東芝COCOM事件

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東芝COCOM事件(とうしばココムじけん)とは、1987年に日本で発生した外国為替及び外国貿易法違反事件である。共産圏へ輸出された工作機械によりソビエト連邦の潜水艦技術が進歩しアメリカ軍に潜在的な危険を与えたとして日米間の政治問題に発展した。

事件の発生[編集]

静岡県沼津市に本社を置く東芝機械は、国内工作機械の大手メーカーであり総合電気メーカー東芝が50.1%の資本を出資した子会社である。東芝グループ全体における東芝機械の売上は10%程度であり、東芝機械の共産圏への輸出額は売上全体の20%以下であった。

東芝機械は1982年12月から1984年にかけて、ソビエト連邦技術機械輸入公団へ『工作機械』8台と当該工作機械を制御するためのNC装置及びソフトウェアを輸出した。この機械は同時九軸制御が可能な高性能モデルであった。

1982年から1983年にかけて機械本体が輸出され、修正ソフトは1984年に輸出された。東芝機械の子会社・和光交易モスクワ事務所長の熊谷独は、ソ連から引合のあった『工作機械』は共産圏への輸出が認められていない点を認識した上で、輸出する機械は同時二軸制御の大型立旋盤の輸出であるとの偽りの輸出許可申請書を作成し、海外にて組み立て直すとして契約を交わした。

輸出を管理する通商産業省もこの許可申請が虚偽であると見抜けなかった。

この取引を知ったアメリカ合衆国政府は、この輸出が日本も参加していた対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に違反しており、さらに国防総省はソビエト連邦海軍の攻撃型原子力潜水艦のスクリューの静粛性向上に貢献したと考えた。

1987年3月朝日新聞による報道が事件の第一報となった。

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捜査[編集]

1987年の4月30日警視庁が東芝機械の家宅捜索を行い、5月15日に通産省が東芝機械に対して共産圏向け輸出の1年間停止の行政処分を下し、5月27日に虚偽申請について国内法である外為法違反により東芝機械幹部2人を逮捕し東芝機械と共に起訴され裁判が行われた。

1988年3月22日東京地方裁判所において判決が下され、東芝機械が罰金200万円、幹部社員2人は懲役10月(執行猶予3年)及び懲役1年(執行猶予3年)の量刑が下された。

親会社である東芝は佐波正一会長および渡里杉一郎社長が辞職をした。これはアメリカから見れば責任をとって辞任したと考えられるため現地法人では大きな衝撃となった。重電畑出身で東芝生え抜きで初のトップとなった佐波会長の任期は短かったが、やはり技術畑の生え抜きである青井舒一が後継者となった。

外交問題化[編集]

アメリカ合衆国では東芝の製品を輸入禁止とするなど問題に対して厳しく対応した。ホワイトハウスの前では連邦議会議員が東芝製のラジカセやTVをハンマーで壊すパフォーマンスを見せるなど感情的な反応も見られた。議会において東芝追及の中心人物であったハンター下院議員は、輸出によりアメリカ兵が命の危険にさらされたと東芝を厳しく批判し、さらにアメリカの原潜がソ連原潜を探知できる範囲が50%減少したため5から10年内に300億ドルを投じて30隻の新型原潜を建造する必要が出てきたと主張した。これらのアメリカにおける反応は巨額の対日赤字を計上していた経済摩擦が原因であるとの意見もある。

東芝はこの事態に対して1987年から2年間にわたり、議会における制裁内容を和らげるためのロビー活動を行なった。東芝が投入した費用及びロビイストの数、活動規模はそれまでで最大と評された。ロビイストの弁護士ホウリハンは東芝と東芝機械は別個の会社であると主張しある程度の成功をみたが、行き過ぎたロビー活動が批判され、米国における「外国ロビー法規制強化」法案上程のきっかけとなった。

佐々淳行の回想[編集]

1987年(昭和62年)のある日、米国大使館のリーガン法務官(リーガル・アタッシェ=FBI 代表)がアポをとったうえで内閣安全保障室の筆者に会いに来た。

筆者のカウンター・パートは、チャイルドと呼ぶ FBI 要員とビル・ウェルズ一等書記官 (CIA) であって、リーガンとは初対面であった。会ってみるとこの御仁、とんでもない話を始めた。

「1986年末頃、在京アメリカ大使に宛てた一通の封書が届いた。差出人は『熊谷独』という東芝の子会社『東芝機械』のモスクワにおけるダミー会社『和光交易』の商社マン。封書は、東芝機械がココム規制に違反して大型工作機械を第三国のノルウェーを迂回させソ連に不正輸出しているという告発状で、自分はモスクワ在勤中 KGB のハニー・トラップにかかり、日本帰国後も東京まで迫ってきたその女性に脅迫されていて殺されそうになっているとアメリカへの亡命、身辺保護を願い出ている」

というのである。なぜ筆者を訪ねてきたのかと問うと、

「告発者熊谷独氏をワシントンに亡命させ、調書をとったところ、米国に対する重大な軍事的脅威であり、ひいては日本の安全をも脅かす重大な技術スパイ事件であることが分かり、米国政府は日本の外務省、警察庁、防衛庁 (当時) に正式に調査依頼をしたが、『そのような事実はまったく承知していない』『当該技術はノルウェーに向けての大型工作機械スクリュー輸出で対ソ不正輸出ではない』『当庁の所管ではない』とすべて拒否された。近年日本にも NSC ができ、貴官が初代の室長になって米 NSC のカルルッチ大統領補佐官 (国家安全保障問題担当) のカウンター・パートになられ、総理と官房長官に直接報告できる立場にあると聞いて、是非、総理や官房長官に日米安保にかかわる重大事件を報告してほしいと思って来た」

