神経性無食欲症
神経性無食欲症(しんけいせいむしょくよくしょう、anorexia nervosa: アノレクシア・ネルヴォーザ/ナーヴォサ、AN)は精神疾患のうち、摂食障害の一種である。一般には拒食症(きょしょくしょう)とも言われる。自己の容姿に不満がある若年層に好発し、ボディ・イメージの障害(「自分はデブである」と考えること)、食物摂取の不良または拒否、体重減少を特徴とする。神経性食欲不振症、神経性食思不振症とも言う。
総論[編集]
神経性無食欲症は、心理的要因・社会的要因・生物学的要因によって生じる、摂食行動を主な表現形とする精神疾患である。特に、心理的要因(ストレス)によるところが多く、慢性経過をとることが多い。近年、日本において増加傾向にあり、また経過途中で抑うつを伴ったり身体的疾患を合併することもあり、社会に与える影響も大きい。
典型的なANの患者では、体重を落とすために始めたダイエットで達成感が得られ、体重を落とすことを止められなくなってしまう。低体重であっても自分の体重を多すぎると感じ、さらに体重を減らすことを望む。鏡を見ても「まだまだ痩せられる」と感じるのみであり、体重が低すぎるとは考えない。
宗教上の理由から断食をする場合、政治的目的から断食によるストライキを行う場合、あるいはカロリーを制限することで長寿が達成できるという健康上の信念を持っている場合に、食事を摂らないか極端に食事の摂取量を減らす例があるが、これらはANではない。
時にANは、神経性大食症(過食症)や、その他非定型性の摂食障害へと、病像が変化する場合がある。
疫学[編集]
社会的要素を含む疾患であるため、その病態は国によっても異なる。ダイエットが若年層の一大関心事である日本におけるANは、若年層、特に青年期の女性に非常に多いことが特徴である。若年男性でのANの発症も見られることがあるが、男女比はおよそ1対20である。発症年齢が年々低年齢化しており、小学生での発症も増加している。治療は一般に困難であり、長い時間がかかる。合併症や自殺のために経過の途中で死亡する例もある(5%~15%程度)。
一方で、近代的なダイエットとは無縁のアフリカの地方部においてAN様の病像を呈する症例の報告があり、宗教的信念との関連が考えられている。
症状[編集]
ANは、精神神経疾患の中では、致死率が最も高い疾患のなかのひとつであり、最終的な致死率は5%-20%程度である。主な死因は、極度の低栄養による感染症や不整脈の併発である。患者は自己の体重が減少することに満足できるため、自殺が死因となることは神経性大食症(過食症)と比較して少ないが、 抑うつ症状を伴うこともあり、自殺企図をきたす症例もある。
- 極度の体重減少
- 女性の場合、無月経
- 活動性の上昇、易興奮性、睡眠障害
- 抑うつ症状
- 食物への興味の上昇…しばしば料理関係の情報を収集する
- 強迫的な思考
- 自傷行為
- 手掌・足底の黄染(高カロテン血症)
- 低血圧
- 便秘、腹痛
- 電解質異常、特に低カリウム血症
- 骨粗鬆症
- 続発性甲状腺機能低下症
電解質異常は、特に利尿剤の乱用が見られる症例では起こりやすく、時に低カリウム血症から致死性の不整脈をきたし、急激に死に至ることがある。
また、これらの個人に属する症状に加えて、極度の体重減少や易刺激性が、周囲との関係不良をもたらすことも大きな問題となる。
診断[編集]
DSM-IVの診断基準では、「標準体重の85%の値を維持することを拒否する」「体重が減少しているときでも、現在の体重が増加することに対して恐怖がある」「標準体重に満たない場合も、自分自身の体重を多すぎると感じる」「(初潮後の女性の場合)3周期以上に渡る無月経」の4項目を診断基準としている。
さらに、
- 活動性の亢進があること。体重を落とすため、必要以上の運動・活動を行うこと。
- 現在の病状、深刻性について、認識に乏しいこと。
