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2018年6月13日 (水) 22:21時点における最新版
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姫街道(ひめかいどう)は、浜名湖の北側、本坂峠(本坂トンネル)を経由して静岡県磐田市見付町と愛知県豊川市御油町を結ぶ街道。道程約60キロメートル。古くは三河国府から遠江国府を結んでいたとみられ、万葉集に謳われた二見の道、近世には、東海道浜松宿と御油宿を結んでいた本坂通および市野宿付近から見附宿へ抜けていた池田近道に比定される。
浜名湖南岸を通っていた東海道本道の迂回路として利用され、本道が地震・津波の被害を受けた後に交通量が増える特徴があった。また、渡海に不向きな軍勢の移動にも利用されていたとみられている。戦国時代には本坂、江戸時代には気賀に関所が置かれ、幕藩体制が衰えて関所破りをし易くなった幕末頃から姫街道と呼ばれるようになった。明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となったが、歴史の道として散策コースが整備されている区間もある。
呼称の由来には諸説あり、また1930年代初めには遠江国側の起点を巡る議論(姫街道論争)があった。
歴史[編集]
先史時代[編集]
本坂峠を越える経路自体は、縄文時代から存在していた[1]。街道近くの静岡県三ケ日町の石灰採石場では、新人段階の化石人骨(三ヶ日人)が見つかっており、縄文遺跡や弥生遺跡が数多く存在している[2]。
古代[編集]
二見の道[編集]
本坂峠を越えて浜名湖の北側、三ケ日を通る姫街道の経路は、上代には二見の道と呼ばれ、当時は天竜川の下流が磐田の海と呼ばれる湖になっており、その東側にも大乃浦と呼ばれる湖があって通行できなかったため、東海道の本道として利用されていた[3][4]。
大宝2年(702年)に持統上皇が三河に行幸して三河の国府に至り、御津の港から乗船して伊勢を経由して帰京した[5]。このとき、上皇の三河行幸に同行していた歌人の高市黒人が、三河の国府でそれまで同道していた旅の女と別れることになり、
妹(いも)もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる(も)
– 高市黒人 『万葉集』巻第3
と歌を詠み、これに応じて旅の女が
三河なる 二見の道ゆ 別れなば わが脊(せ)もわれも 一人かも行かん
– 旅の女 『万葉集』巻第3
歌に詠まれた二見の道は、三河の国府の西にあった御油の欠間から南へ折れて御津へ向かう道と分岐し、そのまま東進して遠江国へ向かう道のことを指していた、とみられている[8]。
二見の道は、江戸時代の経路と全く同じ経路を通っていたかは判然としないが、三河の国府から気賀まではほぼ同様の経路を辿っていたとみられている[9]。気賀から先の経路について、内藤 (1972 130)は、古道は真東に進み、三方原北方、磐田市の社山から周智郡森町方面に向っていたとみられているとしており、木下 (1976 71)は、静岡県側では遠江国の国府(磐田市見付)で東海道と分岐していた、と推定している。また壬生 (1994 229)では、三ケ日を通って浜松に抜ける道だった、としている。
1907年(明治40年)の『大日本地名辞書』[10]では、古代は二見路(ふたみじ)と称せられた、とされている[11]。
板築駅と「本坂」の語源[編集]
磐田海や大乃浦の水が引いた後、旅人の往来は浜名湖南岸へ移動し、貞観4年(862年)に浜名の橋が造られた頃から往来が本格的になったとみられている[4]。浜名湖南岸の往来が盛んになると、二見の道はさびれていき、裏街道としての役割を担うようになった[3]。
871年の『文徳実録』巻1には、842年(承和9年)8月13日に、橘逸勢が遠江国の「板築(ほんづき)駅」まで行ったところで亡くなった、との記述がある[12][13]。本坂峠を静岡側に下ったところにある「本坂」の地名は「ほんづき」が転訛したものであり、また本坂の東隣にある日比沢には「ほうずき山」という山があるが、これも「ほんづき」から転訛したもので、上代はこの一帯(現在の浜松市北区三ヶ日町)を「ほんづき」と呼び、そのどこかに「板築駅」という宿駅があった、とみられている[14][15]。
橘逸勢は承和の変で「東国で挙兵して謀反を起こそうとした」として伊豆に流刑に処せられ、流刑の旅の途中に死亡した[16][17][18]。公的な目的で利用されていることから、板築駅に至る道は官道で、東海道の別路として使用されていたとみられている[16][12]。
- 小杉 (1997 197)は、平安初期に地震による津波のために浜名湖の湖口が洗われて東海道が通れなくなり、猪鼻駅(後出)が廃絶して復旧に10年ほどかかったことがあり、その間は本坂越が官道となり、日比沢に板築駅が作られたらしい、としている。
『延喜式』には「板築駅」に関する記述はみられないが[12]、これは駅制が衰退して駅路が整理・改廃されたことによるものと考えられている[19]。
また「本坂」の語源は、三河の「穂の国(宝飯郡)」に通じる坂を「穂の坂」と呼んだのが転訛したとする説[20][15]、「穂の国」の「境」から転訛したとする説[20]もある。
橘神社と旌孝碑[編集]
逸勢の後を追ってきたその娘は、逸勢が客死すると、遺骸を板築駅に埋葬し、墓前に庵を結び、尼僧となって「妙冲」と号し、父の菩提を弔った[21][16][22][23]。事件から9年後の嘉永3年(850年)5月に、逸勢の罪が赦されて正五位下を追贈され、故郷に埋葬することが許されたため、妙冲は父の遺骸を掘り返して代わりに遺品の鏡を埋め、板築を去ったとされている[21][16][24]。妙冲の孝行は都に伝わり、賞賛されたことが『続日本紀』に記されているという[21]。
三ヶ日町本坂の姫街道の沿道にある橘神社[map 1]には橘逸勢が祀られており[17][25]、逸勢の墓と伝えられる石塔がある[17]。
『引佐郡誌』によると、妙冲が埋めた鏡は三ケ日町内の本坂の愛宕山の中腹にあった数個の平たい石の下に収められていたが、のち掘り出されて八幡神社[map 2]に移され、それが盗まれて売り払われ、岡崎にあったのを、本坂の竹平気吹[26]が探して買い戻し、再び八幡神社に納めたが、1908年(明治41年)に再び盗難に遭い、それ以来、行方知れずになったとされている[27]。
1925年(大正14年)11月に、妙冲の孝行を顕彰して掛川出身の軍医総監・戸塚環海が橘神社に「旌孝碑(せいこうひ)」を建立した[17][25][28]。
かぐわしき 木の実ありてぞ 橘の 枯れ木ももとに 移されにけり(る)
猪鼻駅[編集]
『遠江国風土記』によると、上代の二見の道は、板築駅や「猪鼻駅」を経て有玉川を渡っていた、とされている[30]。「猪鼻駅」の所在地について『遠江国風土記伝』の著者・内山真龍は、猪鼻湖の瀬戸にあったとし、上代の道は板築から三ヶ日に至る前に浜名湖西岸を南に向かい、大崎から対岸の舘山へ、湖上約4キロメートルを橋で渡っていた、と推測した[30]。
内山の推測は、15世紀の連歌師・宗祇が「浜名橋は水海より北の山岸なり。橋本の宿より三里(12キロメートル)余り北なり(…)古は浜名を海道とせられけり、本坂とて高師山の北に今もあり、橋本は今の海道なり」と記した記録や地元の古老の話を元にしているとみられており、この「浜名橋」は浜名湖南岸の「浜名橋」と区別して「湖北の浜名橋」と呼ばれている[30]。
内藤 (1972 146,163)は、長大な橋があったにしては、他の歌や記録に橋のことが記されていない、として、「猪鼻湖」は浜名湖全体の別名であり、「猪鼻駅」は『続日本後紀』にあるように荒井(新居)のことを指していたのではないか、としている[31]。
中世[編集]
池田宿と熊野御前[編集]
平安時代の末期、流れが急で徒歩で渡ることができなかった天竜川では、右岸の池田の渡し近くに池田宿[map 3]が成立していた[32]。源頼朝の異母弟・範頼は、義朝と池田宿の遊女との間に生まれたといわれており、平宗盛と熊野御前(ゆやごぜん)の話は謡曲「熊野」で知られている[32]。
本野原の柳の木[編集]
姫街道の御油から豊川にかけての一帯は、『東鑑』などによると「本野原」(ほんのはら/もとのはら)と呼ばれた平原で、『東関紀行』によると、当時一帯は笹原になっており、その中を通る姫街道沿いには北条泰時が道標として植えさせた柳の木が「陰とたのむほどはなけれども、かつがつ、まず道のしるべとなる」ほどに育っていた[33]。
本野原の柳の道標のことは、『東海道名所図会』に紹介されており[34]、同図[35]や『五十三次名所図会』(挿図参照)に描かれている。
豊川の宿駅の衰退[編集]
同じ『東関紀行』には、昔は姫街道沿いの豊川の河畔にあった「よかわ(豊川)」の宿駅がよく利用されていたが、その頃には、より南に位置する「しかすが」(小坂井町付近)の渡しで豊川を渡り、豊橋(渡津、わとうず)に至る道(東海道の本道)がよく利用されるようになったため、豊川の宿はさびれていっていたことが記されている[36]。
湖北の浜名橋[編集]
遠江国では応永12年(1405年)、文明7年(1475年)、明応7年(1498年)と3度の大地震を経験し、浜名湖南岸の「浜名の橋」が流されて交通が止まり、東海道が浜名湖の北を迂回していた時期があった[37]。
前出の、宗祇が記した「湖北の浜名橋」は、『遠江国風土記伝』では大崎‐舘山間に架けられていた、と推測されているが、この時に架けられた仮橋か、或は、宗祇のいう「橋本宿より3里ほど北」の「山岸」にあたる、引佐細江(細江湖)に架けられていた橋のことではないか、とみられている[37]。
