福本和夫
福本 和夫(ふくもと かずお、1894年(明治27年)7月4日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は日本のマルクス主義思想家・経済学者・科学技術史家・思想史家。戦前期の日本共産党(第二次共産党)の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。当時の筆名は「北条一雄」(出身地の下北条村にちなむ)。
人物概要[編集]
1920年(大正9年)東京帝国大学法学部卒業。松江高校、山口高商教授を経て、1922年(大正11年)文部省在外研究員として欧米に2年半留学、マルクス主義研究に没頭する。
帰国後、日本共産党に入党し「社会の構成並に変革の過程」を嚆矢(こうし)とするいわゆる福本イズムを生み出し、当時の学生に多大の影響を与え党政治部長に就任したが、「27年テーゼ」で失脚した。1928年(昭和3年)逮捕され、14年間入獄。1950年(昭和25年)復党し統一協議会を結成して独自の活動を展開したが、綱領規約決定などで党の中央路線と対立、1958年(昭和33年)ごろ除名処分となったと思われる。
その後は農業問題、日本ルネッサンス史の研究に専念した[1]。
生涯[編集]
鳥取県久米郡下北条村(旧北条町、現東伯郡北栄町)に福本信蔵の三男として生まれた。
旧制倉吉中学校、旧制第一高等学校を経て1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業。
松江高等学校教授在任中、ドイツに留学しフランクフルト大学社会研究所でルカーチ・コルシュらの指導のもとマルクス主義哲学を研究した。
1924年(大正13年)に帰国し、山口高等商業学校教授に転任。帰国直後『マルクス主義』に掲載された論文「経済学批判のうちに於けるマルクスの『資本論』の範囲を論ず」で、福田徳三・河上肇・高畠素之ら先行の資本論研究者を批判し、一躍注目を浴びた。その後山口高商を辞職して上京、当時弾圧により一時解党していた日本共産党の再建を図り、1925年佐野学により結成された「共産党再建ビューロー」に参加した。さらに当時の社会主義運動のなかで大きな影響力を持っていた山川均の論文「無産階級運動の方向転換」(1922年)を批判し、論文「方向転換はいかなる諸過程をとるか」で「分離⇒結合」論を主張した。
1926年(大正15年)12月に五色温泉で日本共産党第3回大会が極秘に開催され党の再建がなる(第二次共産党)と、理論的指導者として大きな役割を果たした。「過程を過程する」など、抽象的かつ難解なレトリックにいろどられた彼の一種独特な文章はたちまちのうちに学生・知識人の人気を集め、その理論は福本イズムと呼ばれ共産党員や党周辺の活動家の間で圧倒的影響力を持った。
党政治部長に就任した後、コミンテルンの「27年テーゼ」で福本イズムが批判されたために失脚、党内での影響力を失った。1928年(昭和3年)6月、三・一五事件に連座して検挙された。その後1942年(昭和17年)まで14年におよぶ獄中生活を送り、獄中で後述する「日本ルネサンス」研究の着想を得た。
第二次世界大戦後に釈放されしばらく療養し、1950年(昭和25年)党活動に復帰した。コミンフォルムの日本共産党批判に端を発する50年問題では統一協議会を組織して党の再建を主張、六全協後には党中央との対立を深め1958年党より除名されたと思われ、これ以降は独立したマルクス主義者の立場を取った。ただ、福本和夫が除名されたのかどうかは、今日確認しえない(関幸夫『山川イズムと福本イズム』新日本出版社)。戦後の福本は、近世の捕鯨技術などの研究により「日本ルネサンス」論の構築をめざした独特の科学技術史家として知られている。
中華人民共和国の文化大革命を、一定の留保をつけながらも支持した。
『福本和夫初期著作集』(全4巻)がこぶし書房から刊行されている。また、全10巻となる予定の『福本和夫著作集』がこぶし書房から刊行中である。
家族[編集]
- 長男・邦雄(画商)
- 政財界の深部に入りこんでフィクサーとして暗躍した。著書『表舞台裏舞台―福本邦雄回顧録』
- 1927年(昭和2年)出生。1951年(昭和26年)、産経新聞入社、記者兼研究員として勤務。1959年(昭和34年)、同社より第二次岸内閣の椎名悦三郎内閣官房長官秘書官に出向。1961年(昭和36年)に独立、フジコンサルタント、フジ出版社、画廊フジ・アートの経営に当たる。1989年(平成元年)テンプレート:年代要検証、旧KBS京都(京都放送)社長に就任。2000年(平成12年)、中尾栄一元建設大臣の収賄容疑の共犯者として逮捕される。
参考文献[編集]
- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 847頁
関連事項[編集]
脚注[編集]
- ↑ 『鳥取県大百科事典』847頁