華僑協会
華僑協会(かきょうきょうかい)は、1941年12月から翌年8月にかけて、日本軍が、占領した東南アジアの各地で設立させた、日本軍に協力する華人の有力者の団体組織。強制献金を推進するなどした。第25軍占領下のシンガポールでは昭南華僑協会が華僑協会を統括し、マラヤの華人有力者に総額5,000万海峡ドル の献金を強要したほか、エンダウ入植地への移民の募集・推進、勤労奉仕隊・警察協助会の要員募集、慈善活動、日本人の優遇などを行った。
目次
華僑協会の設立[編集]
マラヤ[編集]
1941年12月19日、ペナンに入場した日本軍(第25軍)は「華僑協会」結成を指令した[1]。
1942年2月26日、ジョホール州ムアル では、対日協力のための「治安会」を組織[1]。
シンガポール[編集]
1942年2月15日にシンガポールを占領した日本軍(第25軍)は、昭南警備隊・大石隊長の命令により、占領直後に実施した市街地の集団検問・粛清の際に、華人の有力者20余名を拘束し、フォート・カニング 下の教会跡に監禁[2]。林文慶博士らを脅迫・説得して、日本軍に協力する民族団体を結成させた[3][4][5][6]。
- 後に昭南華僑協会の主席となる林と副主席となる黄兆珪は、集団検問の際に日本軍に拘束された[3]。
- 林とその家族は、アラブ街 で行われた検問で憲兵隊に見つかり、当初、対日協力団体の要職に就くことを拒否していたところ、林博士の妻が憲兵隊から虐待を受け、その後篠崎護の説得を受け入れて収容所から解放された。解放後も、林博士の家には憲兵隊の監視兵が派遣されていた。[6]
- 篠崎 (1976 52-57)は、昭南警備隊の嘱託となっていた自身が、同月25日か26日頃、重慶国民政府の支援者として検挙・連行されてきた林博士にビールを飲ませ、「日本軍に協力する華僑の団体を組織し、拘束されている華僑の領袖をその組織員とすることで釈放させましょう」と説得して、林博士の同意を得た、としている。
- 大西 (1977 144)は、第25軍は、華僑の領袖をして軍政に協力せしむるという意図を、シンガポール占領当初から持っていたようだ、としている。
- 1942年2月26日付の『昭南日報』には、「同月22日に、華僑の長老・林文慶博士が昭南警備隊によって救出され、日本軍当局と意見交換した結果、華僑のリーダーに任命されることを承諾し、マラヤの華僑全員が南京の汪兆銘政権を支持し、日本軍当局の指示に従って新東亜建設に邁進すると表明した」との記事が掲載された[5][6]。
- 同年2月27日に林博士、胡戴坤、陳温祥、曾郭棠および陳育崧は、クィーン街 (三馬路)にあった東洋ホテルで篠崎から腕章と「良民証」を受け取り、その後2日間、華僑の有力者を探して回り、3日目に華僑の有力者を集めて会合が行われた[5]。
- 同年3月2日に吾廬倶楽部に集められた華僑の有力者2,30人に対して、黄堆金が治安維持会の設立を提案、林博士らは「華僑は当地の僑民に過ぎず、参政権を持たないので、治安維持の責務は負えない」と主張して政治的活動を行わない「華僑協会」を組織することで合意し、マライ軍政部の承認を受けて、対日協力団体組織・昭南華僑協会が発足、会議出席者は全員「華僑連絡員」として襟章を渡された[5]。
- 篠崎 (1976 52-57)によると、「治安維持会」ではなく「華僑協会」とすることは、中国における「治安維持会」のように軍部の影響力が強い組織にならないようにしたいという馬奈木敬信・マライ軍政部長の意向だったという。陳 (1973-07-31 )は、2月27日に篠崎から林らに提案があった、としている。
華僑協会が設立されると、特別警察隊は、軟禁していた華僑の有力者ら20数名を、軍政協力を条件として釈放した[7]。監禁を解かれた華人の有力者や、同団体の庇護を求めてやってきた華人の有力者が協会に合流した[5][4]。
- 篠崎 (1976 60)は、発足したばかりの昭南華僑協会は、昭南憲兵隊の留置場に監禁されている250-300人の人々の名前を調べて協会員名簿を作成し、馬奈木軍政部長に提出して釈放を懇願、その結果「ひどい取り調べ」を受けていた李俊承、曾紀辰、王丙丁らの逮捕者が釈放され、協会の理事・会員となった、としている。
- Tan (1947-06-12 )によると、協会事務所となっていた吾廬倶楽部には特高科や憲兵隊、警察のスパイ・密告者が出入りして監視しており、中華総商会の副会長・陳六使 や銀行家のOng Piah Tengらは庇護を求めて協会に現れたところを特高科に逮捕され、拷問を受けたという。
設立当初の昭南華僑協会の組織の概要は下記のとおり[3][8][5][6]。
- 主席: 林文慶
- 副主席: 黄兆珪
