近衛家
近衛家(このえけ、テンプレート:旧字体)は、五摂家のひとつで公家である。家名は、平安京の近衛大路に由来する。また陽明家ともいう。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。
概要[編集]
藤原忠通の長男の近衛基実が祖。その子の基通が京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来。家紋は近衛牡丹。江戸時代には家領2862石を拝す。菩提寺は京都の大徳寺。
鎌倉時代中期には近衛家実の四男兼平により鷹司家が立てられた。南北朝時代の一時期には両朝に分裂していた。戦国時代には尚通・信尹など碩学政家や書家を輩出。江戸時代初頭の信尹は継嗣を欠いたため、妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え信尋とした。よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう。
江戸時代を通じて博学典礼の家としてしられ、尚嗣、基熙、家熙らが出る。幕末の忠熙は孝明天皇の信任が厚く顧問として活躍した。この嫡流から戦前昭和の総理・近衛文麿が出ている。指揮者で作曲家の近衛秀麿は文麿の異母弟。現在の近衛家の当主・近衛忠煇は、文麿の次女・温子が細川護貞との間に儲けた次男で、文麿の子文隆が子なくして抑留先のシベリアで非業の死を遂げると、その夫人・正子が養子に迎えて近衛家を継いだ。平成の初めの総理・細川護煕はこの忠煇の実兄にあたる。
主な人物[編集]
系譜[編集]
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
近衛邸跡[編集]
江戸時代に近衛家は、京都の烏丸今出川の京都御苑内にあった。その場所は、同志社大学今出川キャンパスの向かいに位置する。築地塀や建物はないが、大池を囲む庭園は保存されており、九条家の九条池に対し近衛池とよばれている。池の周囲には、有名なしだれ桜である「近衛桜」があり、御花見シーズンには市民でにぎわう。となりには桂宮家邸が、かつてあり、桂宮邸には築地塀や表門が残っている。
奈良の西大寺には寝殿造りである近衛家の政所御殿が移築され、愛染堂として使用されている。愛知の西尾城には近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されている。京都の東福寺塔頭 毘沙門堂 勝林寺には大玄関が移築され現在もお堂として使われている。
参考文献[編集]
- 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 4-7971-0744-8
- 中世後期近衛家の家族構成と家産経済の考察。
- 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書、1994年) ISBN 4-12-101213-5
- 橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4-642-03378-5
- 瀬川淑子『皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む』(岩波書店、2001年) ISBN 4-00-022812-9
- 近衛忠大・NHK「真珠湾への道」取材班『近衛家の太平洋戦争』(日本放送出版協会、2004年) ISBN 4-14-080839-X
系譜参考[編集]
- 日本の名字七千傑「藤原氏摂家流」 (日本語)
- 公卿類別譜「近衛」 (日本語)
- 公卿類別譜「粟田口」 (日本語)
- 公卿類別譜「衣笠」 (日本語)
- 公卿類別譜「藤井」 (日本語)
- 世界帝王事典「近衛」 (日本語)
- 世界帝王事典「水谷川」 (日本語)