長崎県立国見高等学校
長崎県立国見高等学校は、長崎県雲仙市国見町多比良甲にある公立高等学校。
目次
高校サッカー界屈指の練習量を誇る国見。その驚愕の夏合宿[編集]
帝京、市立船橋、清水市商、国見、鹿児島実......かつて、日本の高校サッカー界をリードしてきた強豪校を卒業し、プロになってからも活躍する選手の多くは、「今があるのは、高校時代に厳しい練習をこなしてきたからこそ」と口をそろえる。
それらの高校では、まさにハードで過酷な練習が、日々行なわれてきたという。なかでも、練習量の多さでは「日本一」と言われていたのが、長崎県の名門・国見高。はたして、国見高の「夏合宿」とはどんなものだったのか、同校出身の三浦淳寛氏に話を聞いた。
―― 国見高サッカー部は、高校サッカー界屈指の練習量を誇ると聞いています。普段から、かなりきつい練習をこなしていたと思うのですが、「夏合宿」となると、さらに厳しさが増していたのでしょうか。
「国見高のサッカー部は、夏休みに入ると、チームバスで遠征するんです。長崎県を出発して、佐賀県で佐賀商と試合をして、福岡県では福岡大と試合をして......といった具合に、日本列島を南から北へ、試合をしながら上がっていく感じです。なかでも、一番きつかったのは、新潟県での合宿でしたね。全国から強い高校が集まって、僕らのときは、静岡学園とか帝京も来ていたかな。とにかく何校かがそこに集結して、一日、3試合とか4試合とかやっていました。それも、最初の試合のキックオフが朝6時。もう、起きてすぐ、という感じでした」
―― 真夏の暑い日に、3、4試合もやっていたんですか。
「そう。しかも僕らは、他の学校が試合をしているときも、ずっと走っていましたからね。他校の選手たちは、次の試合に備えて日陰で休んでいるのに......。新潟工高のグラウンドでやっていたと思うんですが、そこにはまた、いい具合に走る場所があったんですよ......。そればかりか、場合によっては、試合のハーフタイムの間にも走らされていました。前半の内容が悪かったりすると、確実です。でも、そんな状態にあっても、僕らは後半、いい試合をするわけですよ。だって、後半もダメだったりすると、また余計に走らされますから(笑)。ほんと、よく走らされましたよ。水も飲まずに、ね」
―― 今では常識の水分補給ですが、当時はまだだったんですね。
「僕らの頃はまだ、(練習中に)水を飲んではいけない時代でした。いやぁ~、今の選手なら、間違いなく倒れているでしょうね。もっとも、国見は普段からそれくらい厳しい練習をしていました。学校の裏に『タヌキ山』というところがあるんですが、そこをずっと走っていましたからね。途中、田んぼの用水路があるんですが、そこに横倒れになって、はまって動けなくなっているヤツとか、結構いましたよ。あまりにもきついから、そこで水分補給をしていたんです。もう、生きるための本能ですよ」
―― そこまで追い込んでいるから、国見は試合でもあんなに走ることができたわけですね。やはり練習の厳しさは、高校サッカー界随一だったんでしょうね。
「うちと、鹿児島実高でしょう。そういえば、夏休みに鹿実が国見に遠征してきたことがあったんです。あのときは、最悪でした......。僕らが試合に勝つと、試合後に、鹿実が延々とダッシュするわけですよ。すると、それを見た小嶺(忠敏)監督(※1)から『うちは鹿実の2倍、走れ!』って指示が出る。それで、僕らが走っていると、今度は鹿実の松澤(隆司)監督(※2)が「国見があれだけやっているんだから」と、鹿実の選手たちがまた、それ以上に走らされる。
100mぐらいのダッシュを相手が50本やったら、こっちは100本。こっちが100本やったら、今度は相手が200本......と、きりがないんですよ。もう「鹿実は来んな!」って、ずっと思っていましたね。
他にも、諫早市で試合をやって、そこで負けたときには、学校まで「走って帰れ!」って言われたこともありました。諫早市から国見町まで30~40kmくらいあったと思うんですが、あれには参りましたね。まあ、僕らレギュラー陣は、わりと早くにバスに乗せてもらったんですが、レギュラー入りするかどうか、という選手たちは、相当走ったんじゃないですかね......。
あと、遠征に出掛けて試合をするときは、おおよそ着いた瞬間にキックオフという状況が多かったんですよ。つまり、アップの時間がないんです。おかげで、移動中のバスの中で体を動かしたり、ストレッチをしたり、フェリーで移動したときは甲板でアップをしたこともありました。他のお客さんには、いい迷惑だったでしょうね(笑)」
