魔殺吐死汚汚婁夷
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魔殺吐死汚汚婁夷[編集]
マサーシア連邦の総帥であり、自分本位教の教祖にして開祖
第二次社会復帰妨害戦争の折、首都に迫る敵を加持祈祷によって食い止めようとしたものの、マサーシア軍は配送を重ね、最終的には数学の泉まで陥落することになる。
敵軍に捕縛された昌俊は連行され、裁判にかけられたのち、処刑された。
最後の言葉は「俺の青春を返せェェェッ!!!」
人物[編集]
周囲の状況に気を配ることのできない自己中心的な人物
他人がどうなろうと気にかけない性格で、自分の欲望の為に多くの命を犠牲にしてきた。
その為に最後は部下に裏切られ、数学の泉にて敵に連行される結果を招いた。
しかし、本人は善人のつもりであるらしい。 (マサトシ本文(二章p27)より)
生涯[編集]
マサーシアの父、売女の母を持つ マサーシアの父はドージン(doh=synn 1127~1180)と呼ばれる国父である。 ドージンは昌俊に国政を託し、死去した。
昌俊は生まれた時から物事の理解が遅く、今でいう知恵遅れであった可能性がある。 (マサーシア国の研究p112)
小学生時代から状況把握能力が著しく欠如していたようで、小学生にして、周囲からは“キチガイ”の称号を与えられることとなる。(マサーシア国史p214) 小学三年の時に同級生の女子生徒に恋心を抱き接近したが、当の本人は突然のアプローチに気味悪がり学校に行くことに恐怖を覚えるようになってしまったため、女子生徒は転校を余儀なくされた。
昌俊に対して学校側は処分を行わなかったこともあり、この時の経験は、彼にとって「恋を引き裂かれた」として印象付けられることになる。
彼はその後多くの女性を意図せずとはいえだが地獄に叩き落すことになる。 中学に進級し、周囲が多感になってくるころ、彼にとっての人生の転機が訪れた。精神が発達し始める時期になっても正しく他社の感情を理解することが困難な昌俊は 周囲からK・Y(空気読めない)として疎まれ、虐めの対象となっていく
(そもそも小学校の時点で疎外されていたが、その時はまだ、周囲も彼の異常性に完全に気付いてはおらず、虐めの対象にはなっていなかった。)
肉体的攻撃によって、彼は初めて周囲から向けられる敵意を知ることになる。 これが彼にとっての大きな転換点であった。
名言[編集]
「俺の青春を返せッ!」 (マサトシの罪を問う裁判の際に叫んだ言葉)
「俺は数学に関しては、天才かつ優秀かつ非凡的かつ先進的かつ多才かつ圧倒的だから数学的に天才なんだ!!!!!」 (マサトシには数学の才能がないという落書きをみて)
「俺は様々な女子に恋され、恋した。恋される権利を返せッ!」 (女性にツイッターでブロックされた際にモニターの前で叫んだ言葉)
第四次社会復帰妨害戦争[編集]
自分の青春を、女子に恋される権利を奪った(と本人は考えていた)相手を殺せば、自分が救われると考えた大類昌俊は、北・死・魔の三国同盟と対立していたガインピアと手を組み、相互不可侵の盟約を交わした。
背後が安全になったマサーシアは宣戦布告をせずに北挑戦の半島に上陸を開始した。
これを知った三国は直ちに戦時体制に移行、圧倒的物量をもって挑戦半島に逆上陸を果たし、マサーシア軍をせん滅した(ガーイ港の戦い)
勢いに乗った大魔本帝国は、態勢を整えることなく、マサーシア半島のマサバルに上陸、苦戦を強いられたものの橋頭保を確保し、マサーシア要塞を占領した。(マサーシア半島の戦い) 勢いに乗った魔本軍はマサーシア政府中枢の置かれている首都マサラルンプールに進軍を開始した。(マサラルンプールの戦い) 魔本による航空優勢、マサーシア軍の補給の断絶によってマサーシア軍は瓦解し壊滅した。マサラルンプールの戦いから一週間後、魔本はマサーシア軍の組織的抵抗は終結したとして、掃討戦に移行した。この時魔本兵によってマサラルンプールの虐殺が行われたとされる(マサラ虐殺)
掃討開始より数日後、逃亡していたと思われた昌俊はマサ南島の二番洞窟の中にある聖地、数学の泉に立てこもり守備隊数百名にて防備を固めているところを発見された。 しかし、魔本軍の呼びかけにより、守備隊は降伏、昌俊の身柄を魔本に引き渡した。(数学の泉事件)
昌俊を逮捕した魔本国は他国にこの事実を知らせず、独自に裁判を行い、同年同月中に激しい拷問を行った末に昌俊を処刑した。死体は焼却の上で海に散布されたため残っていない。しかし、出マサーシア記の記述は疑わしいうえに、魔本にも詳しい資料が残存していないため、マサラルンプールの戦い以降の出来事には諸説ある。
マサラ虐殺[編集]
昌俊には、心を通わせていない肉体関係のみの妻が20人、子供は130人いた。魔本軍が昌俊の血縁者を見つけ次第殺害していたとされる。
戦後、マサラ虐殺と魔本による占領期を生き延びたマサラハムによると、昌俊の血縁者を広場に集め、これを次々に銃剣で殺害し、穴に埋めたとされる。
穴からあふれた死体は数か月の間放置され、悪臭を放っていたという。また殺害には容赦がなく、泣き叫ぶ子供や、子供をかばった母親までもを皆殺しにしていたという
(しかし、このマサラハムによる述懐は、出マサーシア記において、自身のマサラエル建国までの侵略を肯定するための物であり、根拠に乏しいため今日では否定されている。)