- 理事長:呂天保
- 理事会:理事22人で構成
- 財務担当 1名
- 秘書: 曾郭棠・陳育崧
昭南華僑協会は当初、吾廬倶楽部を事務所とし、後に中華総商会 に移転した[5][12]。
北ボルネオ[編集]
ボルネオ守備軍占領下の北ボルネオでは、1942年8月にクチンの長老・王長水[13]を会長とする「華僑協会」が結成された[14]。
華僑献金の推進[編集]
マラヤ[編集]
昭南華僑協会が発足すると、第25軍軍政部次長兼総務部長・渡辺渡配下の高級嘱託・高瀬通が同協会顧問となり、その通訳で台湾人の黄堆金(Wee Twee Kim)が同協会を監督して、マレー半島各州の華僑協会を統括し、5,000万ドル強制献金の募集を推進した[15][3][5]。
- 篠崎 (1976 60-62)および篠崎 (1972-09-01 )は、馬奈木敬信第25軍軍政部長が1942年3月1日付でボルネオ守備軍へ転出した後、軍政部長に昇進した渡辺とその配下の高瀬・黄堆金によって華僑協会が強制献金を推進する団体に変容した(ので篠崎自身は強制献金に関与していない)、としているが、馬奈木がボルネオ守備軍の参謀長に着任したのは同年4月10日で、馬奈木の在任中に既に強制献金は開始されていた[16]。陳 (1973-07-31 )は、献金の強制は当初から協会の主な活動目的だった、として篠崎 (1972-09-01 )の見解を否定している。
- Tan (1947-06-12 )によると、黄堆金らは中国生まれの華人、篠崎らは海峡植民地生まれの華人を所管しており、両社の間には派閥抗争があったという。
- 篠崎 (1976 61-63)によると、このほかに内田某が協会顧問、その通訳として神戸から招聘されてきた華商・黄建徳が協会の理事となり、会議の内容を高瀬に報告していた。
- 陳 (1973-07-31 )は、高瀬は黄堆金をそれほど信用しておらず、別に遠藤某を顧問として協会に派遣していた、としている。
華僑協会の代表は献金の責任を負わされ[17]、華僑協会は、資産の査定結果から献金額を各人に割り当て、過酷な取り立てを行った[18]。このため華僑協会は恨みを買い、非難の対象となった[19]。
3月下旬、各州の華僑協会が出そろうと、各協会の代表をシンガポールの軍政部に集めて会議が開かれ、献金が指示された[20]。
折から私は、昭南タイムズの責任者として華僑記者とユーラシアン記者を連れ、キャセイ・ビル の大東亜劇場で開かれたマレー各州の華僑協会の登録代表者たちの招かれている会に出席した。華僑たちは白けきっているような様子に見えた。華僑たちのうち舞台に出て演説したのは華僑協会長の林文慶博士1人だけで、しかも声が小さいので後ろの方の席には聞えなかった。連れの記者たちも通訳してくれなかった。
– 井伏鱒二 [21]
1942年6月25日に華僑献金の山下軍司令官に対する奉納式が行われ、献金問題が一段落すると、華僑協会の所管は昭南特別市に移管された。しかし、侮辱を感じて協会を離れた華僑の領袖もいたという。[22]
北ボルネオ[編集]
北ボルネオでは、華僑協会の結成に先立つ1942年7月26日に馬奈木敬信・ボルネオ守備軍参謀長から、華人の有力者に対して献金を促す演説が行われ、同年1942年8月に発足した華僑協会が華僑献金を推進した[14]。
昭南華僑協会のその他の活動[編集]
移民による開墾[編集]
サイパン陥落以降(1944年秋以降)、食料の不足と、シンガポールでの連合軍との戦闘を見越して、日本軍は昭南華僑協会に命令してシンガポールの中国系住民約30万人をエンダウ入植地に移住させようとした[23]。1年余で実現するとしていたが、終戦までに送られた華人は6千人足らずで、華僑協会の事務所の職員を加えても約1万人だった[23]。
勤労奉仕隊[編集]
昭南華僑協会は勤労奉仕隊を取り仕切った[24]。日本軍の各部隊のために働くと、米4斤がもらえると新聞などで宣伝[24]。実際には仕事をしても給料がもらえず、日本兵から暴行を受け、白米は4両(1斤=16両)しかもらえないなど、ひどい待遇だったため、応募者は次第に減少し、制度が中止された[24]。その後これに代る組織として協警会(警察協助会)が組織された[24]。
エンダオの「新昭南模範村」を建設するための費用として4,000ドルを寄付すると、昭南特別市の厚生科長だった篠崎護の「証明書」が得られ、勤労奉仕隊その他の軍隊への徴用が免除されるという制度もあった[24]。「証明書」は闇で1,2万ドルで取引され、昭南華僑協会は「証明書」の発行により2,000万ドル以上を集めた[25]。軍政監部がこの「証明書」の効力を認めない、と発表して市政庁ともめ、結局効力が確認されたこともあった[25]。
