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小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月26日)は日本の皇族。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。
伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子で、頼子妃の母(嫡母)は有栖川宮韶仁親王王女、有馬韶子。
経歴[編集]
安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。慶応3年(1867年)、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王と名乗る。明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。
明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。
親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。1890年(明治23年)陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。
国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。
社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。
年表[編集]
- 弘化3年(1846年):降誕
- 安政5年(1858年):親王宣下・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す
- 慶応3年(1867年):王政復古・復飾を命じられる
- 明治元年(1868年):軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事、会津征討越後口総督
- 明治2年(1869年):兵部卿、辞職
- 明治3年(1870年):東伏見宮、イギリス留学、議定
- 明治6年(1873年)帰国、陸軍少尉
- 明治7年(1874年):佐賀の乱。佐賀征討総督
- 明治9年(1876年):陸軍戸山学校長、兼議定官
- 明治10年(1877年):東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官
- 明治11年(1878年):東部検閲使
- 明治13年(1880年):陸軍中将・近衛都督
- 明治15年(1882年):小松宮と改める。大勲位菊花大綬章
- 明治19年(1886年):欧州差遣
- 明治20年(1887年):帰国・近衛都督
- 明治23年(1890年):陸軍大将
- 明治24年(1891年):近衛師団長
- 明治26年(1893年):兼議定官
- 明治28年(1895年):参謀総長、日清戦争征清大総督、大勲位菊花章頸飾
- 明治31年(1898年):元帥・日清戦争征清大総督辞職
- 明治35年(1902年):英国国王戴冠式差遣
- 明治36年(1903年):薨去、国葬
小松宮家[編集]
小松宮は一代で断絶したが、北白川宮能久親王第4王子の輝久王(てるひさおう)が1910年(明治43年)7月20日に臣籍降下し、小松輝久侯爵となって小松宮家の祭祀を継承した。
血縁[編集]
- 父母:伏見宮邦家親王 - 妃鷹司景子
- 兄弟:晃親王 - 嘉言親王 - 譲仁親王 - 朝彦親王 - 男子 - 貞教親王 - 男子 - 彰仁親王 - 能久親王 - 男子 - 男子 - 博経親王 - 智成親王 - 貞愛親王 - 清棲家教 - 載仁親王 - 依仁親王(女子省略)
- 妻:有馬頼子
- 子:(養子)依仁親王
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 『親王・諸王略傳』彰[彰仁]
- 小松宮彰仁親王御夫妻の写真アルバムhttp://yushodo.co.jp/pinus/61/meijiphoto/photom2.html