近世[編集]
近世に本坂越の往来が再び盛んになった契機は、永正年間(1504年-1520年)に浜名湖南岸に今切口ができ、東海道を船で渡らなければならなくなったことだったとされている[38]。旅人は静岡県側では東海道の安間村から本坂峠へ向かうようになり、市野村は市場として繁え、宿場が整備されて本陣や問屋が建ち、道幅が拡げられ、松並木が造られた[39]。今切の渡船が確立されると、東海道に人が戻り、浜松宿が繁栄、対照的に市野宿は衰退し、交通量も減少していった[39]。
連歌師・宗長は、大永2年(1522年)に本坂越えをしている[40]。
連歌師・里村紹巴は、『紹巴富士見道記』の中で、永禄10年(1567年)に引佐細江に遊んだとき、本坂越えができなかった、と記している[40]。
獄門畷と村山修理の墓[編集]
永禄11年(1568年)に、徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込み、今川方の堀江城主だった大沢左衛門は家康に降伏したが、降伏を是としない大沢の家臣たちは、尾藤主膳、村山修理、新田友作の3人を首領として、地元の農民など雑兵約1,700人を集めて堀江城の出城である気賀の堀川城に立て籠もった[41]。永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月に再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城の手勢は徳川勢によってほとんど一方的に殺戮され、尾藤主膳は堀江城の大沢の下へ逃れたが切腹させられ、村山修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は逃亡した[41]。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しにさせ、約700人は女子供も含めて気賀の都田川の堤で全員首を刎ねられた[41][42]。新田はその後、密かに葭本の金地院[map 4]に戻って戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された[41]。
城兵や新田が斬首された都田川の堤には、「獄門畷(なわて)」の名が残っており[map 5]、三ケ日一里塚近くの一里山の旧姫街道沿いには、自刃した村山修理の墓が残っている[43]。
三方ヶ原の戦い[編集]
元亀3年(1572年)10月に青崩峠を越えて遠州に入った武田信玄は、磐田原[44]西麓の社山(やしろやま)に布陣して二俣城を攻略した後、同年12月に天竜川を越えて浜松城に迫り、三方ヶ原追分の北、祝田(ほうだ)の谷の手前の三方ヶ原[map 6]で徳川家康軍および織田信長の援軍と交戦した(三方ヶ原の戦い)[45][46]。戦いは徳川軍の大敗に終ったとされ、戦いの後、武田軍は南進して犀ヶ崖[map 7]に布陣したが浜松城は攻めずに刑部[map 8]に宿営した[47]。刑部に逗留したのは信玄の病気の手当てのためで、先年の堀川城攻めで家康を憎んでいた刑部の住民は武田軍を歓待したといわれている[47]。
翌元亀4年(1573年)1月に武田軍は姫街道を西進、三ケ日から北進して宇利峠を越えて三河に入り、野田城を攻めたとされている(野田城の戦い)[3][47]。
関所と新宿の設置[編集]
戦国時代末期には、街道周辺に井伊、堀川、浜名氏などの有力大名が拠点をおいていたことから、交通の要衝となっていたとみられ、天正年間(1573年-1592年)以前に、本坂に関が設けられていた[48]。
天正15年(1587年)6月に、本多作左衛門が道沿いの要所に新宿を設け、これによって近世の姫街道が整備され、人馬の継ぎ立ても充実した[1][49]。
宿駅の制と気賀関所の設置[編集]
慶長6年(1601年)に、江戸幕府は東海道宿駅の制を定めた[1]。気賀関所 (2016a )によると、このとき本坂越は東海道本坂越と名付けられた。
慶長9年(1605年)には、慶長地震による津波で浜名湖南岸が被害を受けた[50]。
この頃、街道の監視のため、気賀に関所が設けられた(気賀関所)[51]。設置時期については、「斉藤家文書」により、慶長6年(1601年)に宿駅の制が定められたときに設置されたとする説が一般的とされているが[52]、気賀の「白井家文書」により、慶長地震よりも後の、慶長17年(1612年)に設置されたとする説、慶安2年(1649年)の「気賀関所茅葺御修復の書付」により慶長から元和元年(1615年)の間に設置されたとする説もある[51]。浜松市役所 (1971 180)では、設置年代不明としている。
慶長15年(1610年)に、江戸幕府から本坂通の気賀宿に『伝馬駄賃掟書』が発給され[20]、宿場に伝馬が置かれ、人馬の継立が行なわれた[53]。市野宿には、寛永16年(1639年)閏11月以前に伝馬が置かれた[54]。また、年月不明で、野地[55]に将軍が上洛する時の休憩施設である「御殿」が設置された[56][57]。
17世紀を通して、浜名湖南岸を通る東海道の本道が整備され、今切の渡船が定着するに連れて、本坂通を利用する「大通行」は減少していったとみられている[58]。
池田近道[編集]
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江戸時代の初期には、東海道の浜松宿‐見付宿間にあった天竜川の東岸の渡船場は、長森[map 9]にあったが、次第に北上して寛文元年(1661年)頃には池田村[map 3]の地内にあった池田の渡しに移されていた[59][60]。旅人は、見付宿から南下して中泉村[map 10]へ至り、西進した後、長森から再び池田へ北上する東海道の本道よりも、見付から直接西へ向かい、池田へ抜ける近道(作場道、池田近道)をよく利用していた[61][62][63]。道中奉行は池田近道の入口に往来禁止の制札を立てたが、往来は止まなかったという[61][63]。
延宝8年(1680年)に本道が高潮被害にあった[64]。
貞亨元年(1685年)頃の池田近道は田んぼの中を通るような小道で、馬は通らなかったとされている[65]。『東海道中膝栗毛』では、徒歩の弥次郎兵衛は通行禁止の立て札が立てられている池田近道を通り、馬で東海道の本道を移動した喜多八と池田の渡しで合流している[66][63]。
安永4年(1775年)頃までに、池田近道沿いの一言村(磐田市一言)には、浜松・見付両宿と池田村が何度か橋を架設し、有料で旅人を通行させて、代官から度々咎め立てられていた[67]。
池田の対岸は富田村(浜松市東区白鳥町)で、南に下って中野町村[map 11]を通り安間新田まで東海道の本道を通るルートと、富田から西北に進み市野に出るルートがあったが、直接市野へ出る方が近道なので、池田近道と同じように利用者が多かった[63][68]。
天竜川が洪水になり、流域が水に浸って東海道が通行できなくなったときには、池田と市野は土地が高いところにあったため島のようになり、磐田原[44]西端の大乗院坂(1997年現在の磐田西高校[map 12]の西南)から池田、池田から天竜川を横切って富田、富田から市野へ仮渡船が運航され、旅人はこれに乗って旅を続けた[63]。
宝永地震津波と本坂道の利用[編集]
元禄12年(1699年)の暴風雨による高潮被害により、新居関所は2年後にそれまでより西側に移転し、舞坂宿と荒井宿を結ぶ今切の渡しは従来の27町から1里に約4キロメートル長い航路になった[69][70][64]。
更に宝永4年(1707年)の宝永地震では、3度の津波によって移転後間もない新居の関所が流され、4-5日間渡海が出来なくなるなど、浜名湖南岸は壊滅的な打撃を受けた[1][71][40][72]。翌宝永5年(1708年)4月に今切口の修復と新居宿の再移転は完了したが[58]、浜名湖の湖口が広がって渡海が不便になったことと、また「法螺でない荒井の津波路」と謳われたように[73]、波が荒くなり渡船に危険がともなった時期があったこと[74]、旅人の今切渡船に対する危険性の認識が容易に払拭されなかったことから[71]、本街道を避けて、被害の少なかった姫街道の本坂越を利用する旅人が多くなった[71][70][73][74]。
地震の後、本道が通行可能となっても本坂越の通行量が減らなかったため、街道の使役に駆り出される本坂道周辺の農民は、災害の復旧もままならず、農作業にも支障が出て対応に苦慮し[75][76][58]、大名の通行禁止を訴えた[40]。他方で、東海道筋の宿場は、通行人が減り、宿泊や荷物輸送の収入がなくなって復興が進まなかったため、宝永6年(1709年)3月に、浜松・舞阪・新居・白須賀・二川・吉田の6宿で、宿場再建の助成と大名の本坂越通行禁止を嘆願した[75][77][70][78][74]。
翌宝永7年(1710年)2月にも浜松宿など4宿が大名の本街道利用を嘆願した[79]。同年3月に幕府は、幕府の役人が新居を通行するようにすれば、諸大名も新居を利用するだろう、として、本坂越禁止の通達を出したが、風雨などで渡り難いときはその限りではないとしていて[80]、あまり効果がなかった[1][78]。
享保2年(1717年)11月になって幕府は全面的な本坂越停止令を出した[70][78][74]。幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻したとされるが[81]、それでも本坂道の往来は止まず、翌享保3年(1718年)には吉宗の母・浄円院が和歌山から江戸へ行く際に本坂越をしている[82][74]。浄円院が本坂通を通行した際には、気賀の落合川に船橋が架けられた[83]。
