正倉院宝物盗難事件
正倉院宝物盗難事件(しょうそういんほうもつとうなんじけん)は奈良県奈良市の東大寺脇の正倉院 に保管されている宝物が盗難にあった事件である。
概要[編集]
正倉院は勅封蔵(勅封倉)制度により、天皇の勅使でなければ宝物倉を開けることが出来ない制度によって守られてきた。 ところが歴史的には過去に盗難事件が何回か起きている。それらについてまとめる[1][2][3]。
判明している盗難事件[編集]
長歴三年盗難事件[編集]
1039年(長歴三年)3月3日、僧長久・菅野清延が北倉に侵入し、銀300両を盗み出したが、5月18日に捕らえられた[4]。高床の下から床板の一部を焼き穿ち、そこから侵入したと考えられる。
長暦三年三月三日夜、盗人焼穿勅封蔵、窃取宝物、長久二年 (中略)十二月廿九日、自検非違使庁、糺反黄金等送之、別当所司五師検校封納印蔵 (「東大寺別当次第」『群書類従』)
寛喜二年盗難事件[編集]
1230年(寛喜二年)東大寺の僧顕識、春蜜等が中倉に侵入し、鏡八面、銅小壺1個、銅小仏三体を盗み出した[5]。
同年(寛喜二年)十月廿七日降雨 今日終夜、盗人焼開東大寺勅封倉中間、盗取宝物之由、以年預五師状申寺務、廿八日戌剋到来、仍自別当、同廿九日辰刻相具五師状、以公人国貞遣長官家光許了、即大衆令蜂起、郷々求之中門台後戸階置之、盗渡之立彼橋登蔵上、焼穿鏘根一尺余、開門戸入蔵内云々、 (下略) 同寛喜二年十月廿七日夜、群盗焼穿正蔵院中倉、盗取宝物了、仍為知紛失物、(中略) 十二月七日被遣勅使、実検宝物、 (下略) (「東大寺続要録 宝蔵篇」『続々群書類従』)
雨の夜に盗賊は、中門堂の後戸の階段を持ち出し、これを正倉院の縁側に立ち渡し、蔵の上に登り、中倉の扉の錠の根元を焼き切って門戸を開き、庫内に入って宝物を盗んだ。 中倉に仮納中の北倉の宝物のうち、鏡8面、銅小壺1口、銅小仏3体であった。 主犯は、元東大寺僧の春蜜と顕識らであった。 犯人らは、白銅鏡を銀とみて、これを小さく砕いて京都へ持参し売ろうとしたが安いため、大仏殿前の五百余所社の社殿に包んで積み置き、そしらぬ体でいた。
ところが、吉野山蔵王堂の前執行の下人が、大和国葛城上郡の僧顕識の挙動に不審をもち、正倉院宝庫破りの犯人らしいと言い出した。11月28日、興福寺の衆人が逮捕に向かったところ、顕識が抵抗し、興福寺の僧・延実、弘景の兄弟と斬り合いになった。顕識は弘景に打ち伏せられて縛につき、糾問の結果、首謀者は元東大の僧円詮(春蜜)であること、贓品の隠し場所など一切のことを自供した。円詮は東大寺の五師(5人の執事)の一人であるが、実遍殺害の下手人でもあった。潜伏先を捜索したが、もぬけの殻であった。しかし、居場所が知られて春密も捕縛された。 12月25日、顕識と舎弟法師・春密と共に、佐保山で斬首され、首は奈良坂にさらされた。
盗まれた鏡は寛喜三年3月に正倉院に送り返された。四十四片に分かれた一面の鏡(花鳥背八角鏡)は詳細な実況見分図が残されている。図の通り復元すると、「無」と記された4片の破片が足りなかった。明治時代に接合復元され、往時の姿を取り戻した。新片と破片同士をつなぐ鎹に銀が使われた[6]。
寛喜二年盗難事件[編集]
1328年(嘉歴三年)、このときの犯人は特定できなかった[7]。
安倍友清が占って逃げた方角や、宝物発見の見込みが示され、「東大寺関係者が犯人に交じっている」との占いがでたが、それ以上は判らなかった。
慶長十五年盗難事件[編集]
1610年(慶長十五年)7月21日、東大寺塔頭の僧が、北倉の床板を切り破って宝物を盗み出した。 奈良が台風に見舞われ、大仏殿の仮上屋が大風により倒れた。大仏殿は、1567年(永禄10年)、三好・松永の合戦による兵火で焼失し、復興されないまま仮上屋であった。散乱した材木の取り片付けに塔頭の福蔵院、北林院、中証院の三人が指揮した。ところが三人は、涼をとる格好で正倉院宝庫の下に集まり、宝庫を破って宝物を盗る相談をはじめ、北倉の床板を切って宝物を奪った。1年半経過した1612年(慶長17年)3月下旬に塔頭の上生院、無量寿院、清涼院3人が、「内々不思議な売り物が方々から出ている」といううわさを耳にする。 宝庫を調べた処、はじめて北倉が破られていることが判明した。南都奉行に訴え出て、東大寺僧侶全員を集めた現場検証の結果、福蔵院等3人と僧・学順が捕えられた。その後、京都所司代が嫌疑の者と買い手を対決させると、すべてを白状するに至った。犯人は猿沢の池のほとりに籠詰にされ、さらし者とされた。1613年(慶長18年)、中証院が牢死し、1614年(慶長19年)2月、残りの3人は奈良坂で磔に処せられて、事件は落着した。佐波理の皿や碗などが持ち出されて売却されたとされるが、盗難の全容や、回収品は不明である[1][6]。