羽田・成田戦争
羽田・成田戦争(はねだ・なりたせんそう)は、1978年に勃発した関東圏での内紛。帝都『大京浜』陣営率いる東京国際空港(羽田空港)と、新興勢力の『ピーナッツ・ディズニー連合』陣営率いる成田国際空港(成田空港、旧称『新東京国際空港』)によるより優等な空港を決める争いである。
目次
歴史[編集]
開港まで[編集]
首都圏の空は羽田空港が支配していた。一応調布飛行場も存在はしていたが、途中で米帝に手綱を明け渡すなど非常に誠意を欠いた対応を示した為、人情を欠いたベッドタウンの多摩地域にすら見限られた。
一方、羽田は最早捌き切れない便数に頭を悩ませていたため、新空港の開港計画はありがたいものだった。
しかし、厚かましくも正式名称を『新東京国際空港』とし、新幹線計画が策定された上、花形とも言える国際線を数多く取られることとなり立腹、成田を敵とみなすようになる。
1978年5月に成田空港が開港し、ついに羽田・成田戦争が始まった。羽田の懸念は的中し、正式名称によって訪日外国人や地名に疎い一部の日本人に「成田は東京にある」との誤解を招くこととなった。
1986年[編集]
成田新幹線の工事が終了した。
2002年[編集]
これまで成田空港の問題とされてきた滑走路の数の問題を解決するべくB滑走路を設置。ターミナルに関しても92年に2つ目のターミナルを設置、羽田に一歩近づいた。
2004年[編集]
成田が正式名称を『成田国際空港』に改める。『新東京』の名称に対する批判をかわして東京都民の利用率向上を図ったのであろうか。
2010年[編集]
羽田が遂に100年使っても大丈夫!なD滑走路を新設した。これによって空域や風量、風向に応じた柔軟な運用が可能になり、成田に再度水を開けた。
2019年[編集]
後手後手にまわった成田は何とか羽田に勝とうと3本目の滑走路を2029年に設置することを発表したが、その頃には人口減少などで需要が大きく減っていると思われる。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
おもな前線[編集]
冷戦と同じく大本営同士は大っぴらにドンパチできない為、子分同士の小競り合いが内外問わず続いている。
戦況[編集]
京急は京成と直通運転しているため、あまり大きな影響を及ぼさなかった。しかし、大東急帝国が羽田空港の開発に意欲を示すと、大手私鉄が続々参戦、更に京急が京成との直通本数を少なくすると、京急と京成は一触即発の事態となった。
現状はかなり羽田が大幅優勢。品川まで14分の京急エアポート快特、浜松町まで16分のモノレールと比べると、上野まで36分の京成スカイライナーは魅力的ではない。
内ゲバ[編集]
どんな優秀な経営者にも後継者争いという火種があるように、実はどちらの空港も順風満帆というわけではない。
京急対東京モノレール[編集]
横浜と川崎という神奈川県有数の人口密集地と、新幹線やリニアも通る大ターミナル駅、そして観光客をも乗換なしで運ぶ京急の勝ちが濃厚。正直『品川対浜松町』でも品川優勢のためモノレールは最初から勝ち目がない。強いて言えば23区の東側の需要は勝っているかもしれないが、その需要はほぼ無いに等しいので負け。需要・輸送量・速度と三拍子において劣っており、京急が事故を起こした際の振替輸送用路線。
京成対JR東日本[編集]
新幹線用の設備を既に京成に明け渡しており、成田エクスプレスが振替輸送に徹する。JRの路線が山手線沿いや多摩地域の客は回収するものの、あまりにも時間がかかるため誰も使わない。多摩の新鮮な花粉を千葉へ輸出し、外国人に花粉症の洗礼を授けている。
余談[編集]
成田では開港以前から農家を中心とする成田の一部の住民と野次馬の新左翼による反対運動が盛んで、成田新幹線の
など一定の成果を上げたが、農家は世代交代で少しづつ離脱していき、新左翼も運動から離脱した代々木派などとの罵り合いでドンパチする元気はなく、掘っ立て小屋を『ベース』と称し抵抗するテイを保っている。近年は成田空港側が強気に土地を召し上げている為、もはや反対運動側としては、住民は如何に華々しく散るか、新左翼は如何にこれ以上人気を落とさないかが焦点。
なお、この反対運動に羽田の関与があるかどうかは不明。
関連項目[編集]
|