享保11年(1726年)にも、幕府は、本坂通禁止の原則は維持しながらも、風雨や急病のため渡海が難しい事態が生じた場合は別扱いとしており[84]、通行禁止はなかなか徹底しなかった[85]。
象鳴き坂[編集]
享保14年(1729年)には、長崎から江戸まで陸路で運ばれた「享保の象」[86]が本坂通を通行した[87][88][89]。象は気賀本陣の中村家に作られた象小屋に泊まり、翌日落合川を渡るのに、船を2艘並べて渡そうとしたが象が重すぎて失敗したため、上流に回って浅瀬を自力で渡り、金指・祝田・三方ヶ原を通って浜松へ向かった[90]。引佐峠の西側の斜面には、急坂のため象が鳴き声を上げたという「象鳴き坂」の名が残っている[83][89]。
豊川稲荷[編集]
宝暦年間(1750年頃)に、豊川の妙厳寺の境内にあった小さな稲荷神社に牛久保の西島稲荷が婿入りしてきたとの噂が立って人気を集め(豊川稲荷)[map 13]、全国に信者が増えて、それまでさびれる一方だった姫街道を含む豊川への街道筋に人通りが戻り、豊川には門前町が形成された[91]。
道中奉行の管轄下入り[編集]
明和元年(1764年)9月に、幕府は、本坂通を道中奉行の管轄とし、本坂通は東海道に付属する街道と位置付けられた[58][92][93][94]。これにより、参勤交代等の公的交通で、東海道を利用すべきとされている場合でも、病気などの特別の事情がある場合には、幕府へ届け出れば本坂通を利用してもよい、とされた[58]。東海道の付属の街道とされた理由について、小杉 (1997 179)は、宝永地震の後で本坂道の交通量が増え、東海道のバイパスの必要性が強く意識されたため、としている。なお、このとき本坂通とされたのは、浜松宿(追手門前の高札場)で東海道の本道から姫街道に入り、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿を経て御油宿に至る道筋である[95][96]。
市野宿の衰退[編集]
市野宿はもともと市場として栄えた場所で、本坂越の旅人が増えると宿場として取次ぎを行なうようになり、江戸時代の初期には本陣・陣屋もあり人馬の継ぎ立てを行なっていた[97]。
その後、市野の経済圏は浜松宿や市野の東北にあった笠井の市に奪われていき、また初代遠州代官であった市野惣太夫が没落したこと、宝永の大地震で本坂道の通行量が増え一時的に賑わいを取り戻した時期もあったが、却って宿泊や荷物の運搬にかかる人件費がかさんで収支を悪化させたこと[98]、天竜川の洪水で被害を受けたこと、浜松宿への助郷を命じられたことなどから衰退し、明和元年(1764年)に本坂通しが幕府の道中奉行の管轄となった際に、浜松宿から気賀に向かう経路が公認されると交通量が激減し、伝馬屋敷の数は初期には36件あったが、中期には20軒ほどになり、安間から市野を経て三方ヶ原追分に至る経路は「潰れ往還」になった、といわれた[97]。
その後も、鳳来寺や方広寺、竜潭寺、旗本の近藤氏などの関係者は市野宿を通行し、その際は市野の斎藤家が本陣的な役割を果した[97][99]。なお、文化9年(1812年)には火災により市野宿の約12軒が焼損している[100]。
お蔭参りと本坂通[編集]
享保15年(1730年)にお蔭参りが流行したときには、都田村では、女中たちの抜け参り[101]が多かったため、気賀関所の命令を受けて、見張人を街道に沿う村の山へ毎日出したが、それでも抜け参りは絶えなかったとされる[102]。
文政13年(1830年)に浜名湖北岸の気賀・三ケ日方面からお蔭参りが流行し、浜松方面にも波及した際には、多くの人が本坂通を利用した[103]。
幕末には将軍・徳川家定の正室となった篤姫が本坂通を通行した[83]。
近代[編集]
関所と宿駅制度の廃止[編集]
明治2年(1869年)に、明治新政府の関所廃止令により諸国の関所は全廃され[104]、気賀関所も閉所した[1]。
明治5年(1872年)1月には、太政官布告第10号により、東海道の宿駅伝馬所が廃止された[105]。
山中を通っていた(旧)姫街道は、明治・大正時代の県道等の整備に伴い、通行量が減り、さびれていった[75]。
「姫街道鉄道」計画[編集]
明治22年(1889年)7月までに、東海道線の東京‐神戸間が全線開通した[106]。輸送・旅行はほとんど鉄道に依拠するようになり、道路としての東海道は長距離輸送に果していた役割を終えてローカルなものに変質、駅周辺に中心街が移っていった[106]。
明治29年(1896年)には、「姫街道鉄道」の起業が計画され、浜松の官線停車場(現・東海道線浜松駅)から市野、有玉、小松、三方原、中川を通り、気賀、三ヶ日、宇利峠を越え、豊川に出て御油駅にいたる経路が予定されていたが、実現しなかった[107]。
新姫街道[編集]
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1879年(明治12年)に、静岡県議会で、旧来の姫街道は県費支弁を受けられる道路に指定されたが、修理などは行なわれず、一里塚や松並木は荒れるに任されていた[108][109]。
明治に入ってから、山合いを通り、引佐峠を越えていた旧街道[110]とは別に、気賀から三ケ日までの湖畔沿いに10キロメートル余りの道路が新設され、新姫街道と呼ばれた[111][112]。旧街道は地元の農家が農作業に行く際に通る程度の通行量となっていた[113]。
1919年(大正8年)に浜松の神明交差点から三方ヶ原を経て気賀を終点とする静岡県道静岡気賀線が「新姫街道」に指定された[108]。気賀から三方原追分にかけての三方原付近の旧姫街道の両側には土手と松並木があったが、新旧姫街道は同一路線に造られ、道幅を拡げるために東側の松並木が取り払われ、西側の松並木だけが残された[114]。
1929年(昭和4年)から高町‐飛行隊間の姫街道の改良工事が行なわれ、1931年には高町にあった曳馬坂と呼ばれた坂に石畳が敷かれて勾配が緩やかになり[115]、歩兵第67連隊が設置されると幅員が拡張され、1935年(昭和10年)に犀ヶ崖[map 7]の旧道の東側が埋め立てられて新道が敷かれた[116]。
1963年当時、気賀の姫街道は近く幅員を拡張する予定とされ、古い街道が幅4メートル足らずだったのを倍近くに広げることから、気賀関所の建物は存亡の岐路に立たされているとされている[117]。
(いつ?)御油宿から少し東へ進んだ辺りから、姫街道は幅員を広げた「新姫街道」に拡張され、豊川を鉄橋で渡るようになった[118]。豊川から先、本坂山までは、新姫街道は旧道とほぼ同じ経路をとっていた[119]。
1937年に(出典?)豊川に海軍工廠ができると、豊川の町は急速に拡大した[119]。戦後海軍工廠がなくなった後も、豊川稲荷の人気により新姫街道は豊川への街道筋として利用されている[119]。
新姫街道は、静岡県・愛知県境にある本坂峠の旧道の下をトンネルで通過するようになった(旧本坂トンネル)[120]。
姫街道を守る会[編集]
1965年(昭和40年)に、御油から見付までの姫街道通過6市町村の有志によって「姫街道を守る会」が結成された[75]。
1972年7月には、「姫街道を守る会」の会員約40名が、本坂峠で、約半世紀間不通の状態となっていた本坂道(旧姫街道)を復元するための踏査を行い、鏡岩の所在や、植物学上貴重とされた椿の原生群落地帯、復元のため修繕補修を要する箇所を確認した[121]。
史跡指定[編集]
1980年(昭和55年)には、文化庁の補助による「歴史の道」調査事業(昭和54年度事業)の一環として、静岡県の教育委員会により姫街道に関する調査報告書[122]がまとめられ[123][124]、その後改訂版も出版されて、重要な歴史研究資料となっている[125]。
1996年に文化庁が古道の保存と活用をはかるため「歴史の道百選」を発表し、本坂通の西気賀から引佐峠(静岡県細江町)、本坂峠を経て当古(愛知県豊橋市~豊川市)に至る区間要出典が「歴史の道」に選定された[125]。
江戸時代の経路と宿駅[編集]
経路[編集]
姫街道には、静岡県側に3つ、愛知県側に2つのルートがあったとされる[126]。
静岡県側のルートは、
- 東海道の安間新田にあった一里塚(安間の一里塚)を起点として、市野を通り、気賀に至るルート
- 浜松城大手門前の高札から西北に進み、三方原追分で第1のルートと合流するルート
- 見付宿から西へ向かい、池田の渡しで天竜川を渡り、富田村(浜松市東区白鳥町)から下石田村に出て市野へ向かうルート(池田近道)
の3つで、第1のルートは江戸時代初期から幕府の正式な街道として認められ、『東海道巡覧』[127]や『東海道名所図会』にもこのルートが記されている(表1参照)[128][129]。明和元年(1764年)に幕府の道中奉行の支配となってからは、第2のルートが正式な本坂道となった[128]。
愛知県側のルートは、
- 嵩山から真西の御油へ向かうルート
- 嵩山から吉田(豊橋)に出るルート
の2つがあった[128]。
宿場 | 距離 | 備考 |
御油 | 御油の「かけま」から | |
嵩山 | 御油より4里 | 渡船あり |
三ヶ日 | 嵩山より2.5里 | 山路 |
気賀 | 三ヶ日より3里 | 関所あり |
茅場(かやんば)[130] | 気賀より4里 | 本街道、浜松より1里 |
全行程 | 13.5里[131] |
出典:秋里 (1910 45)、浅井 (1948 99-100)および小杉 (1997 176)により作成。
見付から御油に至るルートは、見付から池田の渡しで天竜川を渡り、市野宿、気賀宿、三ヶ日宿を経由して、本坂峠[132]を越え、嵩山(すせ)宿を経由して、当古の渡しで豊川を渡り、御油(ごゆ)宿で東海道に合流する[1][61][133]。静岡県側では細江町から三ヶ日町にかけて引佐峠[134]を含む低い丘を5-6つ越え、本坂山の急な坂道を越えていく起伏のあるルートだった[135]。
