花岡平和友好基金

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花岡平和友好基金(はなおかへいわゆうこうききん)は、2001年に発足した、花岡事件の被害者のための補償基金。2000年に成立した花岡事件の対鹿島訴訟の和解条項に基づき、鹿島建設中国紅十字会に信託した5億円により運営され、支払対象となる事件被害者を探し、和解を承認した事件被害者やその遺族に補償金や育英資金を支払っている。

発足[編集]

2000年11月に、花岡事件対鹿島訴訟の和解が成立し、和解条項により、鹿島建設が支払う補償金は、原告に直接支払われるのではなく、第三者である中国紅十字会に信託され、同会が花岡平和友好基金を運営し、11人の原告だけでなく、裁判に参加しなかった「受難者」986人全員を対象として、和解を承認した被害者本人または遺族に対して支払いを行なうことになった[1]

基金の使途[編集]

花岡事件の対鹿島訴訟の交渉過程で、原告団代表の耿諄は、鹿島から得られた補償金の使途として、1/3を受難者と遺族のために、1/3を中日友好と次世代の教育、1/3を花岡現地の人のために使用するとの構想を提案し、花岡受難者聯誼会での支持を得た[2]

その後、和解交渉の中で鹿島が支払う補償金額が5億円とされたことを受けて、2000年11月に、耿諄は、うち1億5千万円を受難者と遺族が受け取ることを提案したが、遺族の原告を中心に反対意見があり、うち2億5千万円を受難者と遺族が受け取ることになった[3]

運営委員会[編集]

花岡平和友好基金運営委員会は、和解条項に基づき、花岡平和友好基金の適正な管理運営を目的として設置された委員会で、2001年3月26日に発足した[4]基金管理委員会の呼称もみられる[5]

和解成立後の2000年12月27日に、対鹿島訴訟の原告団を支援した田中宏らが訪中し、和解条項の規定に従って、運営委員を選出した[6]。当時の委員は、新美隆、田中、林伯耀と、花岡事件の生存者1人、遺族1人、中国紅十字会から1人、鹿島建設から1人(空席のまま)で構成されていた[7]

信託金受給式[編集]

2001年9月27日に、中国紅十字会の総会で、花岡平和友好基金の第1回賠償金受給式が行われた[8]。信託金の受給式は、9月に北京で行われた後、山東省分について済南で、河北省分について石家荘で、河南省分について鄭州で行われた[9]

  • 2003年4月2日に鄭州で信託金受給式が行なわれることになった際に、河南省の地元紙『平頂山日報』が、和解に応じていなかった耿諄を含む受難者が賠償金を受け取る、と報道し、耿諄から抗議を受けた[10]

被害者調査[編集]

中国紅十字会と花岡平和友好基金運営委員会は、『中国青年報』や山東省・河北省・河南省・山西省・安徽省などの地域メディア・ネットワークを通じて被害者の身元や連絡先を探した[11]

支払状況[編集]

2009年12月までに、被害者986人のうち、520人の身元が判明し、このうち支給対象者(本人やその遺族)が存在し、和解を受け入れた479人に、賠償金25万円(日本円で支給)と奨学援助金5,000元(人民元で支給)が支払われた[11]

20数人は支払対象者となる近親者が存在せず、また10数人は和解を拒否した[11]

残りの4百余人については、2009年12月時点で居場所が判明しておらず、生存確認や、本人や遺族との連絡が取れていない[11]

記念館開設の働きかけ[編集]

花岡平和友好基金運営委員会は、花岡受難者聯誼会や日本の市民団体とともに、北京郊外・盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館の敷地内か隣地に「花岡労工記念館」を建設するよう中国政府や関係機関に働きかけを行ない、建設は実現しなかったが、抗日戦争記念館内で展示が行われるようになった[11]

人的交流の支援[編集]

2001年から2010年まで、花岡平和友好基金運営委員会は、花岡受難者聯誼会や日本の市民団体とともに、被害者やその遺族らで構成される数十人規模の代表団をほぼ毎年日本へ派遣した[12]。代表団は、大館市が主催する慰霊祭に参加し、また訪日期間中に日本国内で提起された他の戦後補償裁判の原告団と連携してデモ行進したり、内閣宛に請願書を提出するなどした[11]

