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*1943年(昭和18)3月 少将、 [[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀副長兼[[第25軍軍政監部|軍政監部]]総務部長 | *1943年(昭和18)3月 少将、 [[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀副長兼[[第25軍軍政監部|軍政監部]]総務部長 | ||
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*1945年(昭和20)6月 兵器行政本部付、同年9月 軍務局付 | *1945年(昭和20)6月 兵器行政本部付、同年9月 軍務局付 | ||
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2020年4月25日 (土) 20:22時点における版
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本陸軍の軍人。陸士30期。陸軍省整備局課員、関東軍参謀、参謀本部員兼整備局課員などを歴任。1936年、兵務局課員として軍機保護法改正案の起草に携わり、1937年に科学的防諜機関として発足した兵務連絡機関では逓信省との連絡役にあたり、同年暮から後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)の開設準備にあたった。1939年に軍事課長となり、兵器行政本部を改組。いわゆる登戸研究所を設置した。
1941年、太平洋戦争開戦直前の日米交渉に携わり、岩畔ノート作成。マレー作戦に近歩5連隊長として参加し、シンガポール陥落後、インド独立義勇軍の指導工作を行う岩畔機関の機関長となった。
経歴
以下、特に断わりのない場合の出典は、中野校友会 (1978 19-20)。
- 広島県出身、1897年(明治30)10月10日生。
- 陸軍士官学校30期卒業生。
- 1918年(大正7)12月 少尉、歩兵第16連隊付
- 1926年(大正15)12月 陸大卒
- 1928年(昭和3)12月 陸軍省整備局課員
- 1932年(昭和7)8月 関東軍参謀
- 1933年(昭和8)8月 少佐
- 1934年(昭和9)8月 参謀本部員兼整備局課員。同年12月 対満事務局事務官
- 1936年(昭和11)8月 新設の兵務局課員に転属となり、久保少佐、陸軍省・日高書記官と軍機保護法の改正案を起草。言論弾圧にあたるとして政治家から強い反対を受けたが、1937年(昭和12)3月に議会通過。[1]
- 1937年(昭和12)8月 中佐[3]。同年秋、参謀本部第2部欧米課第4班[2]。同年11月、参謀本部第8課[3](第4班が改組[2])
- 1938年(昭和13)3月 軍務局課員(軍事課)
- 1939年(昭和14)2月 軍事課長( - 1941年2月)、同年3月 大佐
- 1941年(昭和16)8月 アメリカ出張(戦争前の日米交渉、岩畔ノート)。同月、近歩5連隊長。
- 1942年(昭和17)2月 シンガポール陥落の後、藤原機関を発展的に解消させ、インド独立義勇軍の指導工作を行う岩畔機関の機関長となった[7]。
- 1943年(昭和18)3月 少将、 第25軍参謀副長兼軍政監部総務部長
- 1944年(昭和19)1月 第28軍参謀長
- 1945年(昭和20)6月 兵器行政本部付、同年9月 軍務局付
- 1970年(昭和45)11月22日に死去。(享年73)
著書
- 岩畔 (1942) 岩畔豪雄『戦争史論』
- 1967年、恒星社厚生閣、NDLJP 9581576
- ― (1946) ――『科学時代から人間時代』
- 1970年、『科学時代から人間の時代へ』理想社、JPNO 74007272
- 「〈新刊紹介〉岩畔豪雄著『科学時代から人間の時代へ』」朝雲新聞社『国防』v.20 n.3、1971年3月、p.129、NDLJP 1390332/64
- 1970年、『科学時代から人間の時代へ』理想社、JPNO 74007272
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 中野校友会 1978 19
- ↑ 2.0 2.1 2.2 中野校友会 1978 22
- ↑ 3.0 3.1 中野校友会 1978 20
- ↑ 中野校友会 1978 22-23
- ↑ 中野校友会 1978 23-24
- ↑ 中野校友会 1978 23
- ↑ 中野校友会 1978 346。同書 p.20では「光機関長」としている。
参考文献
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730