を組み合わせて診断を行う。診断基準に完全には合致しない場合に、非定型摂食障害(特定不能の摂食障害)の診断になることがある。例えば月経が不順ながら存在し、その他はANの基準を満たす場合、非定型摂食障害と診断される。
摂食障害の患者は時に診療を拒否し、問診の際に症状を隠す傾向にあるため注意が必要。
ANは、以下の2種類のサブタイプに分類される。
- 制限型神経性無食欲症(AN-R)
- 制限型のAN(restricting type)では、食物を口にすることを重度に制限するが、AN-BPに見られるような行動は行ったことがない。
- 無茶食い-排泄型神経性無食欲症(AN-BP)
- 無茶食い-排泄型のAN(binge-eating/purging type)では、食物を過量に摂取した後、自分で嘔吐を誘発して、あるいは利尿剤、下剤等を用いて、食物の排泄を試みる、というエピソードを行う。(しかし、下剤や利尿剤では食物の吸収をほとんど妨げることはできない。)排泄する代わりに、無茶食いの後に数日間絶食する場合もある。
2002年の「DSM-IV-TR」の診断基準も同様である。
その他の診断基準として、厚生労働省の診断基準やICD-10の診断基準も存在する。
歴史[編集]
- イングランドの上流階級における拒食症の存在
ANは現代の精神病として認識されがちであるが、その歴史は意外と古い。イングランドでは、1694年にジェイムズ二世の侍医であったリチャード・モートンが、現在ANと認められる症例を二例初めて病気として記述している。また、1873年にはヴィクトリア女王の侍医であったウィリアム・ワイジー・ガル卿が極端な体重の減少、食欲不振、無月経等の主症状があり、かつ自分では病気との自覚がない症例をANと認識していた。
- 紫式部の源氏物語における拒食症の描写
日本においても、ANが昔から精神の病として存在したことは、文学作品である『源氏物語』に窺い知ることができる。『源氏物語』第三部の宇治十帖で夭折する大君は、没落した宮家の姫君であり、経済的基盤のある身内がいない。大君の父の八の宮は主人公の薫に娘である二人の姫君の後見(結婚のこと)を託して死亡する。結婚したくない大君は代わりに妹を薫に娶せようとするが、妹は次の東宮と目される匂宮と結婚してしまう。しかし、正妻になる社会的地位を有さない妹と匂宮との結婚生活が苦渋に満ちたものであることを知った大君は、自分が薫と結婚しても同じことになると悟り、ANに罹って衰弱死するのである。
このように、中世においても、上流階級においては、現代と同様にANが存在したことがうかがえる。
原因[編集]
ANの発生原因については議論があるが、生物学的要因・心理的要因・社会的要因の3つの要素があると考える人が多い。
- 生物学的要因についても様々な研究が報告されている。あきらかに器質的な脳の病変の存在は明らかにされていないが、二卵性双生児よりも一卵性双生児の方が一致率が高いこと、AN患者の家族にはうつ病、アルコール依存、強迫性障害や摂食障害が多いことから遺伝的要因の関与も考えられている。ANの発病に関連する遺伝子がいくつか見いだされてはいるが、結論は出ていない。視床下部におけるドパミン、ノルアドレナリン活性の異常を指摘する研究もある。
- 心理的要因が発病に影響しているのは明らかであり、ANの発病前には、発病に関連する何らかのエピソードが見出されるのが通常である。幼少期に性的虐待を含む虐待を受けること、あるいは高学歴であること、裕福な家庭に育ったことなどがANの発症の可能性を増加するという報告もある。その他にも精神力動学的に様々な考察がなされている。
- 性的な成熟に対する恐怖・女性であることの否定。自己実現が「女らしくない」とされることに対する絶望感。
- 自立できないこと、身内(男性)に依存しなければならないことに対する葛藤。
- 男性の性的対象とされることへの拒絶、夫に依存する母親となることの拒否。
- 母親からの分離の問題・母親の拒絶:食べ物が母乳などを含む「母親のよい部分」を象徴するとみなすことができ、摂食拒否によって母親を拒絶しているという説。