道程は、御油から見付までが15里14町(約63キロメートル)[136][137]、安間の一里塚から御油までは13.5里(約54キロメートル)あった[128]。東海道の本道よりも約20キロメートル長かった[135]。
旧姫街道の道幅は9尺(2メートル強)で、坂道の石畳や松並木も全線に渡って整備されたわけではなく、もともと交通量の少ない補助道路だったため、旅人の監視は本街道並みに厳格でも、設備は大分簡略化されていた[138]。
また山・坂・峠越えが多い街道だったため、物資の輸送には不向きであり、愛知県側では江戸時代後期には本坂通よりも吉田から船で豊川を遡上して一鍬田村(新城市)で荷揚げし、宇利峠を越えて三ヶ日宿まで運ぶルートが多く利用され、また静岡県側では、関所の取締りにより原則船運が禁止されていた浜名湖で、これに違反する船運が活発に行なわれていた、とされている[139]。
経路図[編集]
江戸時代の姫街道の経路を描いた絵図はいくつかあり、下記に挙げた絵図のほか、「本坂街道絵図」や東海道の種々の道中絵巻にも描かれている[126]。
本坂通分間延絵図[編集]
江戸幕府の道中奉行所が寛政年間に製作し、文化3年(1806年)に完成した1,800分の1の縮尺図「五街道其外分間見取延絵図」のうちの「本坂道分間延絵図(控)」[140]には、浜松から御油に至るルートが詳細に描かれている、とされているが[141][126]、1997年当時、逓信博物館が所蔵しているものの非公開で、公刊されていないため閲覧できないとされており[126]、2010年当時は郵政資料館のみに現存している、とされている[142]。
2011年10月に豊橋市二川宿本陣資料館で開催された「歴史の道 姫街道展」では本図の写真が展示された[83]。
本坂道三方原回路図[編集]
豊橋市美術博物館所蔵[126][143]の「本坂道三方原回路図」[144]は、江戸後期の手書き彩色の絵図で、吉田(豊橋)から長楽へ出て、本坂峠へ向かうルートが描かれている[145]。
本坂道絵図[編集]
細江町の個人所蔵の「本坂道絵図」には、静岡県側の一里塚や寺社、本陣などが描かれている[126]。
宿場町[編集]
- 見附宿(東海道に接続)
- |
- 天竜川(池田の渡し)
- ┣安間の一里塚(東海道に接続)
- 市野宿
- ┣浜松宿(東海道に接続)
- 気賀宿
- |
- 三ケ日宿
- |
- 本坂峠
- |
- 嵩山宿
- ┣吉田宿(東海道に接続)
- 豊川(当古の渡し)
- |
- 御油宿(東海道に接続)
出典:気賀関所 (2016a )により作成。
本坂通宿村大概帳[編集]
「本坂通宿村大概帳」は、天保から安政年代(1830-50年代)にかけて、江戸幕府の道中奉行所が5街道やその脇道の各宿駅と街道筋の村落の状況[146]を調査してまとめた「宿村大概帳」のうち、本坂通の状況についてまとめた資料で、道中奉行所によって使用されたとみられており、近世史研究の貴重な資料となっている[147]。
一里塚[編集]
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一里塚は、1里ごとに道の両側に塚を築き、榎を植えて旅人の便に供したものだったが、1971年現在、浜松宿の近郷で往時の姿をとどめているのは三方ヶ原追分に近い道側に1基が残っているのみ、とされている[148]。姫街道の一里塚は表3の通り。
名称 | 日本橋よりの距離 | 北 | 南 |
小池 | 65里 | 小池一里山1952 | 一里山135 |
追分 | 66里 | 三方原築山現存 | 追分円塚現存 |
東大山 | 67里 | 三方原大窪現存 | 和地村東大山現存 |
老ヶ谷 | 68里 | 中川村新谷 | 気賀町老ヶ谷 |
葭本西[149] | 69里 | 下気賀9355 | 気賀山田 |
大谷[150] | 70里 | 東浜名村東山768 | 都筑北東20丁 |
三ヶ日[151] | 71里 | 西浜名村避病舎北 | 西浜名村避病舎 |
本坂 | 72里 | 西浜名村本坂323 | 新旧道路の中間 |
嵩山 | 73里 | 豊橋市嵩山町字浅間下80-1[152][153] | |
長楽[154] | 74里 | ||
三橋[155] | 75里 | ||
諏訪[156] | 76里 |
出典:小池‐本坂は浜松市役所 (1971 184)の「西遠地方一里塚表(『静岡県史蹟名勝天然記念物調査報告』による)」、嵩山‐御油は気賀関所 (2016a )および小杉 (1997 182)による。
構成路線名[編集]
2003年現在、姫街道(旧姫街道)は、各地で都市化が進み、道路拡張などにより寸断されるなどしているが、地元住民の努力によって復元されている箇所もあり、特に浜松市西北部の細江町・三ヶ日町では昔の街道の面影が残っている、とされている[157]。
- 県道261号線 - 見附宿から市野宿、三方原追分[map 14]を経て、気賀宿まで
- 県道314号線 - 安間の一里塚[map 15]から市野宿まで
- 国道257号線 - 浜松宿[map 16]から三方原追分まで
- 県道5号線 - 御油宿から豊川の西岸まで
- 国道362号線 - 豊川の西岸から嵩山宿、本坂トンネル、三ケ日宿を経て、気賀宿まで
- 不明 ‐ 東海道吉田宿から北上して御油宿と嵩山宿の間にある長楽一里塚の東側[map 17]まで[1]。
呼称の由来[編集]
「姫街道」の呼称の由来については諸説あり、渡辺 (2012 20)は、1929年-1938年(昭和4年-昭和13年)にかけて、大山敷太郎、白柳秀湖および内田旭の間で「姫街道論争」が展開された、としている。
時期[編集]
「姫街道」の呼称が定着した時期について、気賀関所 (2016a )は、宝永4年(1707年)の地震の後、本坂越を利用する公家の奥方や姫君・女中衆が増えたことによるとし、楠戸 2006 76は、18世紀初めの享保の頃から、誰がいうともなく「姫街道」と呼ばれるようになった、としている。また白柳秀湖による「江戸初期から」、内田旭による「平安時代初期から」などの主張もあった[20]。
しかし、万治元年(1658年)の『東海道名所記』や寛政9年(1796年)の『東海道名所図絵』、1802年の『東海道中膝栗毛』などでは、「本坂越」、「本坂道」、「二見の道」などの名称が用いられていて[158]、江戸時代の公文書に「姫街道」の呼称はみられない[75]。
江戸時代末期になって、民間文書に姫の名を冠した呼称が登場するため[75][159]、「姫街道」の呼称はこの頃に定着したとみられている[159][135]。渡辺 (2012 20)は、幕末の文書・記録に記載があるためこの点は決着済み、としている。
- 安政元年(1854年)の大地震の後には、浜名湖の今切の渡しが停止して東海道の交通が麻痺したため、大名も本坂道へ迂回し、本坂越の交通量が増加した[160]。翌安政2年(1855年)に山形県から母を伴って善光寺や伊勢神宮に参詣し、全国各地を半年かけて旅行した清河八郎は、旅日記『西遊草』[161]の浜名郡三ケ日の項に、「此所は秋葉山へ往来の宿にて、往来もややあり。且昨年よりして大名も新井を通らず、まま此処より上下するありとぞ。すべて御姫様海道と名づけて、格別難儀にもあらざる道なり。」として、本坂越が「御姫様海道」と呼ばれており、40歳の母を連れた清河にとっても「特に大変な道でもなかった」と記している[162]。
- 『浜松市史』第2巻は、安政3年(1856年)の絵図では、浜松宿から三方原追分に至る道を「姫街道」、安間一里塚から市野を経て三方原追分に至る道を「市野道」と記していた、としているが[163]、この絵図は行方不明で未確認とされている[164]。
- 万延元年(1860年)に五雲亭貞秀が描いた『東海道五十三次勝景』の中に「東海道五十三次之内浜松順路並姫街道木賀遠望」と題した浮世絵があり、同じ頃作成された「秋葉山参詣道程図」にも「姫様街道」と記載があることから、この頃には「姫街道」の呼称が定着していたとみられている[165]。
1889年(明治22年)に発行の大日本帝国陸地測量部の2万分の1地図では、「姫街道」の呼称が使用された[107]。
1907年(明治40年)の『大日本地名辞書』[166]では、近世「姫街道」といわれるようになった、とされている[11]。
1972年(昭和47年)には、「本坂道」よりも「姫街道」の呼称の方が有名になっている、とされている[135]。
理由[編集]
「姫街道」と呼ばれるようになった理由については、
- (説1)江戸時代、新居(今切)の関所を避けた女性が本坂越を選んだためで、女性が新居を避けた理由については、
- (説1-1)新居関所の女性に対する取締りが厳しかった(入り鉄砲に出女の詮議が厳しかった)ため
- (説1-2)新居‐舞阪の海がよく荒れ、女性が渡海を怖がったため
- (説1-3)「今切」が「縁切れ」に通ずるため縁起が悪く、不吉な感じを与えるから
- (説2)古代から中世にかけて栄えた街道のため「古い街道」という意味で「鄙(ひね)街道」と呼ばれていたのが「姫」(ひめ)に転訛した、とする説[167][169][17][171]、
- (説3)「姫」は愛宕山を真っ直ぐに登る表坂を「男坂」と呼び、遠回りではあるが傾斜の緩い脇坂を「女坂」と呼ぶように、本街道の半分の規格で造られた脇道を「女道」「姫道」として「姫街道」と呼ぶようになった、あるいは「大きい」本街道との対比において「小さい」脇道を美称して「姫街道」と呼んだとする説[20][169][171]、
