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== 概要 == | == 概要 == | ||
自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。 | 自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。 | ||
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+ | == [[しばき隊リンチ事件]]について == | ||
+ | 2014年末に起きた傷害事件とその後のネットの騒ぎについて | ||
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+ | 今年の春頃、私がこの事件の加害者3名宛てに書いた手紙が、私の了解を得ることなくネットに流されました。そして、その手紙に書かれていたことを「証拠」として、[[李信恵]]さんに対する異常なまでの攻撃が始まりました。 | ||
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+ | まず、私は、[[Twitter]]を始めとするネットの中で何が起きているのか、逐一追うことはできません。今でも全容は把握できていないと言わざるを得ません。この事件に関して様々な方が見解を述べていますが、私は、誰に対して何を伝えなければならないのか、整理ができませんでした。また、様々な制約もあり、コメントを出す機会を逸しました。 | ||
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+ | その間、渦中に置かれていた李信恵さんは苦しんだことと思います。どれほど絶望的な思いで過ごしたことでしょう。本当に、ごめんなさい。 | ||
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+ | 私にとって、問題は、私の手紙が私の知らないうちにネットに持ち出されたことに尽きます。私が被害者に初めて会ったのは、事件後のことです。被害者の友人Kさん(私は被害者とKさんの関係については何も知りません)から連絡があり、まずKさんと連絡を取り、ついで被害者から写真とテープを頂き、それに基いて手紙を書きました。そして、被害者に手紙を見せ、被害者が望まない箇所は削除し、その了解を得た上で関係者に送りました。この手紙を持っているのは、事件に関わったとされる5名と被害者1名、双方の弁護士、それと、この事件を知らせてくれたKさんだけのはずです。 | ||
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+ | 当初、被害者とKさんは、このことが外に漏れることを非常に心配していました。「大変なことになる」というのが口癖でした。彼らの、問題を解決したいという思いが強く感じられたからこそ、私は手紙を書こうと決心しました。しかし、今年に入って、関係者ではないのに私の手紙を見たという人たちに出会いました。どこからか出回っていたのです。次は、手紙がネットに流されました。それを有料のコラムで紹介した人もいると聞いて、私信をネットに流すだけでも非常識なのに、それで小銭を稼ぐという行為には耳を疑いました。被害者とKさんが私に言っていたことは何だったのだろうと混乱しました。 | ||
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+ | あの手紙を出した後、加害当事者であるLさんや関係者に会い、あの日起きたことの別の一面を知ることになりました。それは、被害者側から聞いた話とは相容れないものでした。 | ||
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+ | 私がLさんに会ってまず思ったのは、「こんなにちっちゃい子だったんだ」ということでした。あんなに体格のいい被害者を、どうやって殴ったのだろうかと。事件に至るいきさつはいろいろとあったようですが、それは私の知らないことなので、そこに関してはコメントできません。 | ||
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+ | あの手紙に書いた内容の中で、決定的に間違っていたのは次の点です。事件当夜の飲み会は[[李信恵]]さんの裁判関係の流れで予定されていたのですが、その途中で知人の訃報が入り、飲み直そうということで現場となった店に移動したこと、また、みんな悲しみに沈んでいたので、店の外で行われていることには、全く関心が行かなかったということです。そして、私が恐怖を覚えたあの「笑い声」は、その場を何とか明るく盛り上げようと必死になっていた[[李信恵]]さんの声だったのです。 | ||
