竹俣慶綱
提供: Yourpedia
竹俣 慶綱(たけのまた よしつな、大永4年(1524年) - 天正10年6月3日(1582年7月21日))とは、戦国時代・安土桃山時代の武将。上杉謙信・上杉景勝の家臣。兄弟に利綱、親秀。子に勝綱、女子(安田顕元室)。官職は三河守。越後北部の有力国人である揚北衆のひとりで竹俣城主。法名は清岩宗光[1]。
略歴[編集]
長尾景虎(上杉謙信)の時代からの家臣で、永禄2年(1559年)10月28日に景虎が京都から帰国した際に家臣団は景虎に太刀を献上して祝賀したが、その際のひとりに名を連ねている。天正3年(1575年)2月16日の『上杉家軍役帳』では鑓67丁、手明10人、鉄砲5丁、大小旗6本、馬上10騎など98人の軍役を負担している。天正5年(1577年)12月23日の上杉軍軍団動員名簿『上杉家家中名字尽手本』にも名を連ねている[1]。
天正9年(1581年)4月から越中魚津城の守備に当たる。魚津城は織田信長の命令を受けた柴田勝家・前田利家・佐々成政らの猛攻を受けて天正10年(1582年)6月3日に落城し、慶綱は山本寺景長・中条景泰・吉江宗信・吉江信景ら城番の大将ら共々自刃した[1]。
参考文献[編集]
- 『上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明(1995年、新人物往来社)ISBN 4404021801
脚注[編集]
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・竹俣慶綱を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |