松下忠洋
松下 忠洋(まつした ただひろ、1939年(昭和14年)2月9日 - 2012年(平成24年)9月10日)は、日本の建設官僚、政治家。
建設省河川局砂防部部長、衆議院議員(5期)、衆議院内閣委員長、内閣府特命担当大臣(金融担当)、国民新党副代表・鹿児島県支部代表などを歴任した。
目次
来歴[編集]
生い立ち[編集]
鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)出身。高城村立高来小学校(現・薩摩川内市立高来小学校)、川内市立川内北中学校(現・薩摩川内市立川内北中学校)、鹿児島県立川内高等学校を経て、京都大学農学部を卒業した。
官界にて[編集]
1962年(昭和37年)、建設省に入省した。1970年(昭和45年)より、外務省に出向し、経済協力局にて勤務することとなった。また、1973年(昭和48年)には、インドネシアの公共事業省にて勤務した。1992年(平成4年)、建設省を退官した。
自民党時代[編集]
1993年(平成5年)7月の第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し、鹿児島県第2区にて初当選。平成研究会(小渕派)に所属した。小選挙区比例代表並立制の導入により、同じ鹿児島県第3区を地盤とすることになった宮路和明と選挙区調整を行い、1996年(平成8年)は小選挙区、2000年(平成12年)・2003年(平成15年)の総選挙では九州ブロック比例区単独で出馬し、4期連続当選。第1次小泉内閣では内閣府副大臣を務めた。
郵政造反から落選[編集]
2005年(平成17年)7月5日の郵政国会では郵政法案に反対票を投じた。このため、同年9月11日の総選挙では自民党の公認を得られず無所属で出馬し、自民党公認の宮路に破れ落選。この際、引退を表明したが2007年(平成19年)の参院選では民主党候補を応援し、政治活動を再開する。
国民新党への入党から当選[編集]
第45回衆議院議員総選挙において民主党県連などが出馬要請していたが固辞し、自民党時代から縁の深い綿貫民輔らの要請で国民新党に入党、同党の公認で出馬する意向を表明した。前回は独自候補を擁立した民主党も推薦することを決め、共産党も既に同選挙区から撤退しているため、自民現職の宮路と事実上の一騎打ちとなり、28,409票差で初の勝利を果たした。党副幹事長に就任。
2009年(平成21年)9月16日、鳩山由紀夫内閣において経済産業副大臣に就任した。鳩山内閣の副大臣では最高齢である(70歳)。
その後、菅内閣、菅第1次改造内閣、菅第2次改造内閣でも経済産業副大臣に再任された。東日本大震災発生後は、国会議員としていち早く、現地福島県に入り復旧支援活動・原発問題に関する陣頭指揮を取る。
2011年(平成23年)9月に発足した野田内閣でも経済産業副大臣に再任された。2012年(平成24年)2月10日、復興庁の設置に伴い野田第1次改造内閣において経済産業副大臣を退任し復興副大臣兼内閣府副大臣に就任。福島第一原子力発電所事故による災害からの復興を担当。
初入閣[編集]
2012年(平成24年)6月、内閣改造に伴い成立した野田第2次改造内閣では、内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した。また、国務大臣としての所管事項として「新たな郵政民営化法等に基づく郵政事業の改革を政府一体となって円滑に推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当することになった。
突然の自殺[編集]
2012年(平成24年)9月10日17時前、東京都江東区東雲の1人暮らしの自宅マンションで倒れているのが、妻と秘書官、警視庁警備部の警護担当者により発見された。18時前、港区の虎の門病院へ緊急搬送されたが、死亡が確認された。現職の閣僚の自殺は2007年6月に自殺した松岡利勝・農林水産大臣(当時)以来で、日本国憲法下では2例目。現職の衆議院議員の自殺も松岡以来。死亡当日の午後に金融庁で予定されていた会議に本人が「行けなくなった」として出席していなかった。現場の状況から警視庁東京湾岸警察署は首を吊って自殺を図ったとみて捜査を開始し、その後の捜査で松下の自室に内閣総理大臣:野田佳彦と内閣官房長官:藤村修、そして夫人に当てた遺書がそれぞれ見つかったことから警視庁は死因を自殺と正式に断定した。
松下急逝の報せを受け、総理の野田は首相官邸でのインタビューに「とても驚いている。言葉も見つからない。心からご冥福をお祈りいたします。」と答え、19時37分に虎の門病院に弔問に訪れた。所属する国民新党の自見庄三郎代表は、「前立腺の病気があったが完治し、ことし6月に閣僚になるときには、『もう大丈夫だ』ということだった。」「地味だが真面目にこつこつ仕事をし、私も誇りに思っていた。」と述べた。また、松下の遺体と面会した亀井静香元国民新党代表は「ことしの春、松下氏は、癌で病院に入院していたことがあり、お見舞いに行ったことがある。亡くなられた詳しい状況や死因は分からないが、お悔やみ申し上げたい。」と述べた。