- (説4)本坂峠の麓で父の墓守をしていた橘逸勢の娘の妙冲や、平宗盛の寵愛を振り切って天竜川畔で余生を過ごした熊野御前、近くは8代将軍吉宗の母・浄円院が大勢の人足を引き連れて通行したことなど、女性のイメージが強く残る街道だったため、特に「姫」の名で呼ばれたとする説もある[169]。
説1 女性がよく通行したから説[編集]
内藤 (1972 128-129,134)は、姫街道は起伏が激しく、また道程が東海道の本道より20キロメートルも長く、「姫街道」という名称から連想されるような、女性が選んで通りたがるような生易しい街道ではなかった、として、(説1-1)や(説1-3)の傾向があったにしても、何のためにわざわざ本道よりも悪条件の本坂道を選んだのか理解に苦しむとして、(説1)そのものを疑わしいとしている。
『気賀宿文書』によると、宝永5年(1708年)から寛政7年(1794年)までの80余年の間に「姫様」と呼ばれるような身分の女性が通行した人数は22人で、平均4年に1人程度だった(ので、頻繁に「姫様」が通行していたわけではない)とされている[172]。
楠戸 (2006 76)およびみわ (2003 178)は(説1-1)および(説1-2)を呼称の由来として挙げている。大山敷太郎は、(説1-1)‐(説1-3)を挙げた上で(説1-3)が正しいとし、白柳秀湖は(説1-1)が正しいと主張、内田旭は(説1)を全て否定した[20]。
渡辺 (2012 21)は、特に女性の利用が多かったかを解明することは宿帳などが残っていない状況からして困難だが、抜け参りの人々が本坂通を多く利用したことは間違いない、とし、事例として文政13年(1830年)にお蔭参りが流行した際に、本坂通が多く利用され、後に「気賀関所との関係で」問題になった、としている。同書では、東海道の本道の今切関所に対して「畏怖の念」を示す意味で、脇道の本坂通を利用したのだろう、としている。
説1-1 新居関所の取調べ忌避説[編集]
浅井 (2001 100-101)は、徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われ、「入鉄砲出女」の取り締まりは厳しく、東海道の今切関所は、特に女性に対して取り調べが厳しいことで有名だった、としている。渡辺 (2000 47)は、これに加えて、今切関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても所定の女手形を必要とした点を指摘し、小杉 (1997 173)は、関所破りは極刑という掟があったことを指摘している。
内藤 (1972 134)は、新居の関所には「改め婆」と呼ばれる、局部を視認して性別を改めるという風評もあり、女性の旅行者には敬遠されたのかもしれない、としながらも、旅人監視の厳しさでは、姫街道にも気賀関があり、本街道の新居関と差異はなかったのではないか、としている。大山敷太郎は、女性が今切関所を避けて本坂通を通行したものの、気賀関所の検閲も厳重だったとしたとされ[20]、渡辺 (2012 20)は大山の説を概ね支持するが、女性が東海道の本道を避けた理由は多様だった、としている。
小杉 (1997 171-172)は、新井の裏関所である気賀関所の取り調べも厳しかったという反論があることに言及し、浜松市役所 (1971 180)は、気賀関所の取り締まりは今切関所と何も変らなかった、としている。
小杉 (1997 172-175)は、もともと気賀関所の取調べは厳重であったが、江戸時代後期になると、幹線道路以外では関所の取調べがかなり緩やかになっており、関所手形を取得しにくい女性が通行する際に、関所破りをする例があったことを指摘している。例として、前出の清河八郎『西遊草』では、関所手形を持たない母と同道したために関所破りを繰り返しており、新潟県・長野県境にある関川の番所では最寄の宿に一泊した後、夜明け前に宿屋の手引きで関所破りをし、善光寺から名古屋へ行く際には福島関所がある中山道を避けて伊那街道を迂回して同街道を女性の取締りが緩やかな「女人道」と表現、飯田から中山道の木曾妻籠に出るときには清内路道の脇道である市之瀬番所を「女性を通さない関所だから」として関所の脇道を通過し、東海道では新居関所を避けて「御姫様海道」を来たものの、気賀にも関所があり「女中も容易に通さない」と聞いて、三ヶ日から舟を雇い、夜中に舟に乗って呉松へ渡る関所破りをしていた[173]。他にも夜中に浜名湖を個人が舟で渡り、気賀の関所を破っている例がある[173]。
白柳秀湖は、気賀関所には「犬潜り道」があり、検閲に手心が加えられていた、としている[20]。
説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説[編集]
内藤 (1972 134)は、道程でいえば姫街道は本街道よりも20キロメートルも長くなり、本坂峠の急峻な坂道や静岡側の気賀までの間にある低い丘をいくつも越えなければならず、加えて山道には追いはぎや強盗が出没する不安もあったため、船渡しがあっても路面が平坦な本街道のほうが通行しやすく、道中の不安も少なかったのではないか、としている。
- 内山真龍の『遠江国風土記伝』[174]は「嶺頭少しく平なり、駕を休むる所、嶺頭に人家なく、駅路の人馬寒暑に苦しむ」として本坂越えの苛酷さを記し、新居関所の関守をしていた富永政愈の『今切御関所由来』では「本坂越は道狭く坂けわしくて箱根、笛吹峠より難く、恰も蜀難の地の如し、一度往く者は二度越えんことを思わず」と記されている[175]。
浜松市役所 (1971 180)は、今切渡船については「鳶も舞坂、天気(日和)も静か、名のみ荒井の 舟渡し」という諺があるほど普段は穏やかだったので、女性・子供でも特に不安はなかったはずだ、とし、小杉 (1997 171-172)もこの反論に言及している。
気賀関所 (2016a )は、宝永4年(1707年)の地震の後、浜名湖南岸を迂回するため本坂越の通行量が増加、幕府は宝永7年(1710年)に大名の本坂越を禁止したが、公家の奥方や姫君・女中衆はこの街道を使用し続けたことから、本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれた、としている。
小杉 (1997 174-175)では、(説4)および(説1-1)を幕末に「女人道」や「女街道」の呼び名が生まれた由来としながらも、特に「姫街道」「姫様街道」のように呼ばれた理由としては、関所手形を持っているため関所を忌避する必要のない身分の高い女性が本坂道を利用した理由があったはずだとし、『本坂道宿村大概帳』の中で「京都から姫や宮方が江戸に行く時は気賀や三ヶ日、嵩山などの宿場で人馬が不足するから、加助郷の触書を出さなくてはならない」として特に「姫や宮方」が本坂道を通ることを強調していることを指摘し、その理由は渡海を忌避したことにあったのではないか、としている。同書はその例として、文政元年(1818年)の菅沼斐雄[176]『袖くらべ』の中に、「香川景樹が舟を嫌うから荒井の渡しを避けて本街道より5里も遠回りになるけれど本坂越という山道を行く」旨の記載があることや、『東海道名所図会』の御油の項で本坂越が「荒井今切の海上を渡らずして陸路を行」く路と紹介されていることを挙げ、前出の清河八郎『西遊草』の記述もあり、渡海への不安に比べて、本坂越はさほど困難な峠道ではなかった、としている。
説1-3 「今切」呼称忌避説[編集]
内藤 (1972 134-135)は、「今切」の語が縁起が悪いという話は、若い女性の旅行者には多少影響があったのかもしれないが、もともと若い女性の通行量は絶対数が少なく、数の割にはという印象から、冗談ぽく「姫街道」のあだ名が生まれたのかもしれない、としている。
浜松市役所 (1971 180)は、強いていえばこの説が最も当を得ているのではないか、としている。
小杉 (1997 171-172)は、近世になって急に忌むようになったというのはおかしい、との反論がある、としている。
説2 「鄙(ひね)街道」転訛説[編集]
内藤 (1972 135)は、東海道の表街道を「新しい」街道として、これに対応する「古い」街道を「ひね街道」と呼ぶのであれば、気賀から森町、掛川に至る山手寄りのかつての「二見の道」の古道筋を呼んだはずだが、湖北以外の遠州地方には「ひね街道」という呼び方が全く残っていないため、湖北だけに古道筋を「ひね」と呼ぶ呼び方が残ったとするのはおかしい、としている。
小杉 (1997 171-172)は、「姫」のイメージと「古い」というイメージが大きく異なり、また「姫様街道」のような呼称も見られることから、「ひね」からの転訛ではないだろう、としている。
大林 (2003 104)は、『豊橋市史』が(説2)をとっていることを紹介し、『吾妻鏡』などからは、中世まで、平地にある見通しのよい平坦な道は危険度が高いと考えられており、山沿いや山の中を選んで通っていたことが伺われることから、近世以降、平坦な道が選ばれるようになり、街道の概念が変化したときに、古い道、「ひね街道」とされたのではないか、としている。
渡辺 (2012 21)は、17世紀を通じて、東海道の本道に「主要な大通行」が移っていき、本坂通の通行量が減って「鄙びた街道」となり、「鄙街道」と呼ばれていたのが「姫街道」に転訛したとする説もあるが、考えすぎだろう、としている。
説3 「男・大」街道との対比での「女・小」街道説[編集]
内藤 (1972 135)は、(説3)は明快で筋の通った説明だが、その割には江戸時代の道中記には全く現れないため、地域的な通称が一般化したものではないか、としている。