- 性差別を受ける存在である女性であることの嫌悪感・ストレス。高学歴や富裕層の子女に拒食症が発生しやすいのは、高学歴層や富裕層においてのほうが、男女間の扱いについての格差や差別を感じる機会が多いとする説要出典。
- 対人関係の障害:原因なのか結果なのかは不明であるが、対人関係に障害を有する症例が多い。
- 失感情症(アレキシサイミア):自らの感情に気づくことができない・できにくいことを「失感情症(アレキシサイミア)」という。ANも失感情症の要素があることが指摘されており、自らのストレスやつらい気持ちに気づかず(否認して)、その代わり身体症状で表現しているという可能性がある。
- 嗜癖(依存症)としての要素:ANの初期に、摂食量を制限して体重が減るという結果を得て満足し、更に摂食量制限にふけり、独特の気分高揚を示すことがある。この心性は薬物依存やギャンブル依存などの嗜癖行動との共通点があると言われている。
- 社会的要因もANの発症に関与している。メディアにおいてやせた女性、元気で快活な女性が賞賛され、内面よりも外見を重視するような風潮は、ANの発症の大きな要因であろう。
2006年現在、当疾患および神経性過食症をあわせた「中枢性摂食異常症」は厚生労働省の特定疾患に該当し、重点的に研究が進められている。
治療[編集]
他の精神疾患がそうであるように、ANも社会的・精神的・肉体的な要素を併せ持つ複雑な疾患である。早期の治療は治療の成功率を高める。
治療法は、入院・外来での疾患教育、認知行動療法や集団療法などの心理療法、薬物療法、家族のカウンセリングなどが中心となる。患者が病気であることを否認する場合や、ANの存在を容認したとしても治療には拒否の姿勢を示す場合はよくみられる。さらには、治療を認める姿勢を見せて、実際には出された食事を隠れて捨てる、などの行為も少なからず見られる。
治療にあたっては、体重増加のみを治療目的とすべきではない。「とにかく食べろ」といった強硬な姿勢を家族や治療者が見せることは、通常逆効果となる。長い間ANと戦っている患者にとって、食物を食べること自体が大変な苦痛・恐怖につながるためである。また体重増加以外にも、患者の主体性を重視し、人間としての成熟、対人関係の充実、実生活での適応などを援助することが重要だからである。以上のように、適切な医師-患者関係、家族-患者関係を築くことが最も大切である。
インターネット等で摂食障害患者、元患者との交流を持つことがよい影響をもたらす場合もある。
治療により軽快した場合、再発や、神経性大食症の発症に注意する必要がある。
厚生労働省の特定疾患に該当し(前述)、治療法についても重点的に研究が進められている。
社会とAN[編集]
- フェミニスズムは、その思想に染まると拒食と過食を繰り返すため、体に悪い。
- オーストリアのエリーザベト皇后も、嫁姑問題を契機にANを発症したといわれている。
- 日本では、ANは一般的には「拒食症」の名前で知られており、その患者の実態は、たびたびドキュメンタリーとしてマスコミに取り上げられることがある。カーペンターズのカレン・カーペンターが拒食症から心臓発作を起こして死亡した際に、本症は日本やアメリカで大きな注目を浴び、注目される疾患となった。
- 東電OL殺人事件の被害者女性も慶應義塾大学を卒業し総合職として東京電力に入社した30代独身のエリート社員であったが、セックス依存症の性癖とANの双方を発症していた。
- BMI値が拒食症者と同等であろう女性芸能人達を「スタイルが良い」、「目指すべき体形」ともてはやしている現代のメディアにも問題があるという見方がある一方、鋭い感性の持ち主である少女たちはメディアの提案する流行に乗せられるような存在なのではなく、彼女たちの美意識にメディアが応えているにすぎないのだから、メディアを責めるのは筋違いだという意見もある。
- 貴族階級を含む上流階級にANが多いことから、天皇制廃止論が主張されることがある。