運営への批判[編集]

原告・受難者の批判[編集]

2003年12月10日に、花岡事件の対鹿島訴訟での和解を拒否した原告団のうちの1人・孫力や他の遺族ら9人は、信託法に基づいて中国の紅十字総会を北京市東城区法院に提訴し、東城区法院から報告を受けた北京市高級人民法院の働きかけを受けて、同月22日、29日に、原告側弁護士と花岡基金管理委員会の張虎事務局長、紅十字総会の対外連絡部長・王小華らとの間で交渉が行なわれ、2004年1月13日付で下記の「会談紀要」が取り交わされた[13]

  1. 当分のあいだ、基金の支給業務に終了期限を設けないこと
  2. 中国紅十字会および花岡平和友好基金管理委員会は、今後基金の管理・支給業務において、またメディアに対して「賠償金」という表現を使用しないこと。
  3. 基金(管理)委員会の財務管理に関しては監査制度がある。今後、積極的に基金の受益人らの意見に耳を傾けていくと同時に適切な時期に受益人らに基金の管理・支給事業など関連事項を報告するようにする。

野田正彰の批判[編集]

その後、2008年に、野田(2008a,p.284)は

  1. 基金の運営委員会が5億円の慰霊金を「賠償金」として宣伝している
  2. 信託金の残余(消息が判明していない事件被害者にかかる信託金)の使途が不明瞭で、「北京の被害者代理人」である康健弁護士が公開を求めても基金が応じない

と批判した。

これに対して田中(2008,p.277)は、

  1. 呼称の問題は提訴に到らず話し合いで解決している。信託金は中国の税務当局から「賠償金」として認定され、非課税扱いになっている
  2. (2008年当時)北京を訪問した際に基金の事務局長に確認したが、「そのような(公開を求めた)事実は全くない」との回答だったし、基金の会計は紅十字会の下で毎年公認会計士による監査を受けている

と反論した。

これに対して野田(2008b)は、

  1. 提訴した後に交渉して解決したのであって、提訴に至らずに解決したのではない。「考える会」のホームページで「賠償金」の呼称が使われており、田中は「賠償金」の呼称にこだわっている。税務上、紅十字会の信託金の支払いは非課税になるのであって、それが賠償金であるかそうでないかの区別はない(2004年1月の合意の後に運営委員会や紅十字会が「賠償金」の呼称を使用したという事実関係の指摘ではない)
  2. 康健弁護士が運営委員会に要求したのではなく、康健弁護士が、カナダ抗日戦争史実維持会の列国遠会長が紅十字会へ行って公開を求めたが回答がない、と言っていたのだ(「康健弁護士が基金に照会した」のではなく、又聞き情報だった)

と反論ないし回答した。

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 李(2010)pp.102-103
  2. 林(2008)p.299
  3. 林(2008)p.301
  4. 新美(2006)pp.286-288,308
  5. 野田(2008b)p.296、林(2008)p.296
  6. 田中(2008)p.275
  7. 田中(2008)p.275
  8. 新美(2006)p.308
  9. 田中(2008)p.278
  10. 田中(2008)p.278、野田(2008a)p.282
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 李(2010)p.105
  12. 李(2010)p.105、新美(2006)pp.308-309
  13. 野田(2008b)pp.295-296

参考文献[編集]

  • 大館郷土博物館(2014) 大館郷土博物館 > バーチャル博物館 > 展示館2F > 花岡事件 2017年7月31日閲覧
  • 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
  • 田中(2008) 田中宏「花岡和解の事実と経過を贈る」『世界』2008年5月号、岩波書店、pp.267-278
  • 野田(2008b) 野田正彰「田中宏氏に反論する」『世界』2008年6月号、岩波書店、pp.291-297
  • 野田(2008a) 野田正彰「虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解」『世界』2008年2月号、岩波書店、pp.273-284
  • 林(2008) 林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』2008年7月号、岩波書店、pp.296-305
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3