小杉 (1997 171-172)は、男と女、剛と柔の発想が最も妥当かもしれない、とし、小杉 (1997 174-175)では、(説1-1)との関連から、幕末には幕府の権威が衰えて支配力は弱まったが、主要な関所の機能は存続していたため、特に手形がなければ関所を通過できない女性が、関所を避けたり、抜けたりできそうな脇道を選ぶことが多くなり、関所を通らずに済む脇道を「女人道」や「女街道」と呼ぶようになったのだろう、としている。
なお、「姫街道」という名前で呼ばれる道は各地にあり、中山道の碓氷峠の関所を避ける下仁田道(下仁田街道)は「姫街道」「女街道」、長野県松本市と新潟県糸魚川市を結ぶ千国道(千国街道)は「姫街道」、岐阜県の東海道の付属の街道である美濃道も「姫街道」と呼ばれていた、とされている[83][107]。また宮川 (2012 92)は、愛知県一宮市起にも、近代に尾西地域の織物工場で働く女性たちが通ったことから「姫街道」と呼ばれている小さな道があったらしい、としている。
説4 女性にちなむ伝説由来説[編集]
内田旭は、古代から女性に関係する街道だったことを理由に挙げている[20]。
史跡[編集]
欠間・分岐点の碑[編集]
御油(豊川市国府)の東海道と姫街道の分岐点には、2003年現在、常夜灯が建てられているとされており[177]、1972年当時、古い石碑が立てられていたとされている[178][map 18]。
鷺坂上の芭蕉句碑[編集]
1972年当時、御油から程近く、西明寺の入口近くの姫街道の、かつて「鷺坂」と呼ばれた坂の上[map 19]には芭蕉の句碑が立っていた[179]。
かげろうの わが肩に立つ 紙子[180]かな
– 松尾芭蕉 姫街道の御油・鷺坂上に立つ句碑より[179]
月ヶ谷城跡[編集]
月ヶ谷城(わちがやじょう) : 西郷局(愛)を出した三河西郷氏が戦国時代にこの街道を支配するため築城。江戸時代には既に城ではない。愛知県豊橋市嵩山町字山軍場。要出典
嵩山一里塚[編集]
嵩山一里塚は、道の両側に残っており、どちらも直径10m、高さ2mほどでほぼ円形をしている[181]。2011年当時、豊橋市文化財の指定を目指していたとされ[182]、2012年に西側の塚が豊橋市の史跡に指定された[183][181]。
嵩山の蛇穴[編集]
嵩山の蛇穴は、嵩山から本坂峠への登り口近く[184]にある深さ50メートルほどの鍾乳洞で、縄文前期の洞窟住居跡だったとされている[map 20][185][186]。国の指定史跡となっている[187][152][188]。
鏡岩[編集]
本坂峠の東側には、大きな磨いたような岩が垂直に立っていて、鏡岩(石)と呼ばれており、その下には、椿の原生林が続いている[189][190]。
本坂一里塚[編集]
現存する貴重な一里塚として、1992年(平成4年)に浜松市の指定文化財となった[191][182]。2003年現在、三ヶ日から本坂峠に至る区間は三ヶ日町内で最も保存状態がよく、本坂一里塚は当時の様子をよく残している、とされている[189]。
大谷一里塚から駒場、宇志を経て三ヶ日に至る区間[編集]
大谷一里塚から駒場、宇志を経て三ヶ日に至る区間は、東名高速道路の建設、宅地造成、道路の拡張によって旧姫街道が破壊されてしまい、往時の面影は残っていない[192]。
姫岩[編集]
旧姫街道の静岡県側から引佐峠へ登る途中に、「そこから見る浜名湖の景色が最も美しい」といわれている畳1畳ほどの平たい岩(石)があり、「姫岩(石)」と呼ばれている[192][193][194]。
江戸時代、姫岩近くには茶屋が作られていて「平石御休憩所」と呼ばれており、大名行列が通行するときには近藤家の家臣が出向いて湯茶の接待をしたといわれている[192][193][195]。水は2キロメートル南にあった「殿様井戸」から汲んできていたとされ、1997年当時は「姫様井戸」と呼ばれていた[193]。
1972年当時、姫岩や竈跡は、灌木に埋まり、探さなくては見つからない状態になっていたとされていたが[194]、1997年当時には、石の横に休憩所が設けられており、休憩所の前後には石畳が敷かれている、とされている[196]。
ダイダラボッチの池と薬師堂[編集]
小引佐峠を東から西に越えたところの岩根集落にダイダラボッチの足跡だといわれている「ダイダラボッチの池」と天保6年(1835年)に再建された薬師堂がある[192][197]。薬師堂は小引佐峠を越えてきた旅人の休憩所として使用されていた[192]。
姫街道の松並木[編集]
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1959年に、浜松市中区葵東の三方原追分(元追分)交差点から西区大山町までの約4キロにわたる松並木は同市の指定史跡となった[198]。
1950年代-1960年代には300本以上の松が残っていたが、松くい虫の被害などで年々4,5本ずつ減少したとされ[199]、2014年には240本余り[200]、2015年には206本が残っている[199]。
2008年に浜松市は保存管理計画を策定し、将来的な補植や代替のためにはままつフラワーパークで苗木を育成、2015年に市立葵西小で配布するなどしている[199]。
姫地蔵[編集]
沿道に姫地蔵という史跡がある[201]。
姫様道中[編集]
毎年4月の第1土・日曜に、浜松市北区細江町では、「姫様道中」という祭りが開催されており[202][203]、お姫様に扮した同町の新成人が駕籠に乗り、地元住民扮する侍、奥方、腰元、奴などを従えて都田川堤を練り歩く[204]。
1950年(昭和25年)に、清水自治会長の杉田某が、気賀町の各地域がそれぞれ開催していた祭りを統合して、気賀町全体で大規模な祭りを行なうことを構想し、各地域の自治会長・商工組合の組合長らを集めて実行委員会を組織[205]。
その昔、公家や大名の姫様の行列が通ったという姫街道の故事にちなんで道中行列を再現することになり、祭りの名前を「姫様道中」として、都田川の桜堤[map 21]を練り歩くことにした[205]。
1952年(昭和27年)4月4日-5日、気賀町観光協会が観光事業として第1回「桜まつり姫様道中」を開催[205]。それ以来、姫様道中は56年間毎年開催された[205]。2011年には東日本大震災の影響で開始中止となった[205]。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 愛知県教育委員会 (1989) 愛知県教育委員会文化財課 [ 愛知県歴史の道調査報告書 2 (本坂道) ] 愛知県文化財調査報告書 第57集 愛知県教育委員会 1989-03 JPNO 89044706
- 内山 (1969) 内山真竜 加藤菅根・皆川剛六 [ 遠江国風土記伝 ] 歴史図書社 1969 JPNO 73007570
- 静岡県教育委員会 (1980) 静岡県教育委員会文化課 [ 静岡県歴史の道調査報告書 身延道・本坂通(姫街道) ] 静岡県文化財調査報告書 第21・22集 静岡県教育委員会 1980-03 JPNO 81013884
- 浜松市 (1974) 浜松市 浜松市 [ 浜松市史 ] 名著出版 1974 NDLJP 9536366
- 細江町観光協会 三ヶ日町観光協会 (2014) 細江町観光協会 三ヶ日町観光協会 姫街道‐細江町/三ヶ日町 PDF 2014
- 白柳 (1930) 白柳秀湖 10 名物男 近藤登之助、同縫殿之助 [ 親分子分(侠客編) ] 改訂版 千倉書房 1930 NDLJP 1120077/48 72-82
- 大山 (1929) 大山敷太郞 姫街道の研究、附気賀の関所について 本庄栄治郎 [ 日本交通史の研究 ] 改造社 1929 NDLJP 1464182/166 301-364
- 渡辺 (2005) 渡辺和敏 [ 東海道交通施設と幕藩制社会 ] 愛知大学綜合郷土研究所研究叢書 18 岩田書院 2005 ISBN 4872943678 259-275
座標[編集]
- ↑ 34.8037968 N 137.5112624 E
- ↑ 34.805136 N 137.5106196 E
- ↑ 3.0 3.1 34.736916 N 137.813392 E
- ↑ 34.8132834 N 137.6333188 E
- ↑ 34.8091899 N 137.6470375 E
- ↑ 34.792763 N 137.7022296 E
- ↑ 7.0 7.1 34.7196858 N 137.7183766 E
- ↑ 34.805054 N 137.660381 E
- ↑ 34.72356 N 137.81428 E
- ↑ 34.713388 N 137.851775 E
- ↑ 34.729168 N 137.799713 E
- ↑ 34.7180802 N 137.8411169 E
- ↑ 34.824403 N 137.392321 E
- ↑ 34.763278 N 137.720352 E
- ↑ 34.7274751 N 137.7891307 E
- ↑ 34.708045 N 137.727612 E
- ↑ 34.8053769 N 137.4475565 E
- ↑ 34.840607 N 137.321486 E
- ↑ 34.8394699 N 137.3288545 E
- ↑ 34.7972152 N 137.4765855 E
- ↑ 34.8055874 N 137.6542396 E
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 気賀関所 2016a
- ↑ 楠戸 2006 76
- ↑ 3.0 3.1 3.2 壬生 1994 229
- ↑ 4.0 4.1 内藤 1972 132-133
- ↑ 内藤 1972 130
- ↑ 木下 1976 71。同書では、旅の女の返歌について「独り」と記している。
