「横井庄一」の版間の差分
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1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。 | 1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。 |
2019年9月27日 (金) 15:36時点における版
横井 庄一(よこい しょういち、1915年3月31日 - 1997年9月22日)は、元日本兵である。太平洋戦争(大東亜戦争)終結から28年目、アメリカ合衆国領グアム島で地元の猟師に発見された。栄典は勲七等青色桐葉章。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉
来歴
1915年(大正4年)、愛知県海部郡佐織村(現在の愛西市)にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡神守村、現在の津島市)で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、明治大学商学部を繰り上げ卒業。
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、満州を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位勲二等旭日中授章への昇叙者として官報掲載されている。
その当時グアムに残っていた隊員にはポツダム宣言(1945年)受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことが知らされなかった。横井はジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日にエビやウナギをとるためにウケをしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として陸軍少尉となる。
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、羽田空港で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。同年2月2日14時から60分間にわたりNHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録した。
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙(全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で心臓発作を起こして死去した。
著書
- 『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(文藝春秋、1974年)
- 『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』(中央公論社、1983年)
- 『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』(小学館、1984年)ISBN 4-09-366301-7
記念館
横井庄一記念館(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の記念館である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、2004年(平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、2006年(平成18年)6月24日に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、ココナッツの実で作った椀なども展示されている。
参考文献
- 島村喬著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』(番町書房、1972年)
- 伊藤忠彦著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』(日芸出版、1972年)
- 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』(朝日新聞社、1972年)
- 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』(毎日新聞社、1972年)
- サンケイ新聞・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』(サンケイ新聞社出版局、1972年)
- 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6
- 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)
関連項目
外部リンク
- 明日への道・横井庄一記念館公式サイト
- あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子 (日刊ゲンダイ 2006年8月15日掲載)