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+ | 多くの方は、加害者側は反省も謝罪もしていないと考えているようですが、裁判所が勧めた和解を被害者が拒絶して告訴した結果、刑事事件となりました。私は、解決方法は被害者が決めるべきだと思っていたので、その決断を重く受け止めました。 | ||
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+ | しかしその結果、加害者のLさんは仕事も辞めざるを得なくなり、家も引き払い、罰金に弁護士費用も加わるなど、Lさんが彼の人生で受けた制裁は十分に重かったと言えます。今度は、これに民事訴訟が加わります。そして、そのLさんのことを心配した[[李信恵]]さんが、30数箇所を自傷して血だらけになった自分の写真を送り、「代わりに死んであげたから、死なないで」と言ったことなど、ネットで楽しく叩いている人たちには、想像もつかないことでしょう。彼女はそれ以前から、在特会や保守速報との訴訟によるストレスで、身体はボロボロの状態でした。かつて、私は彼女の周囲の人に、裁判はもうやめたらどうかと言ったことすらあります。もう十分だろうと。 | ||
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+ | この事件について「正義」を唱え、楽しんでいる人たちは、いったい何がしたいのでしょうか。一年半以上も前のことを、まるで今起きたかのように騒ぎ、事件の全体像もその後の経過も知らないのに、ネット上で尋問でもするかのような問い詰め方をし、しかも、自分にはそうすることが許されているのだと思っている。その傲慢さを恐ろしく感じます。 | ||
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+ | 生意気な女は叩いてもいい、目障りだから思い知らせてやろう、とでもいうかのようです。 | ||
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+ | そして、被害者とその友人Kさんが望んだ「解決」とは何だったのかと考えざるを得ません。少なくとも、限られた情報しかなかった初期の段階で書いた私信を、私の許可なく世に出したことからは、彼らがやりたかったのは解決ではなく、復讐だったのだろうと思わざるを得なくなりました。そして、マイノリティがマジョリティを叩いたら、報復として何十倍もの血を求められること、その暴力はとりわけ女に向かうということを、あらためて思い知らされました。まして、それを扇動している人たちの中に在日の男たちがいることには、吐き気すら覚えます。 | ||
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+ | 一方的な情報だけに基いてあの手紙を書いたことは、悔やんでも悔やみきれません。そして、それがネットに公開され、マスコミにまで渡されることを想像できなかった私の責任は重いです。本当に申し訳ありません。 | ||
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また、「男は生物学的に不良品の率が高いと思っている」と述べた。 | また、「男は生物学的に不良品の率が高いと思っている」と述べた。 | ||
*「自衛官は普通の仕事に就けなかった人たちなので、治安維持をまかせると危険」「新聞配達をしている人は学歴も低く、社会の負け犬である。そういう人たちだから新聞配達くらいしか出来ないのだ 」 | *「自衛官は普通の仕事に就けなかった人たちなので、治安維持をまかせると危険」「新聞配達をしている人は学歴も低く、社会の負け犬である。そういう人たちだから新聞配達くらいしか出来ないのだ 」 | ||
− | *「戦後も日本は戦争をし続けた。[[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]] | + | *「戦後も日本は戦争をし続けた。[[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]]……。アメリカの公共事業である戦争に加担し、甘い汁をずっと吸ってきた。もっと甘い汁を吸うために憲法9条を改正する。憲法は2000万の民の血の代償として日本人の手に渡った。この憲法を破棄することは[[アジア]]への宣戦布告だと思います」 |
