KK戦争

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KK戦争(けいけいせんそう)は、1990年代に自由民主党(以下、自民党)の宏池会の領袖だった宮澤喜一会長の跡目を巡り、宮澤内閣の内閣官房長官を務めた加藤紘一河野洋平との間で繰り広げられた権力闘争である。派内の支持基盤としては、加藤は中堅・若手の支持が強く、河野はベテラン・中堅の支持が強いといわれた。

また、加藤の乱におけるKK戦争は、加藤と古賀誠との間での闘争を指す。

自民党の下野[編集]

宮澤内閣不信任決議案可決により衆議院が解散され、1993年7月に実施された第40回衆議院議員総選挙の結果、自民党が過半数割れし宮澤首相・党総裁が辞任。後継総裁選で渡辺美智雄を破った河野が加藤を出し抜いた格好となる。一方加藤は、翌年の村山内閣の発足時に河野総裁の下で党政調会長に就任。

橋本総裁実現[編集]

1995年7月の第17回参議院議員通常選挙での新進党の躍進で、河野総裁の進退問題を巡り加藤政調会長は山崎拓国会対策委員長と共に、水面下で橋本龍太郎の擁立に動く。9月には河野が総裁選出馬を断念する。後継総裁選では、河野を支持するグループの一部が橋本に対抗して立候補していた小泉純一郎を支持したため、宏池会は分裂状態となった。結果橋本が当選し、幹事長には加藤が就任した。

橋本内閣[編集]

1996年1月、橋本内閣が発足。河野前総裁のグループの粕谷茂が新進党の勉強会に出席し、加藤幹事長を批判。同年10月の第41回衆議院議員総選挙では自民党が復調傾向の結果となったため、加藤幹事長が続投となる。1997年9月には自民党が衆議院において単独過半数を回復する。

小渕内閣[編集]

1998年7月、第18回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗したため橋本首相が辞任し、総裁選へもつれこむ。加藤は山崎と共に小渕恵三・前外務大臣を支持し、一方河野は梶山静六・前内閣官房長官を支持。再び宏池会は分裂状態となる。総裁選の結果、8月に小渕が総裁に就任。自民党が下野した河野総裁時代に派閥は表向き解散していたが、この頃より復活の兆しを見せる。

宏池会の跡目争いは、1998年12月に加藤が派閥を継承し、第6代会長に就任する形で決着がついた。跡目争いに敗れた河野は麻生太郎亀井久興森英介相澤英之衛藤征士郎らと宏池会を離脱、1999年1月に大勇会(河野グループ)を結成した。

自自公連立から加藤の乱[編集]

1999年、小渕執行部において主流派に属していた加藤派は自自公連立政権に反対の姿勢をとり、反主流派となっていた河野グループが自自公連立を容認するという逆転現象が起こる。小渕の無投票再選で濃厚だった総裁選に、加藤は山崎と共に出馬し惨敗する。結果小渕は河野を外務大臣にを起用する報復人事を行った。

2000年11月、小渕の病気辞任により首相に就任した森喜朗の内閣総理大臣としての資質や、森政権樹立のために暗躍したいわゆる「五人組(森、青木幹雄野中広務村上正邦亀井静香)」の行動に、加藤が山崎と共に反発。野党提出の森内閣不信任決議案に賛同する動きを見せるが、結局党執行部の党内工作で不信任案は否決される。結果加藤派は分裂した。これにより加藤-古賀間でのKK戦争は終結を迎えた。

その後[編集]

加藤派は宏池会分裂の憂き目に遭い、所属議員数は衆参両院合計で15人にまで落ち込むが、2001年の総裁選では小泉純一郎を支持、YKKの協力関係が成立し小泉内閣が発足するも、入閣は中谷元防衛庁長官のみで閣僚・党役職上は冷遇された。

加藤自身は2002年に秘書の贈収賄疑惑の責任を取り離党。派閥会長職も辞任し、衆議院議員も辞職。2003年11月の第43回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し当選、その後自民党に復党して加藤派の流れを継いだ小里派に復帰し、小泉首相とは距離を置いていく。

河野はポスト森の最有力候補となるも、外務官僚不祥事で完全に総理総裁職から遠のく。自派の麻生が総裁選に出馬し落選するも小泉の下で党政調会長に就任してから、小泉政権で優遇され総務大臣、外務大臣など重要閣僚を歴任し、麻垣康三と呼ばれるポスト小泉の有力候補になるまでになったのに対して、河野は2003年11月の特別国会で衆議院議長に就任したため、「棚上げされた」格好となっている。

関連項目[編集]

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