なお、松下が亡くなったことにともない、財務大臣の安住淳が内閣府特命担当大臣(金融担当)事務代理を務めることとなった。
なお、松下が自殺した日の3日後に発売(9月20日号・一部地域ではすでに発売済)される週刊新潮の『73歳「松下忠洋」金融担当大臣 痴情果てなき電話と閨房』と題された記事で、松下前大臣の女性問題をスクープした記事が掲載されていて、因果関係を指摘する声もある。
松下金融相からの手紙を愛人(70)が公開「肌を重ねた熱いベッドを胸キュンで思い出しています。・・きれいなA子姫様」[編集]
2012年9月10日に死亡した松下忠洋・金融担当大臣(73)と20年 にわたって付き合いがあったという女性の話が、週刊新潮(9月20日号)に載った。大臣はこの件で取材も受けており、これを苦にしたとも考えられる。自殺の可能性が高いとして、警視庁は司法解剖は行なわない予定だ。
「裏表のある人間だと世の中に知ってもらおうと思ったから…」
記事は「70歳愛人を怒らせた情交21年の後始末」というもので、最近疎遠になった愛人がいきさつを暴露した内容だ。「結局、私は都合の良い女だと思われていたんです」「『愛してる』なんてメールを送ってきますが、私の思いに真摯に向き合っているとは到底思えません」と、これが暴露の動機らしい。
女性は松下と同じ鹿児島出身で、知り合ったのは建設官僚時代の1991年だった。手紙のやり取りを経て「ホテルで男女の関係になりました」という。松下は93年の衆院選で初当選し、その後も不倫関係は続いた。女性は松下の手紙も公表した。
「A子さま いつもこまやかな心のこもったお便りありがとう。初めて肌を重ねた熱いニューオータニの朝のベッドを胸キュンで思い出しています。いつのまにかおなかを出して、スキだらけで眠ってしまっているA子姫の白い肌をドキドキして思い出しています。きれいなA子姫様」
女性は「松下さんは、『お化粧代』としてお金を渡してくれました。だいたい5万円から10万円、多くて30万 円でした」とも話している。
3年前、経営していた神戸のラウンジを閉め、鹿児島へ戻った。しかし、松下は鹿児島へ来ても連絡もくれず、それを電話で問いただすと、無言で切られた。「裏表のある人間だと世の中に知ってもらおうと思ったから」暴露したとしている。
「週刊新潮」の取材に松下は「(昨年は原発現地対策本部長として)福島に打ち込んでいて、全く外界との関係がなくなってしまい、彼女ともそういうこと になってしまった。二人は友人関係、いや確かに男女関係ですが、彼女を裏切ったということは毛頭ない」と語っていた。
先月末に食事した鈴木宗男あてにも遺書
松下は3通の遺書を残していたが、他にもう1通、親交のあった新党大地の鈴木宗男氏あてのものがあった。その鈴木は8月30日に2人で食事をしていた。
そのときは「次の選挙をがんばる」と話していたという。遺書については、「出会ってよかった。この先こうやれという励ましの言葉だった。しっかり胸にきざんで生きていきたい」という。
松下は7日の国民新党の集まりに出て、それまではいつも通り。8、9日に鹿児島に帰ったが、「何かあったとすればこの間。東京へ戻っての決断なのかな」と鈴木はいう。
経歴[編集]
- 1962年(昭和37年)
- 1991年(平成3年)6月 建設省砂防部長
- 1993年(平成5年)7月 衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬し初当選。以後連続4期当選。
- 1998年(平成10年)7月 小渕内閣で農水政務次官に就任。
- 2005年(平成17年)9月 自民党を離党し、無所属で総選挙に出馬し落選。一旦、政界引退を表明。
- 2009年(平成21年)
- 8月 第45回衆議院議員総選挙に鹿児島県第3区より国民新党公認で出馬し、自民前職の宮路和明を破り5期目の当選。
- 9月 鳩山由紀夫内閣において経済産業副大臣に就任。
- 2012年(平成24年)
政策・所属議連[編集]
- 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(事務局長代理)
- 国籍法改正慎重派
- 平和を願い真の国益を考え靖国参拝を支持する若手国会議員の会
- 朝日新聞の外国人参政権に関する質問に「反対」と回答
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 国民新党 松下忠洋公式サイト - 松下の公式ウェブサイト
- 松下忠洋 official webnews - 松下のブログ