慈善活動[編集]
昭南華僑協会は、双林寺 に難民収容所を設立し[25]、マレー半島から流入して来た難民に、市内の各寺院で炊出し給食を施すなど、市内の秩序回復に協力した[26]。
日本人の優遇[編集]
昭南華僑協会に登録した華僑の商店は、正面入口に協会員であるしるしの大きな幕を垂らし、日本人が買物に行くと誰彼の別なく1割引になった[27]。
戦後[編集]
シンガポールでは、終戦後、華僑献金に協力した華人の有力者は対日協力者の烙印を押され、理事長・献金主任の呂天保、総務の曾紀辰は香港に亡命し、林文慶博士も一時は漢奸と呼ばれたという[22]。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 原 1987 91 - 『南洋文摘』第6巻第1期、1965年1月からの引用として。
- ↑ 大西 1977 144
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 洪 1986 19
- ↑ 4.0 4.1 篠崎 1976 52-57
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 陳 1973-07-31
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 Tan 1947-06-12
- ↑ 大西 1977 144-145
- ↑ 篠崎 1976 59
- ↑ 洪 (1986 19)では林・黄・呂に言及。
- ↑ 篠崎 1976 59には、林・黄、理事として陳温祥・胡載坤、協会秘書として「曾谷同」、「陳育松」に言及があるが、呂と理事会・財務担当には言及がない。篠崎 (1976 65)は、呂は理事で、後に「献金主任」に選出された、としている。
- ↑ 陳 1973-07-31 は、林・呂と理事会に言及しているが、副会長・理事の名前は挙げずに、財務担当1名、秘書2名としている。
- ↑ 篠崎 1976 59-60は、発足時からヒル街47号の中華総商会を事務所にした、としている。
- ↑ 1864-1950、王其輝 元連邦政府科学技術相の祖父
- ↑ 14.0 14.1 原 1987 92
- ↑ 原 1987 91
- ↑ 原 1987 90-92
- ↑ 篠崎 1976 65
- ↑ 篠崎 (1976 65-66)。協力しないものは憲兵隊に逮捕され、拷問された(同)。
- ↑ 篠崎 1976 66
- ↑ 篠崎 1976 64
- ↑ 井伏 1998 271-272
- ↑ 22.0 22.1 篠崎 1976 67
- ↑ 23.0 23.1 洪 1986 21-22
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 洪 1986 22
- ↑ 25.0 25.1 25.2 洪 1986 23
- ↑ 篠崎 1976 61
- ↑ 井伏 1998 267
参考文献[編集]
- 井伏 (1998) 井伏鱒二「続徴用中の見聞」『井伏鱒二全集 第26巻』筑摩書房、ISBN 448070356X、pp.253-321
- 原 (1987) 原不二夫「シンガポール日本軍政の実像を追って」アジア経済研究所『アジア経済』 、1987年4月、pp.83-95
- 洪 (1986) 洪錦棠「1 日本軍進駐後のシンガポール」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、ISBN 4250860280、pp.10-23
- 大西 (1977) 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、JPNO 77032906
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 陳 (1973-07-31) 陳育崧「『新加坡淪陷三年半』讀後(下)」『南洋商報』12面
- 篠崎 (1972-09-01) 篠崎護(著)陳加昌(訳)「新加坡淪陷三年半(4)」『南洋商報』16面
- 篠崎 (1972-08-31) 篠崎護(著)陳加昌(訳)「新加坡淪陷三年半(3)」『南洋商報』28面
- Tan (1947-06-13) Y.S.Tan, How they kept their heads on their shoulders, The Straits Times, p.4
- Tan (1947-06-12) Y.S.Tan, The first terrible days in Singapore, The Straits Times, p.6