- ↑ 内藤 1972 130-131。同書では、高市黒人の歌は「別れかねつも」と記している。
- ↑ 内藤 1972 130-131
- ↑ 内藤 1972 129
- ↑ 吉田 (1907) 吉田東伍 吉田東伍 [ 大日本地名辞書 ] 2 中 富山房 1907 NDLJP 2937058/254 2339 (浅井 1948 100)
- ↑ 11.0 11.1 浅井 1948 100
- ↑ 12.0 12.1 12.2 木下 1976 71
- ↑ 内藤 (1972 142-143)。「逸勢遠江国板築駅に行き到り逆旅に終る」(同)
- ↑ 木下 (1976 71)、浜松市役所 (1968 301)からの引用。
- ↑ 15.0 15.1 内藤 1972 142
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 小杉 1997 197
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 壬生 1994 231
- ↑ 内藤 1972 142-144
- ↑ 浜松市役所 1968 301
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 20.6 20.7 20.8 20.9 渡辺 2012 20
- ↑ 21.0 21.1 21.2 大林 2003 104-105
- ↑ 壬生 1994 233
- ↑ 内藤 (1972 144)。『文徳実録』による。
- ↑ 内藤 1972 144
- ↑ 25.0 25.1 25.2 内藤 1972 145
- ↑ 1972年当時、橘神社の神主をしていた人物(内藤 1972 145)。
- ↑ 内藤 1972 144-145
- ↑ 楠戸 (2006 78)では、「旌孝碑」は孝徳天皇を称える碑、とされている。
- ↑ 楠戸 2006 78
- ↑ 30.0 30.1 30.2 内藤 1972 145-146
- ↑ 内藤 1972 146-148
- ↑ 32.0 32.1 本多 2014 167-168
- ↑ 内藤 1972 137-138
- ↑ 秋里 1910 45
- ↑ 秋里 1910 46-47:NDLJP 765194/137
- ↑ 内藤 1972 138-139
- ↑ 37.0 37.1 内藤 1972 146
- ↑ 小杉 1997 177-178、幕末の「高林文書(有玉村高林家諸用記)」(『浜松市史』史料編3収載)による。
- ↑ 39.0 39.1 小杉 1997 177-178
- ↑ 40.0 40.1 40.2 40.3 小杉 1997 178
- ↑ 41.0 41.1 41.2 41.3 内藤 1972 155-159
- ↑ 中部日本新聞社 1963 55
- ↑ 内藤 1972 155,158
- ↑ 44.0 44.1 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『磐田原』 - コトバンク、2016年12月3日閲覧
- ↑ 内藤 1972 169-172
- ↑ 小杉 1997 183
- ↑ 47.0 47.1 47.2 内藤 1972 173
- ↑ 渡辺 2012 20、内山 (1969 10)からの引用として。
- ↑ 楠戸 2006 77
- ↑ 都司 1979 15,16。「当代記」によると、当時100軒ほどあった橋本で70軒が流失した(都司 1979 16)。舞坂や新居宿の被害は橋本より相当軽かったとみられている(同)。
- ↑ 51.0 51.1 気賀関所 2016b
- ↑ 内藤 (1972 159)では、1601年に新居関所と同時に設けられた、としている。
- ↑ 浜松市役所 1971 179
- ↑ 浜松市役所 1971 179-180
- ↑ 浜松市北区三ヶ日町都筑都筑野地
- ↑ 渡辺 2012 21。三井文庫蔵『大日本道中図屏風』には、野地にあった「御殿」が描かれている(同)。
- ↑ 御殿・御茶屋の設置は家康・秀忠・家光の3代にわたる将軍・大御所がしばしば上洛したり、家康の場合駿河から江戸へ下向したりしたことと関係が深く、設置は天正‐慶長期に集中しており、寛永‐元禄頃にほぼ廃止された、といわれている(本多 2014 137)
- ↑ 58.0 58.1 58.2 58.3 58.4 渡辺 2012 21
- ↑ 本多 2014 168
- ↑ 渡辺 2000 127
- ↑ 61.0 61.1 61.2 渡辺 2000 36,126-127
- ↑ 磐田まちづくりネットワーク (2011) 磐田まちづくりネットワーク特定非営利活動法人 磐田のお宝見聞帳 > 歴史 > 86 池田近道(姫街道) 磐田市市民活動センター 2011 [ arch. ] 2016-11-27
- ↑ 63.0 63.1 63.2 63.3 63.4 小杉 1997 180-181
- ↑ 64.0 64.1 都司 1979 15
- ↑ 磐田まちづくりネットワーク 2011 、『豊田町誌 通史編』からの抜粋、出典は貝原益軒「東路記」。
- ↑ 渡辺 2000 36
- ↑ 渡辺 2000 38
- ↑ 本多 (2014 168)および渡辺 (2000 127)では、西岸は中野町村、としている。
- ↑ 本多 2014 169
- ↑ 70.0 70.1 70.2 70.3 松浦 2014 25
- ↑ 71.0 71.1 71.2 本多 2014 179-180
- ↑ 浜松市役所 1971 180-181
- ↑ 73.0 73.1 豊田町 1977 要ページ番号
- ↑ 74.0 74.1 74.2 74.3 74.4 浜松市役所 1971 181
- ↑ 75.0 75.1 75.2 75.3 75.4 75.5 奥浜名湖商工会細江支所 2015a
- ↑ 本多 2014 179
- ↑ 本多 2014 179-180、『新居町史』資料編第2編、38号からの引用として。6宿は、見付宿から市野村、御油宿から嵩山宿への人馬継立てをしないようにしてほしい、と嘆願した(同)。
- ↑ 78.0 78.1 78.2 小杉 1997 178-179
- ↑ 本多 2014 180-181、『新居町史』資料編第2編、39号からの引用として。
- ↑ 本多 2014 180-181、『徳川実紀』第7編、88頁からの引用として。
- ↑ 気賀関所 2016
- ↑ 小杉 1997 179
- ↑ 83.0 83.1 83.2 83.3 83.4 宮川 2012 92
- ↑ 本多 2014 181、『新居町史』資料編第2編、512号からの引用として。
- ↑ 本多 2014 181
- ↑ 享保13年(1728年)6月に、清国の商人・鄭太威によって、牡・牝2頭の象が、当時の将軍・徳川吉宗への献上品として交趾国から長崎に持ち込まれ、牝象は長崎で病死し、牡象は翌享保14年3月から5月にかけて、長崎から江戸までを陸路で移送された(和田 (2012) 和田実 [ 渡来象の旅(例会報告要旨) ] 交通史研究 76 交通史学会 2012-02-24 86-88 NAID 110009986431 、渡辺 2000 179-180、小杉 1997 189-191)
- ↑ 宮川 (2012) 宮川充史 [ 本坂通(姫街道)を歩く(巡見報告) ] 交通史研究 76 交通史学会 2012-02-24 92-93 NAID 110009986433
- ↑ 渡辺 2000 179
- ↑ 89.0 89.1 小杉 1997 189-191
- ↑ 小杉 1997 190
- ↑ 内藤 1972 139-140
- ↑ 渡辺 2000 29-30
- ↑ 浜松市役所 1971 179、『御触書天明集成』による。
- ↑ 五街道には付属する街道があり、東海道には美濃路、佐屋路、本坂通が付属した(武部 1985 4)。渡辺 (2000 29-30)は、「五街道」とは東海道など5幹線およびそれに付属する街道も含んでおり、5つの幹線を「五街道」と呼んでいたというよりは、道中奉行の管轄する街道の道筋を網羅した道筋の総称が「五街道」だった、としている。
- ↑ 渡辺 2000 128
- ↑ 小杉 1997 180
- ↑ 97.0 97.1 97.2 小杉 1997 182
- ↑ 浜松市役所 (1971 181-182)では、宝永地震の後、宝永・正徳年間(1704年-1716年)に浜松宿と市野宿の間に紛争が起き、享保2年(1717年)に幕府が本坂通の通行差留令を出したことによって市野宿は打撃を受けた、としている。
- ↑ 浜松市役所 (1971 181-182)では、市野宿が「潰れ」た後、「宿」としての設備はなくなり、「宿に準じる村方」として人馬継立役を負担することになった、としている。
- ↑ 浜松市役所 1971 181-182
- ↑ 若い男女が親にかくれ、奉公人が主人に無断で群集にまじって参宮をすること(浜松市役所 1971 480)。
- ↑ 浜松市役所 1971 480
- ↑ 渡辺 2000 194
- ↑ 渡辺 2000 223
- ↑ 渡辺 2000 226
- ↑ 106.0 106.1 渡辺 2000 231
- ↑ 107.0 107.1 107.2 小杉 1997 170
- ↑ 108.0 108.1 浜松市役所 1980 268
- ↑ 1893年(明治26年)には旧姫街道は関係町村の申請により県費の補助道路となっている(浜松市役所 1980 268)
- ↑ 宇志、駒場、大谷を経て引佐峠を越え、山田、小森・葭本(合併して跡川)、呉石を経て新道と合流する経路だった(内藤 1972 152-156)。