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*『朝まで生テレビ』において「在日朝鮮・韓国人は日本人が強姦し生ませたのが在日朝鮮・韓国人です」と発言したことがある。 | *『朝まで生テレビ』において「在日朝鮮・韓国人は日本人が強姦し生ませたのが在日朝鮮・韓国人です」と発言したことがある。 | ||
*「私はどの国の歌も歌いません。どの国の旗も振りません。歌は分断する装置です。みんなに知らせることが大事です。」2013年のイベントで。 | *「私はどの国の歌も歌いません。どの国の旗も振りません。歌は分断する装置です。みんなに知らせることが大事です。」2013年のイベントで。 |
2019年2月11日 (月) 17:44時点における最新版
辛 淑玉(シン スゴ、女性、1959年1月16日- )とは、東京都生まれの実業家。のりこえねっと (ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)共同代表、シューレ大学アドバイザー。東京都立第一商業高等学校卒業。在日韓国人3世。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人をつとめる。
概要[編集]
自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める。
しばき隊リンチ事件について[編集]
2014年末に起きた傷害事件とその後のネットの騒ぎについて
今年の春頃、私がこの事件の加害者3名宛てに書いた手紙が、私の了解を得ることなくネットに流されました。そして、その手紙に書かれていたことを「証拠」として、李信恵さんに対する異常なまでの攻撃が始まりました。
まず、私は、Twitterを始めとするネットの中で何が起きているのか、逐一追うことはできません。今でも全容は把握できていないと言わざるを得ません。この事件に関して様々な方が見解を述べていますが、私は、誰に対して何を伝えなければならないのか、整理ができませんでした。また、様々な制約もあり、コメントを出す機会を逸しました。
その間、渦中に置かれていた李信恵さんは苦しんだことと思います。どれほど絶望的な思いで過ごしたことでしょう。本当に、ごめんなさい。
私にとって、問題は、私の手紙が私の知らないうちにネットに持ち出されたことに尽きます。私が被害者に初めて会ったのは、事件後のことです。被害者の友人Kさん(私は被害者とKさんの関係については何も知りません)から連絡があり、まずKさんと連絡を取り、ついで被害者から写真とテープを頂き、それに基いて手紙を書きました。そして、被害者に手紙を見せ、被害者が望まない箇所は削除し、その了解を得た上で関係者に送りました。この手紙を持っているのは、事件に関わったとされる5名と被害者1名、双方の弁護士、それと、この事件を知らせてくれたKさんだけのはずです。
当初、被害者とKさんは、このことが外に漏れることを非常に心配していました。「大変なことになる」というのが口癖でした。彼らの、問題を解決したいという思いが強く感じられたからこそ、私は手紙を書こうと決心しました。しかし、今年に入って、関係者ではないのに私の手紙を見たという人たちに出会いました。どこからか出回っていたのです。次は、手紙がネットに流されました。それを有料のコラムで紹介した人もいると聞いて、私信をネットに流すだけでも非常識なのに、それで小銭を稼ぐという行為には耳を疑いました。被害者とKさんが私に言っていたことは何だったのだろうと混乱しました。
あの手紙を出した後、加害当事者であるLさんや関係者に会い、あの日起きたことの別の一面を知ることになりました。それは、被害者側から聞いた話とは相容れないものでした。
私がLさんに会ってまず思ったのは、「こんなにちっちゃい子だったんだ」ということでした。あんなに体格のいい被害者を、どうやって殴ったのだろうかと。事件に至るいきさつはいろいろとあったようですが、それは私の知らないことなので、そこに関してはコメントできません。
あの手紙に書いた内容の中で、決定的に間違っていたのは次の点です。事件当夜の飲み会は李信恵さんの裁判関係の流れで予定されていたのですが、その途中で知人の訃報が入り、飲み直そうということで現場となった店に移動したこと、また、みんな悲しみに沈んでいたので、店の外で行われていることには、全く関心が行かなかったということです。そして、私が恐怖を覚えたあの「笑い声」は、その場を何とか明るく盛り上げようと必死になっていた李信恵さんの声だったのです。
音声だけから状況を判断するのがどれほど危ないことか、私は思い知りました。