※1:1968年~1984年まで島原商高の監督を務め、その後、1984年~2007年まで監督、総監督として国見高を指揮。国見高では6度の選手権優勝を飾る。現在は、長崎総合科学大学および同附属高サッカー部の総監督を務める。
※2:1966年から40年以上、鹿児島実高サッカー部の指揮を執る。選手権の優勝は2回。2011年には、2000年から務めてきた総監督からも勇退した。
―― 今、そんな練習をやっていたら、誰もついていけないというか、保護者とかからも相当なクレームがきそうです。
「そもそも、当時の国見サッカー部には、『国見の練習は日本一きつい』ということがわかっていて、それを承知で入部してきた連中ばかりが集まっていました。だから、みんな覚悟があった。そうした意識の高い選手たちが、レギュラーを目指して日々競争をしてきた。それが、国見なんです。
だいたい普段の練習以外にも、選手個々が自主的に練習をやっていましたよ。昼休みに筋トレしたりして、僕もみんなのいないところで腕立て伏せとかを繰り返しやっていました。あと、毎朝5時には起きて、朝練の前にひとりでボールを蹴って練習していましたね。そうしないと、国見の練習についていけないし、レギュラーを勝ち取ることもできないと思っていましたから。
厳しい環境だからこそ、身につくこともありました。例えば、シュート。シュート練習をする緑色の壁が体育館脇にあったんですが、その裏のほうに水道があって、壁の右側のわずかな隙間をボールが抜けていくと、その水道のところまでボールが転がっていくんですね。しかも、そこは(監督がいる)グラウンドからは見えない。だから、シュート練習のときは、みんな、そこを狙っていましたよ。水を飲みたいから。おかげで、正確なシュートが打てるようになりました(笑)。
とにかく(過酷な状況の中で)必死だったわけですよ。さっき話したウォーミングアップもそう。時間がない中で、どうやって試合の準備をするのか、自分で頭をフル回転させて考える。そういうことから、"マリーシア"とか"ハングリー精神"とかが身についたんだと思いますね」
―― 制約があるからこそ、必死になったり、工夫したりするようになる。そうして、状況判断や考える力も育まれる、ということですね。
「そうですね。そういう意味では、今の子どもたちに"その部分"をどうやって身につけさせるか、というのは課題。水分補給はもちろん、トレーニングなども科学的になって、何不自由なく、厳しい環境に置かれることが少ない。それで、技術的にはうまくなっているのは確かだけど、でも"その部分"がないと勝負には勝てませんからね。
至れり尽くせりの時代に、どうすればハングリー精神を注入できるのか。僕も、スクールなどで子どもを教えるときには、いつも意識していることです」
―― ところで、国見高と言えば、試合などの遠征の際に、小嶺監督が自らバスを運転していたことで有名です。夏の遠征でもやはりそうだったんですか。
「そうです。遠いところでは、岩手県まで行ったんじゃないかな。どこと試合をしたとかは覚えていないけど、わんこそばを食べた記憶がありますから。そのときも、試合並みに必死でしたよ。監督がじっと見ているから、たくさん食べないと叱られると思って、懸命に食べました。
小嶺先生はやっぱりすごい人だと思います。朝から晩まで試合をやって、僕らは移動中のバスの中では寝てしまっていましたけど、先生はずっと運転していましたからね。遠征先に行けば、現地の学校の先生たちとの付き合いなどもあったはずで、寝る時間は相当遅かったと思うんですよ。それでいて、朝は僕らよりも先に起きていましたからね。改めてすごいと思います」
―― 水も飲ませてもらえず、ずっと走らされても、ですか?
「当時は、それが当たり前だと思っていましたから。それに、自分たちはみんな、丸刈り頭で、あんなに走ったんだから、都会のお洒落な学校なんかには『絶対に負けねぇ!』という、強い気持ちも備わりました。その分、大会になれば、『優勝して当たり前』と思っていました。試合中、きつい状況に陥っても、あれだけすごい練習をしたんだから、と思ってがんばれましたね」
―― それは、プロになってからも生きていましたか。
「もちろんです。だって、国見の夏合宿以上の練習をしたことがありませんから。つらいとき、きついときは、高校時代のことを考えました。試合で苦しい場面を迎えても、『タヌキ山』のことを思い出せば、また走ることができた。あれをやったんだから、と思えば、どんなことも乗り切れます。(大久保)嘉人なんかも、きっとそうだと思いますよ。僕が、17年間も現役でプレイできたのは、間違いなく国見高での練習のおかげです」
―― では最後に、この夏、もう一度、国見高の「夏合宿」に参加しろ、と言われたら、どうしますか?
