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2007年6月3日 (日) 17:03時点における最新版
コルシカ島(Corsica) は、地中海西部、イタリア半島の西に位置するフランス領の島である。面積は約8,700km²(日本の広島県と同程度)と、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島に次いで4番目に大きく、人口は約26万人(東京都目黒区と同程度)を数える。
「コルシカ」(Corsica)はイタリア語での名称であり、フランス語では「コルス」(Corse)、コルシカ語では「コルシガ」(Corsica)となる。
全域がコルス地域圏(コルス=デュ=シュド県+オート=コルス県)に属し、政治的には海外領土ではなくフランスの本土(内地)である。
この島はナポレオン・ボナパルトの出身地として知られる。
地理[編集]
島のほとんどが急峻な山岳で占められ、2500メートルを超える高峰が連なる。最高峰はチント山(コルシカ語ではモンテ・ヂントゥ)で2710メートル、ついでロトンド山(コルシカ語ではモンテ・ロドンドゥ、2625メートル)、アル・バルダート山(同カブ・アウ・ベルダードゥ、2583メートル)、ビアンコ山(同カブ・ウィアンク、2562メートル)、ミヌータ山(同プンタ・ミヌーダ、2556メートル)である。これら高峰は島を二つに分けるように西北から南東へ連なっており、その西側と東側では風俗や社会形態、言語などが対照的に異なっている。
沿岸部の気候は他の地中海沿岸地域と大差なく年中温暖で少雨であるが、山岳地域は冷涼多雨で冬季には雪が積もり、スキー場が4箇所ある。
沿岸部の地形は東部(東海岸)と西部(西海岸)でまったく異なっている。東海岸は極めて単調で、コルシカに数少ない平野も広がり、ラグーン(潟)も所々で見られる。ラグーンのうち主なものは北部にある全域が自然保護区に指定されているビグリア潟(コルシカ語で「ビグーヤ」)、中部アレリア近辺にありカキやムール貝の養殖が行われているディアヌ潟(同「ディアナ」)、ウルビノ潟(同「ウルビーヌ」)である。
一方西海岸は断崖絶壁が続き、平野は中部のグラヴォナ川(コルシカ語で「ア・ラウォーナ」)河口付近にあるのみである。西海岸北西部には世界遺産で有名な奇岩群ジロラーダ、スカンドーラ、カランケの景勝地がある。
コルシカ島は面積の割に急峻な山岳地帯が大半を占め、あまりまとまった農業・産業が展開できない土地であるため居住人口は少なく、沿岸部および山岳部には手付かずの自然が残されている。島全体の4割近くがコルシカ地域自然公園(PNR)に指定されており、夏にはハイカーが大数訪れる。
歴史[編集]
コルシカ島の歴史は波瀾に満ちている。太古の昔は山岳部に居住する先住民と外来の支配者に明確に区分されていた。先住民についてはその詳細は今だ解明されていないが、ケルト先住民と共通する文明、例えば巨石文明や人物の彫塑のある石柱が島の南部に多数見られる。一方、外来者は紀元前にはフォカイア、エトルリア、カルタゴなどが、中継貿易拠点としてコルシカ島の沿岸地帯の覇権を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争で古代ローマに敗れたため、紀元前3世紀頃から島の支配権はローマに移る。ローマはアレリアに都市を建造し、さらに北部バスティア南郊にマリアナを築く。ローマによる繁栄はしばらく続くが、ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン勢力の侵入が始まると、コルシカ島には外部勢力、特に海賊による襲撃が始まる。
6世紀後半頃から十字軍によるイスラム勢力のヨーロッパからの駆逐が完了する11世紀頃までこの状態が続き、島ではこの期間を「暗黒時代」と呼んでいる。山岳部の先住民たちはローマ時代には平地に降りて、ローマ人と共存した時期もあったが、暗黒時代になると外部民族の襲撃を恐れて、再び山岳部の小集落(パエーゼ)に身を潜めて自給自足の生活にもどる。近代以降フランスではコルシカの独自の風習が取り上げられているが、その独自性はこの暗黒時代に遡るようだ。
中世になるとイタリア半島の都市国家、ピサとジェノヴァがコルシカ島を植民支配する。ローマ教皇の命により11世紀ピサがコルシカ島を統治するが、その後ジェノヴァが徐々に島の沿岸地帯に城塞都市を建造し、ピサからその支配権を奪い取ってゆき、13世紀にはジェノヴァの支配が確立する。現在のコルシカにある都市のほとんどがジェノヴァ統治時代にジェノヴァによって建造されたものである。
ジェノヴァの支配は過酷であり、島民はたびたび反乱を起こした。中世では16世紀のサンピエール(サンピエロ・コルソ)の反乱が最大のもので、これはジェノヴァによって鎮圧されたが、1729年に始まる40年戦争はかつてなく大規模かつ組織的な闘争だったためにジェノヴァはこれを抑えられず、1768年にジェノヴァとフランスはフランス軍をコルシカに派兵するかわりにジェノヴァは一定期間のコルシカ統治権をフランスに譲るという内容の、ヴェルサイユ条約を締結した。
一方のコルシカは1755年、独立運動の指導者パスカル・パオリを首班とする独立政府を樹立し、コルシカの国歌や国旗、憲法、通貨や大学、徴兵制など近代国家の原型ともいえる制度も創出して行き、1769年、フランス軍とコルシカ軍との間で戦争が始まった。バスティア南郊のボルゴの戦いではコルシカ軍はフランス軍を駆逐したが、同年5月のポンテ・ノーウ(ポンテ・ヌオーヴォ)の戦いでは、フランス軍の圧倒的兵力の前にコルシカ軍は敗れ去り、パオリは英国に亡命する。これ以降島はフランス領になり、ナポレオンは義兵を率いてコルシカ独立を目指した反乱を起こすもフランス軍に敗北し、その上事前に察知していたナポレオン一家は既に島を出ていたものの帰国したパオリによってナポレオン家は焼き討ちにされた。