多くの方は、加害者側は反省も謝罪もしていないと考えているようですが、裁判所が勧めた和解を被害者が拒絶して告訴した結果、刑事事件となりました。私は、解決方法は被害者が決めるべきだと思っていたので、その決断を重く受け止めました。
しかしその結果、加害者のLさんは仕事も辞めざるを得なくなり、家も引き払い、罰金に弁護士費用も加わるなど、Lさんが彼の人生で受けた制裁は十分に重かったと言えます。今度は、これに民事訴訟が加わります。そして、そのLさんのことを心配した李信恵さんが、30数箇所を自傷して血だらけになった自分の写真を送り、「代わりに死んであげたから、死なないで」と言ったことなど、ネットで楽しく叩いている人たちには、想像もつかないことでしょう。彼女はそれ以前から、在特会や保守速報との訴訟によるストレスで、身体はボロボロの状態でした。かつて、私は彼女の周囲の人に、裁判はもうやめたらどうかと言ったことすらあります。もう十分だろうと。
この事件について「正義」を唱え、楽しんでいる人たちは、いったい何がしたいのでしょうか。一年半以上も前のことを、まるで今起きたかのように騒ぎ、事件の全体像もその後の経過も知らないのに、ネット上で尋問でもするかのような問い詰め方をし、しかも、自分にはそうすることが許されているのだと思っている。その傲慢さを恐ろしく感じます。
生意気な女は叩いてもいい、目障りだから思い知らせてやろう、とでもいうかのようです。
そして、被害者とその友人Kさんが望んだ「解決」とは何だったのかと考えざるを得ません。少なくとも、限られた情報しかなかった初期の段階で書いた私信を、私の許可なく世に出したことからは、彼らがやりたかったのは解決ではなく、復讐だったのだろうと思わざるを得なくなりました。そして、マイノリティがマジョリティを叩いたら、報復として何十倍もの血を求められること、その暴力はとりわけ女に向かうということを、あらためて思い知らされました。まして、それを扇動している人たちの中に在日の男たちがいることには、吐き気すら覚えます。
一方的な情報だけに基いてあの手紙を書いたことは、悔やんでも悔やみきれません。そして、それがネットに公開され、マスコミにまで渡されることを想像できなかった私の責任は重いです。本当に申し訳ありません。
生い立ち[編集]
東京都渋谷区生まれ、祖父は労働者として働き、父は弁護士を目指して中央大学法科へ入学し卒業した。母は日本生まれ日本育ちの在日二世だった。
4歳の頃、それまで一緒に遊んでいた友だちが幼稚園に入園、「幼稚園に行きたい」と父にねだったが、幼稚園と交渉した結果、朝鮮人の子どもは入園できないことを知った。この体験は、自分が朝鮮人であることを強く自覚する契機となったという。日本の敗戦後、弁護士を目指していた父(渡日より、既に41年が経過)は、韓国政府の決定により、韓国籍を与えられることになった。終戦後は裕福な家庭ではなかったという。
日本の小学校に入学後、朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校した。転校直後は半日本人を意味する蔑称であえる「パンチョッパリ」と呼ばれ、「総括」と呼ばれる反省会の場で「思想が悪い」と「自己批判」させられることもあった。また、ジーパンを穿いていたというだけで活動家から暴行された。ヘルニアを患っているのはこれが原因である。
収入を得るため、小学校2年のときから内職をし、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事した。その後成人してから、ヤクルト販売の女性を見かけるたびにヤクルト販売での苦労を思い出し、ヤクルト1本を買い求めては心の中で「ガンバレ」と念じることが習い性という。
転校ばかり続いた彼女は、教室のみんなに紹介されると、まず、一番強そうな男の子を、カバンでバシーッと殴って「 よろしくなー 」と言ってから、悠然と着席した。そうすると、いじめられなかった。給食当番の時は、天敵には「 おい日本人の男って小食なんだって 」と言ってスープを数滴だけ垂らしてにらみつけた。
中学生の頃、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった。中学2年のころ、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」のお金が払えなかった。そのことで朝鮮籍の教師に責められたことに対して反論したため、数人の教師から殴られた。その後に家出し親戚の家に逃亡していたが、すぐに連れ戻された。父は手を尽して転校先を探し、日本人が通う杉並区立泉南中学校に転校した。