「絶対に、嫌です(笑)。とても、無理です......。でも、もしも息子がいて、本気でサッカーをやりたいと言ったら、国見高に行かせるかもしれません。きついですけど、学べることがたくさんありますから」
設置課程・コース[編集]
- 全日制課程
- 普通科
- 1 年生から進路希望などに応じて以下の2コースに分かれる。
- Aコース - 基礎学力の充実を目指し、進学や就職などに対応。
- Bコース - 四年制大学や高等看護学校等進学を希望する生徒に対応。
- 2年生進級の際に、進路希望に応じてコース間の入れ替えを行う。
- 3年生進級の際はコースの入れ替えは行わず、2年生のコースを継続。
- 1 年生から進路希望などに応じて以下の2コースに分かれる。
- 普通科
校訓[編集]
- 「誠実・気魄・努力」
校章[編集]
- 平仮名の「く」を2つ左右対称に並べて「国」(くが2個で「くに」)を表し、中央に高校のハシゴ高の「高」の文字(俗字体)を置いている。
- スクールカラーは「青色」
校歌[編集]
沿革[編集]
当初、長崎県立島原高等学校の2分校として設置され、統合で1分校になった後、独立してできた学校である。
昭和[編集]
- 1949年(昭和24年)
- 1956年(昭和31年)11月1日 - 町村合併に伴い、多比良分校を国見分校と改称。
- 1957年(昭和32年)
- 1964年(昭和39年)
- 4月1日
- 国見分校と神代分校の定時制課程の募集を停止し、全日制課程普通科(2学級)の生徒募集を開始。
- 国見分校・神代分校を統合の上、国見分校とし、旧多比良中学校の校舎を使用する。
- 4月1日
- 1965年(昭和40年)4月1日 - 全日制課程普通科が3学級となる。(1学級増)
- 1967年(昭和42年) - この年を基準に創立年数を数えている。
- 1969年(昭和44年)12月31日 - 運動場が整備。
- 1970年(昭和45年)1月31日 - 体育館(第2体育館)が完成。
- 1971年(昭和46年)3月29日 - 第1棟校舎(2階建)が完成。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 3月28日 - 第2棟校舎(普通教室、家庭科教室等)が完成。
- 4月8日 - 第1学年の学級が5学級となる。(1学級増)
- 1975年(昭和50年)4月8日 - 第1学年の学級が6学級となる。(1学級増)
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)
- 3月31日 - 第1棟校舎(普通教室2、図書室、社会科教室、渡り廊下、下足室、購買部)を増築。
- 10月15日 - 体育館(第2体育館)倉庫が完成。
- 1980年(昭和55年)10月16日 - 体育倉庫が完成。
- 1983年(昭和58年)3月30日 - 体育館(現 第1体育館)が完成。
- 1984年(昭和59年)1月20日 - 考古学資料館が完成。
- 1985年(昭和60年)3月18日 - 温水シャワー室が完成。
- 1986年(昭和61年)11月8日 - 創立20周年記念式典を挙行。
- 1987年(昭和62年)
- 3月20日 - 庭球コート(4面)が完成。
- 12月8日 - 運動場を整備。
- 第66回全国高等学校サッカー選手権大会で初優勝。
- 1988年(昭和63年)
平成[編集]
- 1989年(平成元年)3月31日 - 第2棟校舎(生徒用便所)を増築。
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)11月22日 - トレーニング室が完成。
- 1992年(平成4年)4月1日 - 男子制服がブレザー服に改定。
- 1994年(平成6年)3月22日 - 寄宿舎「烏兎寮」が完成。
- 1996年(平成8年)
- 4月1日 - 女子制服改定、男子制服一部改定。
- 10月25日 - 創立30周年記念式典を挙行。
- 1997年(平成9年)3月25日 - クラブハウスと渡り廊下(校舎・第1体育館間)が完成。
- 1998年(平成10年)2月10日 - 長崎県教育委員会指定の「長崎学」研究発表会を行う。
- 1999年(平成11年)3月10日 - 第2体育館(屋根、窓枠、床)を改修。運動場を整備。
- 2000年(平成12年)3月24日 - 耐震補強、保健室・カウンセラー室の改修が完了。
