秀ノ山部屋
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秀ノ山部屋(ひでのやまべや)は、かつて存在した相撲部屋である。
沿革[編集]
柏戸部屋所属の和哥浦(わかのうら)が二枚鑑札で襲名し、四股名も秀ノ山傳治郎と改めた。二所ノ関部屋や佐野山部屋より弟子を一時預かった(大関秋津風音右エ門、大関四賀峰東吉など)。自身の弟子では大木戸森之助、大岬丈右衛門、源氏山吉太夫の3人の大関を輩出している。文政6年(1823年)7月に師匠が死去。その後部屋の元大関源氏山吉太夫が継承した。
源氏山の弟子からは第9代横綱秀の山雷五郎が誕生した。天保15年(1844年)4月に源氏山の親方が死去。後を秀の山が継いだ。その後を元十両で、すでに若松を襲名し独立していた大江山源治が継ぎ、文久3年(1863年)11月から幕内鹿嶋灘鰐右エ門が二枚鑑札で襲名した。弟子の中から達ヶ関森右エ門、天津風雲右エ門らが育った。明治26年(1893年)8月に鹿嶋灘の親方が亡くなると幕内天津風が二枚鑑札で跡を継いだ。天津風は明治41年(1908年)1月を以って引退し年寄専務となった。その後幕内男嶌舟藏を育てるが、大正3年(1914年)9月に死去。その当時幕内から陥落していた男嶌ら所属力士は出羽ノ海部屋へ移籍した。