中学卒業後、東京都立第一商業高等学校に入学した。新宿の焼肉料理店「名月館」などさまざまなアルバイトの収入で2つの予備校、代々木ゼミナールと代々木学院に通った。また高校在学中には就職に向けて、商業英語、珠算、簿記、カナタイプなどさまざまな資格検定を取得。高校卒業後は各種のアルバイトに勤しむ。17歳で銀座のモデルクラブに所属した。翌年映画のエキストラ出演で知りあった 「DJ 」に音楽の仕事を紹介してもらい、しばらくモデルと兼業した。
なお、自身のホームページにおいては、自身の経歴について
- 小学校:転校、不登校の繰り返し。小学校2年まで通う。
- 中学校:転校、不登校、家出の末、中学校3年の一年間のみ通う。
- 高校:卓球と絵が上手だったので合格( いまでいう一芸入学 )。
- 入学当時、「 ツ 」と「 シ 」、「 ン 」と「 ソ 」の違いがわからなかった。
- 教師のお目こぼし、配慮にて、なんとか卒業。
- 卒歴:都立第一商業高校( 実際の学歴…小学校2年? )
と記載していた。ただし、都立第一商業高校に一芸入学に類する入学制度は存在しない。
20歳の時博報堂で契約社員(特別宣伝班)。家族のため、夜間はアルバイトを続けた。勤務中の4年間でおよそ1600回司会を務めたのち、1983年頃に退社、フリーランスの広告業者として独立。この頃、本名(辛淑玉)を名乗ることを決意。
1985年、台東区三ノ輪に女性社員1人を雇って人材育成会社・香科舎を設立した。TBS系テレビ番組「サンデーモーニング」やその他の番組にゲストやコメンテーターとして出演した。
名前とアイデンティティ[編集]
韓国籍だが、“在日朝鮮人”あるいは“在日コリアン”を自称している。本名である「辛淑玉」のほか、通名として「新山」を用いた新山節子(にいやませつこ)があり、「せっちゃん」と呼ばれて育つ。またモデル時代に、源氏名として辛節子を名乗ったこともある。東京生まれの東京育ちでサバサバした性格と語り口であり、彼女曰く「チャキチャキの江戸っ子」であるとも語っている。
1987年に帰化を申請をしたが、「辛淑玉」の名義はそのまま使いたいと申し出たところ、担当審査官から「もっと日本人らしい名前にしろ」と言われ却下されたという。“当用漢字にも含まれているしそのまま読み仮名抜きで”と申し出や日本語読みならよいかという譲歩にも、改名しないのは「あなたには、よき日本人になろうという意思が感じられない」と担当者から拒絶されたと主張している。
2003年7月30日に愛知淑徳大学で行なった講演「もう一度人権を考える」では、「チョー・ヨンピルさんも植民地時代に付けられた日本の名前持っているわけ」と発言し、第二次世界大戦後の韓国生まれのチョー・ヨンピルが通名を持っているとの主張を展開した。
社会的活動[編集]
親交のある永六輔の引きで2000年から『週刊金曜日』編集委員を務めたことがある。しかし、同性愛者を扱った記事における「オカマ」という言葉がホモフォビア表現だとして一部のスタッフと対立した。それが直接の原因となり、2001年に編集委員を辞任している。
時の東京都知事・石原慎太郎をたびたび批判している。特に2000年4月9日に、石原が陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典での挨拶の中で、「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」といういわゆる「三国人発言」を行った際には、どのような文脈で「三国人」という言葉を用いようとも、この発言は在日コリアンに対する侮辱であり、人種差別であると激しく批判した。この主張のもと石原慎太郎を辞任させるための「石原やめろネットワーク」をはじめとした活動を行っている。ただし多くの在日韓国・朝鮮人は日本領だった戦前に来日しており、現在の多くの在日韓国・朝鮮人はその子や孫である。
その一環として、2003年4月5日、落合恵子、佐高信と連名で『プレ東京都知事選挙』と題するネット投票サイトを開設した。『プレ東京都知事選挙』サイトには石原ら各候補者のプロフィールが書かれていたが、石原についてはきわめて批判的なものだった。このサイトが2ちゃんねるなどで広められたことなどから『祭り』となった。
フェミニズム系の新聞『ふぇみん』2000年4月25日号の編集後記で、「戦争になったら韓国と日本のどちらにつくんだと聞く人がいるけど、戦争が起きたら、在日は真っ先に殺されますよ」と述べた。
ワイドショー番組を嫌っている。テレビ番組で「私はワイドショーが嫌いです」と発言したことがある。辛はワイドショー番組を「人のプライバシーを覗き見する下品な番組」と軽蔑する発言をしていた。ワイドショー番組への皮肉をこめて永とNHK衛星放送の「わいどしょう番組」をプロデュースし出演していた。永は「こういう人がワイドショーの司会をやればテレビもよくなるよ」と発言するほど高く評価している。
