韓愈
韓 愈(かん ゆ、768年(大暦3年) - 824年(長慶4年))は、中国・中唐を代表する文人士大夫である。字は退之(たいし)、鄧州南陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。唐宋八大家の一人。おくりなによって「韓文公」ともよばれる。
略歴[編集]
3歳のとき父韓仲卿を、14歳のとき兄韓会を失って兄嫁の鄭氏に養われ、苦労して育った。792年(貞元8年)に進士に及第する。その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」とも呼ばれる)、京兆尹などの官を歴任した。
818年(元和13年)[1]、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔(陝西省)法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年(元和14年)、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷された。
翌820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられた。その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、824年に死去した。礼部尚書を追贈された。
作品[編集]
韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。
詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、孟郊・張籍・李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
文集に『韓昌黎集』40巻、『外集』10巻がある。