- ↑ 内藤 1972 152
- ↑ 中部日本新聞社 1963 53-54
- ↑ 中部日本新聞社 1963 54
- ↑ 内藤 1972 167
- ↑ 浜松市役所 1980 509
- ↑ 浜松市役所 1980 268,509
- ↑ 117.0 117.1 中部日本新聞社 1963 53
- ↑ 内藤 1972 136,140
- ↑ 119.0 119.1 119.2 内藤 1972 140
- ↑ 内藤 1972 141
- ↑ 愛知大学綜合郷土研究所 (1973) 愛知大学綜合郷土研究所 研究所彙報 XVIII‐1971.12~1972.11‐ 愛知大学綜合郷土研究所紀要 18 愛知大学綜合郷土研究所 1973-03-15 113-114
- ↑ 静岡県教育委員会 1980
- ↑ 熊井 (1988) 熊井保 [ 資料 「歴史の道」の調査について ] 交通史研究 19 交通史学会 1988-03 46-58 NAID 110009985630
- ↑ 児玉 (1984) 児玉幸多 [ 「歴史の道」の調査 ] 交通史研究 12 交通史学会 1984-12 63-69 NAID 110009985942
- ↑ 125.0 125.1 小杉 1997 198-199
- ↑ 126.0 126.1 126.2 126.3 126.4 126.5 小杉 1997 176-177
- ↑ (1751) 蘆橘堂適志 [ 東海道巡覧記 ] 野田弥兵衛・野田太兵衛 1751 (浅井 1948 99-100)
- ↑ 128.0 128.1 128.2 128.3 小杉 1997 176
- ↑ 明和元年(1764年)以前に描かれた「青山御領分絵図」には、市野を通るルートに一里塚と「本坂道」の記入があり、浜松からのルートにはない(小杉 1997 180)。
- ↑ 安間新田が正しい(小杉 1997 176)
- ↑ 54キロメートル(小杉 1997 176)
- ↑ 標高は、内藤 (1972 141)では400メートルほど、橘 (2012 85)では380メートル、みわ (2003 182)では330メートル、小杉 (1997 195)では326メートルとされている。
- ↑ 内藤 1972 140,141
- ↑ 標高は、179メートル(橘 2012 85)ないし180メートル程(浅井 1948 101)
- ↑ 135.0 135.1 135.2 135.3 内藤 1972 128
- ↑ 気賀関所 2016a では、約60キロメートル、としている。
- ↑ みわ 2003 178では、約58キロメートル、としている。
- ↑ 内藤 1972 156
- ↑ 渡辺 2012 19,21-23
- ↑ 井上 (2010 106)では「本坂道分間延絵図控」、小杉 (1997 176-177)では「本坂通分間延絵図」としている。
- ↑ 井上 2010 106
- ↑ 井上 2010 106。もともと3部作成され、1部が江戸城内、2部が道中奉行所に置かれていた(本多 2014 135および井上 2010 106)。郵政資料館は道中奉行所の資料のうち1部を、東京国立博物館が江戸城内にあった資料を引き継ぎ、『延絵図』は東京国立博物館所蔵の原本をもとに東京美術から刊行されているが(同)、「五街道其外分間見取延絵図」のうち本図ほか4点は郵政資料館にしか現存していない(井上 2010 106)。
- ↑ 豊橋市美術博物館 (2014b) 豊橋市美術博物館 豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の歴史資料 > 近世 > 東海道と吉田宿について > 本坂道三方原回路図 豊橋市美術博物館 2014-03-05 [ arch. ] 2016-12-06
- ↑ 小杉 (1997 176-177)は「本坂道三方原之図」としている。
- ↑ 豊橋市美術博物館 2014b
- ↑ 人口、戸数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社、地域の産業、特産品など(井上 2010 105-106)。
- ↑ 井上 2010 105-106。編注)「本坂通宿村大概帳」は児玉 (2013) 児玉幸多(校訂) [ 近世交通史料集 5 (中山道宿村大概帳) ] オンデマンド版 吉川弘文館 2013 ISBN 978-4642043045 に収録。
- ↑ 浜松市役所 1971 184
- ↑ 小杉 (1997 182)では「山田」
- ↑ 引佐峠のふもとにあったが、1972年当時、鋤き返されて跡形もなくなっていた(内藤 1972 152)
- ↑ 1972年当時、跡かたもなくなっていた(内藤 1972 154)
- ↑ 152.0 152.1 豊橋市美術博物館 2014a
- ↑ 文化庁 (2016a) 文化庁 文化遺産オンライン > 嵩山一里塚(西塚) 文化庁 2016a 嵩山一里塚(西塚) - 文化遺産オンライン [ arch. ] 2016-12-13
- ↑ 小杉 (1997 182)では「長楽寺」
- ↑ 小杉 (1997 182)では「市田」
- ↑ 小杉 (1997 182)では「御油」
- ↑ みわ 2003 178-179
- ↑ 内藤 1972 133
- ↑ 159.0 159.1 小杉 1997 168-170
- ↑ 小杉 1997 168-169,180
- ↑ 岩波文庫、1993年、JPNO 94025427
- ↑ 小杉 1997 168-169
- ↑ 浜松市役所 1971 182-183
- ↑ 小杉 1997 169-170
- ↑ 小杉 1997 169-170、「秋葉山参詣道程図」は「歴史の道『秋葉街道』所載」とされている(編注:該当する報告書は静岡県・長野県からいくつか出ていて、どれのことだか特定できていない)。
- ↑ 吉田 1907 2339
- ↑ 167.0 167.1 大林 2003 104
- ↑ 浅井 2001 100-101
- ↑ 169.0 169.1 169.2 169.3 小杉 1997 171-172
- ↑ 内藤 1972 128-129, 134-135
- ↑ 171.0 171.1 内藤 1972 135
- ↑ 内藤 1972 134
- ↑ 173.0 173.1 小杉 1997 172-175
- ↑ 内山 1969
- ↑ 内藤 1972 141-142。静岡側の峠道は勾配が緩く長く続くため、富永の記事は、愛知県側からの峠道の感想だとみられている(同)。
- ↑ 美術人名辞典『菅沼斐雄』 - コトバンク 2016年12月5日閲覧。
- ↑ みわ 2003 188
- ↑ 内藤 1972 136
- ↑ 179.0 179.1 内藤 1972 137
- ↑ デジタル大辞泉『紙子』 - コトバンク 2016年11月30日閲覧。
- ↑ 181.0 181.1 文化庁 2016a
- ↑ 182.0 182.1 宮川 2012 93
- ↑ 豊橋市美術博物館 (2014a) 豊橋市美術博物館 豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の文化財資料 > 史跡 豊橋市美術博物館 2014-02-14 [ arch. ] 2016-12-12
- ↑ 豊橋市嵩山町字浅間下92(豊橋市美術博物館 2014a )
- ↑ 内藤 1972 140-141。同書では、深さ80メートルほど、としている。
- ↑ 文化庁 (2016b) 文化庁 文化遺産オンライン > 嵩山蛇穴 文化庁 2016b 嵩山蛇穴 - 文化遺産オンライン [ arch. ] 2016-12-13
- ↑ 内藤 1972 140-141
- ↑ 文化庁 2016b
- ↑ 189.0 189.1 みわ 2003 182
- ↑ 小杉 1997 196-197
- ↑ 浜松市 (2014b) 浜松市 ホーム > 教育・文化・スポーツ > はままつの文化財 > 浜松市内の指定文化財 > 北区の文化財 > 本坂一里塚 浜松市役所 2014-08-06 [ arch. ] 2016-12-15
- ↑ 192.0 192.1 192.2 192.3 192.4 みわ 2003 181
- ↑ 193.0 193.1 193.2 小杉 1997 191
- ↑ 194.0 194.1 内藤 1972 153
- ↑ 内藤 (1972 153)は、或る大名の娘が通りがかりに輿から下りて景色を眺め、野点を催したとの逸話があり、以後それに倣って野点をする人が現れ、石を組んで湯を沸かした臨時の竈(くど)跡もあった、としている。
- ↑ 小杉 1997 191-192
- ↑ 小杉 1997 188
- ↑ 静岡新聞 (2015-02-17) 静岡新聞 アットエスTOP > ニュース > 地域 > 西部トピックス > 姫街道の松並木 苗木に未来託す 浜松市が育成作戦 静岡新聞社・静岡放送 2015-02-17 [ arch. ] 2016-06-13
- ↑ 199.0 199.1 199.2 静岡新聞 2015-02-17
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- ↑ 楠戸 2006 77-78
- ↑ みわ 2003 180
- ↑ 小杉 1997 168
- ↑ みわ 2003 180。「(…)威風堂々の行列は、時代絵巻さながらの豪華絢爛さである。」(同)。
- ↑ 205.0 205.1 205.2 205.3 205.4 奥浜名湖商工会細江支所 2015b
参考文献[編集]
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