外国人参政権には賛成の立場をとっている。NHK「真剣10代しゃべり場」2000年7月8日放送回に出演した際、日本の国籍を持たない人も日本の参政権を得られるようにすべきだと発言した。ただし韓国では日本人に自由な参政権は付与されていない。
2001年3月5日から3月9日まで国連人種差別撤廃委員会に参加し、その委員会の集まりにおいて、石原を批判するだけにはとどまらず、在日コリアンが日本人によってさまざまな人種差別に遭い被害を受けたと主張した。またその委員会の集まりにおいて、日本の法律が人種差別的に作られていて、日本政府が人種差別をしていると世界に向けて主張した。その委員会において、日本人は在日コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対して暴力を振るう、人種差別的な人たちであると考える人に賛同するロビイストが多くなったため、国連人種差別撤廃委員会は日本を批判する勧告を出した。
2003年、反差別・反ファシズム闘争が評価され、多田謡子反権力人権賞を受賞する。また、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が推進する「戦争と女性の人権博物館」日本建設委員会の呼びかけ人となる。
2008年3月18日、恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(会長:鳩山由紀夫)に招かれて講演。日本では血のつながりが重視されるあまり在日韓国・朝鮮人を差別、排除する傾向があり、在日コリアンに日本への所属意識が生まれないと述べた。
2009年11月18日、日本軍慰安婦問題の立法解決を求める緊急120万人署名の賛同人になる。
なお、当の石原は、四期目途中の2012年10月に都知事を突如辞任、衆議院議員に転身した。
生前葬[編集]
2007年5月5日に長野県松本市の神宮寺にて生前葬を行なった。生前葬を行った理由は、日本人への「怒りをぶっつける」ことだという。生前葬で辛は『千の風になって』をもじって「私は迷惑な千の強風になる!!!!」と宣言した。
批判[編集]
前田日明(元在日韓国人、1984年に帰化)は、「名前を出して悪いんだけど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とてもおれは共感できない。」と批判した。
鄭大均は、金嬉老事件における辛の発言を引き合いに出して「メディアに登場する在日のなかで、姜尚中と辛淑玉ほど違和感を覚える人間はいない。辛淑玉に関して言えばその歯に衣着せぬ語り口はいいのだが、思いつきやデタラメが多すぎるのではないか。」「在日コリアンの被害者性という現実的であるかもしれないが非現実的であるかもしれない状況に、自己を憑依してものを語る傾向がある。」「辛淑玉の一見奔放な語り口が、驚くほど古風な被害者的立場や対抗主義的立場との見事な整合性を維持している。」と批判した。
辛淑玉は、創価学会員ではないが、『外から見た創価学会』(第三文明社2003年)という書籍に登場し、創価学会を賛美するような発言をしているため、創価学会批判者から批判された。
1997年9月に放送された『朝まで生テレビ』テーマ「激論! “在日”とニッポン」で、在日にとって日本の差別的な制度を批判。日本人と同等の権利を求める。しかし、韓国のジャーナリスト・池東旭氏から、「そこまで言うなら帰化すれば いいじゃないですか。韓国人は、それがいけないと思ってないですよ。」と言われる。またこれとは別に在日朝鮮人のなかで朝鮮民主主義人民共和国の体制を支持するものや、在日コリアンの同化を批判する者の一部からは「辛淑玉は在日の朝鮮人の権利拡大などを表向きは言いつつも、結局日本の左翼陣営に都合のいい朝鮮人を演じているだけ。」「日の丸、君が代について自らは支持しないとしながらも、存在そのものは肯定しているし、それらを肯定する人間との親交も深い。」等と言う批判が各種SNSサイトの間から出ている。
発言[編集]
- 北朝鮮による日本人拉致について
- 「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」
- 「北が日本人女性を拉致したというのはウソだと思う。工作員教育係なら在日同胞を使えばすむからだ」
- 「日本人が北朝鮮による拉致事件に政治的に飛びついたのは、長年、国家と一体となった加害者として糾弾されてきたことに疲れたからだと私は見ています。初めて堂々と「被害者になれる」チャンスがめぐってきたのがあの拉致事件でした」
- 天皇制について