こうした歴史的背景もあって、コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義運動が起きている。しかしそれはフランスからの独立というよりは、その経済規模の小ささとフランス国家への歴史的な依存性からフランス共和国の中にとどまりながら立法権など政治的決定権を獲得する自治主義が中心である。1975年8月に自治主義勢力とフランス治安当局との間で激しい闘争(アレリア闘争)が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のFLNC(コルシカ民族解放戦線)が組織されるが、1982年に地方分権政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は失業で悶々としている島の若者たちを徴用するなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解を示しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である。
文化[編集]
コルシカ島は文化や言語の面でフランス本土とは異なった面を持っている。
近年はコルシカにおけるアイデンティティの高まりにより、コルシカの文化やこれを基盤にした芸術などを見直すさまざまな活動が行われているが、その代表がかつての即興詩吟をベースにしたポリフォニーである。複数の男性が楽器を使わずに奏でる多声合唱がその中心で、グループ「イ・ムヴリニ」がその代表格である。それ以外に「ア・ヴィレーッタ」、「ティアミ・アディアレージ」、「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」、「スルディエンティ」などのグループがある。
コルシカ島は現在、フランスの領土であるため、島民の日常語はフランス語である。しかし島の固有の言語であるコルシカ語も依然として、学校教育やテレビ・ラジオ放送、広告・商標、文化活動などで盛んに用いられている。コルシカ語は表記や単語の綴字法はイタリア語に近いが、音韻からはフランス語やカタルーニャ語の影響が窺い知れる。
産業[編集]
コルシカ島の特産物は豚および豚肉燻製品、クリの粉から作った菓子類である。ワインやチーズの産地としても有名で、ワインは「パトリモニオ」や「ミュスカ・デュ・カップ・コルス」、チーズではフレッシュチーズのブローッチュが有名である。クリで作られたビール「ピエチュラ」(ピエトラ)もある。
しかしながら、生産的な産業といえばこれらの農産物に限られ、コルシカは観光・サービス業に大きく頼らざるを得なくなっている。だが、観光はシーズン期が7月と8月のみで、また近隣にコート・ダジュールやイビサ(スペインのバレアレス諸島の一つ)、イタリアのリグーリア海岸など国際的リゾート基地に囲まれており、大規模リゾート型の観光はあまり期待できない状況である。サービス業はスーパー・マーケットなどの小売業の他、運輸・公務関係者が圧倒的に多い。コルシカ島にとって最大のお得意様は「親方三色旗」(フランス共和国の国家財政)なのである。
なお、コルシカ島内では食料品をはじめとして衣料品、石油製品、住宅関連費用、電気、ガス、水道などにかかる付加価値税がフランス本土よりも低く設定されている。
交通[編集]
コルシカ島には四つの空港があり、日本からの直行便はないが、パリをはじめとして、ニースやマルセイユなどのフランスの地中海沿岸の都市と航空路で連絡されている。一方、航路はマルセイユ、ニース、トゥーロン、イタリアのサヴォナ、ジェノヴァ、サルデーニャ島との連絡があり、最高35ノットを誇る高速フェリー路線もある。ただし、コルシカ島への公共交通機関を利用しての出入りの際には税金(入島税、出島税)がかかる。
島内交通はアジャクシオ、バスティア、コルテ、カルヴィを連絡するコルシカ鉄道があるが、それ以外には公共交通機関はない。よって、島内を巡るには一日に1、2便しかないバスを利用するか、レンタカー、タクシーを利用する他はない。島内には国道193、194、196、197、198、200号線があるが、高速道路はない。国道の道路事情は極めて悪かったが、1990年代以降は徐々に改善されている。
その他[編集]
島の一般道を閉鎖して行われるラリーは『ツール・ド・コルス』と呼ばれ、1956年から毎年開催。1973年から始まったWRC(世界ラリー選手権)のラウンドにも組み込まれている。「直線が200mあったらコルスではない」とまで言われる、非常にテクニカルなターマック(舗装路)ラリーコースとして数々の名場面を生み出している。
山岳地帯を縫うように走る断崖路で行われるこのイベントでは、ワークスドライバーであってもしばしば大事故を引き起こす。グループB時代の1985年、1986年にはランチアのワークスドライバーがコースオフし死亡。グループBカテゴリ消滅のきっかけとなった。ほかにも1997年にはこの年のワールドチャンピオン、三菱のトミ・マキネンが路上に出てきた牛に衝突し崖下に転落してリタイアしている。
外部リンク[編集]
- 日本コルシカ協会・コルシカガイドのページ(日本語)
関連図書[編集]
- ジャニーヌ・レヌッチ著『コルシカ島』白水社 1999年
- 長谷川秀樹著『コルシカの形成と変容』三元社 2002年
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