- 2001年(平成13年)
- 3月29日 - 武道場(旧格技場)を改修。
- 4月1日 - 第1学年の学級数が5学級となる。(1学級減)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)1月16日 - 粗大ゴミ置き場と自転車置き場を新設。
- 2004年(平成16年)2月13日 - 校舎トイレを改修。
- 2008年(平成20年)4月1日 - 第1学年の学級数が4学級となる。(1学級減)
学校行事[編集]
1学期[編集]
- 4月 - 始業式、入学式、1年生宿泊研修、歓迎遠足
- 5月 - 中間考査、生徒総会
- 6月 - 県高総体、期末考査
- 7月 - 生徒会役員選挙、球技大会、高2インターンシップ、終業式
- 8月 - 平和学習(9日 長崎原爆の日)、夏季補習、中学生1日体験入学(オープンスクール)
2学期[編集]
- 9月 - 始業式、体育祭、高3就職試験開始
- 10月 - 中間考査、鍛錬遠足
- 11月 - 開校記念日(1日)、県総文祭、星原祭(文化祭)、期末考査
- 12月 - マラソン大会、球技大会、終業式、冬季補習
3学期[編集]
- 1月 - 始業式、高2修学旅行、大学入試センター試験
- 2月 - 高校推薦入試、学年末考査、同窓会入会式
- 3月 - 卒業式、球技大会、終業式(修了式)
制服[編集]
部活動[編集]
運動部[編集]
文化部[編集]
活動成績[編集]
サッカー部[編集]
- かつて元総監督(同校教諭、教頭、校長を歴任)の小嶺忠敏が率いたサッカー部は、全国高等学校サッカー選手権大会の常連校で、卒業生の項にあるとおり多くのサッカー選手を輩出した。全国優勝は計14回。
- 2007年(平成19年)まで、全国高等学校サッカー選手権大会に21年連続で出場。大会史上、最多連続出場記録となっている。
- 選手権の優勝回数6回(1987(昭和62)、1990(平成2)、1992(平成4)、2000(平成12)、2001(平成13)、2003(平成15)年度)は戦後最多タイの優勝回数。
- インターハイの優勝回数5回(1986(昭和61)、1993(平成5)、2000(平成12)、2003(平成15)、2004(平成16)年度)。
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の優勝回数2回。
- 国体の優勝回数1回。
- 2000(平成12)年度にインターハイ、国体(国見高単独チームで長崎県選抜として出場)、選手権の三冠を達成。
- 第85回選手権大会(2006(平成18)年度)で同校の選手権史上初の初戦敗退を喫した。
- 部員は丸刈りにしなくてはならない。
- 2007年(平成19年)
- 当大会を勝ち抜いたのは島原商業で、宮崎伸一監督もまた小嶺の教え子であった。
- 2008年(平成20年)
- 九州プリンスリーグ1部に長く在籍をしていたが、11位/12位となり2部への降格が決定した。
- 全国高等学校サッカー選手権大会長崎県予選において、準決勝で長崎日大に敗れ、2年連続で全国大会出場を逃した。
著名な出身者[編集]
- 1985(昭和60)年度卒業
- 1986(昭和61)年度卒業
- 1987(昭和62)年度卒業
- 1988(昭和63)年度卒業
- 1990(平成2)年度卒業
- 1991(平成3)年度卒業
- 1992(平成4)年度卒業
- 1993(平成5)年度卒業
- 中島豪 (元浦和レッドダイヤモンズ)
- 1995(平成7)年度卒業
- 1996(平成8)年度卒業
- 都築龍太 (元浦和レッドダイヤモンズ 元サッカー日本代表)
- 中川雄二 (元カターレ富山U-15 コーチ)
- 1997(平成9)年度卒業
- 立花由貴 (元横河武蔵野フットボールクラブ、横河武蔵野FC コーチ)
- 元田庄吾 (元ガイナーレ鳥取)
- 1998(平成10)年度卒業
- 1999(平成11)年度卒業
- 2000(平成12)年度卒業
- 2001(平成13)年度卒業
- 2002(平成14)年度卒業
- 2003(平成15)年度卒業
- 2004(平成16)年度卒業
- 2005(平成17)年度卒業
- 田中政勝 (Manly united FC)
- 渡邉三城 (横浜スポーツ&カルチャークラブ)
- 2006(平成18)年度卒業
- 2007(平成19)年度卒業
- 2008(平成20)年度卒業