- 「最近、あちこちで文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』と言ってやる。だけど、アイツ働かないからな(笑い)」
- 北朝鮮の金父子による世襲体制を日本の皇室になぞらえ、天皇制が差別的制度であり、日本国憲法第1章を廃止すべきと主張している。一方で、テレビ番組において、今上天皇・皇后の阪神大震災被災者に対する慰問の姿勢を高く評価して、コミュニケーションやプレゼンテーションの模範だとしたこともある。
- 在日朝鮮人について
- 「(在日)朝鮮人は、しぐさで分かります」
- 辛淑玉は、韓国人や在日コリアンなどが、日本の著名人を根拠なく在日コリアンやコリアン系の同胞であると主張する在日認定と呼ばれる行為をすることに抵抗感がなく、一例では、「NHKの紅白歌合戦が始まると、親戚の叔父たちが私を呼んでくれる。その時だけは台所の仕事から解放されて、テレビを見ることができた。『おい、セツ子(辛淑玉の日本名)、見てみろ見てみろ。こいつは朝鮮人だぞ、こいつは朝鮮人、こいつの家はパチンコ屋、こいつの家は焼肉屋、こいつは総連系で、こいつは民団で、こいつは山口の××出身で済州島なんだ、こいつの弟は算数が5点で、その嫁さんは・・・・』と、延々と『在日のワイドショー』が続く。当時、私にとっての紅白歌合戦は、年に一度の『チョウセンジン』の数を数えるイベントであり、一度も日本人の数を下回ったことがない」
- 「われわれマイノリティーは今、なんの保護もない「奴隷」なんですよ」
- 「不法滞在と言うのは凶悪犯罪ではない。信号無視程度の人」
- 「凶悪犯の検挙人数は、東京都全体で978人で、来日外国人は109人と全体の11.2%。九割近くは日本人の犯罪だ」
- 福島瑞穂が自身の在日疑惑を否定する記者会見をしたことに関して、「国籍をこえて一緒に闘ってきたはずの仲間から『あなたたちと私は別』と言われたように感じた」と発言した。
- 在日にとって、芸能界という存在は大きいのです。在日は就職できないから、力のある人は芸能界に行ったり、スポーツ界に入ったりする。あと、本当にできる人は医者になった。最近はようやく弁護士にもなれるようになりましたが。 一方で、右翼かヤクザになる人もいる。広域暴力団の70人の幹部のうち、20人は在日だと言います。1億2000万人中の70人と60万同胞中の20人というのは意味が違います。そのほか、暴力団の幹部には被差別部落の人や沖縄・奄美の人も多いのです。差別と戦おうと思っても、理由が分からないのです。被差別部落の集会に出たことがあります。リーゼントした男ばかりで、暴走族の集会かと思いました。法の際で生きている人は、そちらの世界に流れていくのです。ヤクザになるのは、日本人に愛されたいからなのです。日の丸を掲げ、君が代を流していれば愛してくれると思っているのです。通称名で生きる人の「過剰反応」とも言えるものなのです。(辛淑玉の講演から)
- 在日特権について
- 「在日韓国人が獲得した数々の権利のほとんどは、日本政府から一方的に与えられたものではない。1世中心の過去の民団が、長い年月をかけて理論整備をし、法的・人的連携を各地域で地道に構築した結果として得たものだ」
- 「のりこえねっと で在日韓国人への日本の公民権運動を行う」
- その他
- 「2014/7/20に行われた大阪 AGAINST RACISM 仲良くしようぜパレード2014(IWJ撮影)にて、
暴力事件で逮捕された男組メンバーを不当逮捕、治安維持法、検事は真っ当な正義を、と擁護した。 また、「男は生物学的に不良品の率が高いと思っている」と述べた。
- 「自衛官は普通の仕事に就けなかった人たちなので、治安維持をまかせると危険」「新聞配達をしている人は学歴も低く、社会の負け犬である。そういう人たちだから新聞配達くらいしか出来ないのだ 」
- 「戦後も日本は戦争をし続けた。朝鮮戦争、ベトナム戦争……。アメリカの公共事業である戦争に加担し、甘い汁をずっと吸ってきた。もっと甘い汁を吸うために憲法9条を改正する。憲法は2000万の民の血の代償として日本人の手に渡った。この憲法を破棄することはアジアへの宣戦布告だと思います」
- 『朝まで生テレビ』において「在日朝鮮・韓国人は日本人が強姦し生ませたのが在日朝鮮・韓国人です」と発言したことがある。
- 「私はどの国の歌も歌いません。どの国の旗も振りません。歌は分断する装置です。みんなに知らせることが大事です。」2013年のイベントで。
関連項目[編集]
- 松井やより (辛淑玉は女性人権活動奨励賞(やより賞)の選考委員を務める)
- 百万人署名運動
- 宮崎学 - 宮崎の熱心なファンであり、辛は宮崎に「宮崎学の妹分」と称されている。