関の戸億右エ門
関の戸億右エ門(せきのと おくえもん、享和元年(1801年)-安政3年6月5日(1856年))は、江戸時代後期の大相撲力士。陸奥国国分郡(現在の宮城県仙台市)出身。本名は田代孫右衛門ともいわれる。柏戸部屋・伊勢ノ海部屋所属で、柏戸利助の弟子。仙台藩のちに松江藩のお抱え力士。最高位は小結。関の戸億右衛門とも書く。養子に前頭の御所ノ浦がいる。
横綱阿武松を2回も倒したことがあるほどの実力者。勝ち気に溢れる精悍な容貌だったといわれ、錦絵にも彼の肖像が残っている。
陸奥国国分郡(現在の宮城県仙台市泉区松森本町)に生まれる。柏戸利助の弟子となり、初汐力蔵と名乗って文政5年(1822年)1月場所に初土俵を踏む。文政7年(1824年)10月に荒熊力蔵と改名し、その後さらに荒熊力之助と改名。文政9年(1826年)1月に二段目(現在の十両)に昇進し、同13年3月入幕。この間、文政7年1月場所3日目から文政9年10月場所2日目まで35連勝を記録している。
その後、文政13年(1830年)11月に初代関ノ戸億右エ門(2代目伊勢ノ海)の未亡人だった加野が没したことから、天保2年(1831年)2月場所10日目に4代目関の戸億右エ門を襲名して二枚鑑札となるが、天保4年(1833年)10月場所前に鋪嶋八郎治(しきしまはちろうじ)と改名し、同場所初日に名を関の戸億右エ門に戻した。天保5年(1834年)に小結に昇進して2場所在位し、天保6年(1835年)10月場所で前頭筆頭に番付を下げる。天保7年(1836年)11月場所限りで引退して年寄専務となった。
その後伊勢ノ海襲名争いに参加したが、結局柏戸が6代目伊勢ノ海を襲名した。破れた関の戸は、天保13年(1842年)頃に養子の御所ノ浦に関の戸名跡を譲り、43歳で廃業した。安政3年6月5日、56歳で没した。
文政7年10月から同8年1月は仙台藩の抱え、文政8年10月以降は松江藩の抱えだった。
ある夜、夢枕に不動明王が立ったので、青笹不動尊(宮城県仙台市青葉区鷺ケ森)に「関ノ戸億右衛門」の名入りの幟を奉納したという伝説が残っている。
- 幕内成績:37勝13敗11分5預57休(13場所)
- 幕内勝率:0.740
参考文献[編集]
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。