒。享年60。法名常楽寺観阿。菩提所鎌倉市大船の粟船山常楽寺。
偏諱を与えた人物[編集]
(「北条氏#北条氏による一字付与について」も参照)
- 北条実泰(実弟、初め実義、北条氏 (金沢流)祖)[11]
- 北条実時(甥(実泰の子))[12]
- 足利泰氏(外孫)[13][14]
- 安達泰盛[15]
- 宇都宮泰綱[16]
- 大友泰直
- 小田泰知(泰朝)(常陸小田氏)[14]
- 河越泰重[14][17]
- 工藤光泰[18]
- 佐々木泰綱(佐々木氏六角流)[14]
- 佐々木泰清(佐々木氏義清流)[14]
- 高岡泰重(小田泰知の実弟、常陸高岡氏祖)
- 武田信時[19]
- 千葉泰胤(千田泰胤)[14][20]
- 長井泰秀[14]
- 長井泰重[14]
- 二階堂行泰(二階堂氏)[14]
- 畠山泰国(従兄弟)[21]
- 平賀惟泰(安芸平賀氏)[22]
- 三浦泰村(初め義弟、のち娘婿)[23]
ほか
*泰時が執権在任の間は、将軍は藤原頼経であって、「泰」の字が泰時の偏諱であるのは確かであり、この字が「得宗→御家人」という形で授与される図式が成立していたことが研究で指摘されている[24]。また、上記のほとんどが、泰時を元服時の烏帽子親とした者だが、泰時は歴代の中でも比較的高齢(42歳)で得宗家当主(および執権)となっており、一見すると世代がずれているような、孫にあたる足利泰氏などが対象になっているのは矛盾ではなく、実際の世代としては泰時の子・時氏や孫の経時・時頼とほぼ同じ人物が多いと言える。
北条泰時が登場する作品[編集]
ゲーム[編集]
- 『チンギスハーン・蒼き狼と白き牝鹿IV』(1189年から始まるシナリオでは初期未登場だが翌年から登場する。1229年から始まるシナリオでは日本の鎌倉幕府の国王として登場する)。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 安田、1991年、P556
- ↑ 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P1
- ↑ 3.0 3.1 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P8
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P9
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P10
- ↑ 6.0 6.1 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P11
- ↑ 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P12
- ↑ 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P13
- ↑ 9.0 9.1 『人物叢書 北条泰時』 1988年、P14
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 安田、1991年、P557
- ↑ 泰時の弟・実義(後の実泰)は将軍・源実朝を烏帽子親としてその一字(「実」の字)を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条氏の当主は得宗家の当主を烏帽子親としてその一字を与えられている。これは、北条氏の一族の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられるのが得宗家と赤橋流北条氏当主に限定され、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともにそれよりも一ランク低い得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられ、実義から実泰への改名もその方針に沿ったものであったと考えられている(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))。
- ↑ 『吾妻鏡』天福元年(1233年)12月29日条に、実時が泰時の邸宅において元服した旨の記事が見え、この時泰時が烏帽子親を務めて「時」の一字を与えたとされている(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.19)、山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)))。
- ↑ 臼井信義 「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)p.67)。鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主の諱は「得宗家当主の偏諱+通字の「氏」」で構成されていた(田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)p.25))。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 14.7 14.8 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、P.15系図ほか)。
- ↑ 貫達人 「円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21。
- ↑ 江田郁夫『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年)P.9。
- ↑ 河越氏 ~武蔵国秩父党の惣領家~より。
- ↑ 今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年 P.112)。
- ↑ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信時項に「後堀川院寛喜元年正月十五(年十)、加冠平泰時、因先例請名、故號名信時」とある。
- ↑ 服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(所収:『中世肥前千葉氏の足跡〜小京都小城の源流〜』(佐賀県小城市教育委員会編、2011年))。
- ↑ 『二本松市史 第1巻 原始・古代・中世・近世 通史編1』(二本松市、1999年)P.288-289(「第3編 中世 Ⅲ 室町期の二本松」、執筆:渡部正俊)より。
- ↑ 「平賀氏系譜」(『平賀家文書』二四八号、所収:『大日本古文書』家わけ第十四 p.727)の惟泰の付記に、貞永2年(1232年)7月11日に武蔵前司入道殿(=泰時)の邸宅で元服した旨の記載があり、その名乗りから烏帽子親である泰時から「泰」の字を受けたと考えられている(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」脚注(5)・(6)・(8)(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、p.181)。
- ↑ 貫達人 「円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21、野口実 「執権政権下の三浦氏」(所収:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年))P.321・P.344 脚注(26)・(29)、鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40・238、三浦一族の歴史 | 横須賀市(横須賀市の公式ホームページ内、最終更新日:2010年11月1日)、北条氏の宿敵─三浦一族 より。
- ↑ 角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.20)。
参考文献[編集]
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