というのだ。「一体どういう事件なのですか」との質問には、「詳細は在日米海軍司令官コシイ少将からブリーフィングさせる」と答えた。

さっそくコシイ少将に面会を求めたところ、同司令官は上からの指示がすでにあったとみえて、待ってました、よく来てくれたという感じで驚くほど率直に詳細を教えてくれた。

「東芝機械が対ソ不正輸出した五軸大型スクリュー機械によりソ連海軍艦船のスクリュー、とくに戦略原潜のスクリューがスカッド型(中途から折れ曲がった羽)になり、発砲(キャビテイション)が減り、スクリュー音がなくなってしまった。これまで日米の対ソ潜水艦対策は、ウラジオストックやハバロフスクから出撃してくるソ連原潜のスクリュー音を採取記録して、その音紋(サウンド・プリント)によりすべてその所在を把握し、米海軍の攻撃型原潜が気付かれることなく追尾し、米ソ開戦となったとたんにすべて撃破してしまうことができる体制にあった(映画 『レッド・オクトーバーを追え』 参照) 。

それがある日、アメリカ近海でまったく突然にSLBM搭載の戦略原潜、アクラ級とシエラ級(6000~7000トン)の各一隻が捕捉され、アメリカ海軍は色を失った。捜査の結果、それは日本の東芝機械がココムに違反して第三国のノルウェーに迂回不正輸出された大型工作機械で製作された直径9メートルの大型スカッド・スクリューに換装されたものと判明し、その事実を東芝下請けの和光交易の『熊谷独』という人物が物証を挙げてCIAに告発してきている。

かつてソ連は、自国の原潜が海中で音楽隊のような大きな音を立てて航行し、米海軍がすべてその音紋を記録しているということを知らずにいた。それがソ連の諜報活動が活発化して、東芝機械に対する大規模な工作が成功して音紋を無効化したのだ。これによって米海軍が被った損害は 300 億ドルに及ぶ」

だからリーガン法務官は「日本政府はこの事件を捜査し、検挙し、再発を防ぐとともに音紋の再収録に全面協力してほしい」と要請してきたのだ。アメリカの NSC(国家安全保障会議)は要員2000 人、年間予算20億ドルである。 対して、1986年に中曽根・後藤田体制が創設した日本の内閣安全保障室は、要員が筆者以下20省庁から寄せ集めた21人、年間予算2億2000万円。

カルルッチ大統領補佐官のカウンター・パートとはおこがましい微力な存在だが、持ち込まれた問題は確かに新設安保室が担当すべき任務である。日本にはスパイ罪、秘密保護法がないため、防諜はおろか、公然たる産業技術スパイ事件でどの省庁も消極的権限争議をしたくなるのは当然といえば当然で、調べてみると、確かにどの省庁も何もやっていなかった。

これは筆者の仕事だと信じた。

さらに、コシイ少将は「そもそもこの事件の発端は、1985 年の海軍一家、ウォーカファミリーのスパイ事件から始まった」と説き起こしてきた。

1985年5月20日、FBIは海軍准尉ジョン・ウォーカーをスパイ罪で逮捕し、あとは芋づる式に、原子力空母ミニッツ乗組員のマイケル・ウォーカー水平(ジョンの息子)、アーサー・ウォーカー元少佐(ジョンの兄)、通信兵曹ジェリー・ウィットワースを逮捕した。

罪状は、米海軍の対ソ潜水艦作戦基地ノーフォーク司令部のSOSUSシステムのデータなどの情報をソ連KGBスパイに売って、ソ連の原潜のスクリュー音を米海軍がことごとく掌握している事実を彼らに教えたことだ。

これに驚いたソ連が、潜水艦のスクリューの消音化のための対外活動を始めたのである。

ウォーカー一家に対する裁判の判決は、(1) ジョン=終身刑 (2) マイケル (息子) =懲役 25 年 (3) アーサー (兄) =終身刑 (4) ジェリー・ウィットワース=懲役 365 年 という厳しいものであった。

東芝機械がココム違反の不正輸出をした機械は 空母オスカー、タイフーン (2 万 5 千~3 万トン) のスクリュー製作のための九軸工作機とアクラ、シエラ、ヴィクター級 (6000~8000 トン) のための五軸六枚羽根の工作機械であった。

1987年6月28日、ときのワインバーガー米国防長官が、この事件について日本の外務、通産、防衛の各大臣・長官と国家公安委員長のいずれも「PooPoo(いい加減)でやる気なし」として中曽根康弘総理に直接抗議し、善処を要請するとして凄い剣幕で来日した。

アメリカは、東芝機械のココム規制違反で本土がソ連原潜のSLBM攻撃にじかに曝されたとして反日感情が高まり、東芝機械が「東芝」と報道されたことから上院議会は包括貿易法案に東芝製品の輸入禁止の修正条項を加えることを可決し、法案は翌年に成立して九四年のココム撤廃まで対日貿易制裁として効力を持ち続けた。

東芝製品ボイコット運動は全米に広がり、政府機関や軍のPX(売店)から放逐され、わずか二千万ドルの工作機械輸出で米国民をソ連原潜攻撃の危険に曝し、米海軍に三百億ドルの損害を与えたエコノミック・アニマルという汚名を日本は着せられた。ワシントンの国会議事堂前で下院議員たちが東芝のラジカセを積み上げてハンマーで叩き潰すシーンがCNNで全世界に放送され、輪結びしたロープを片手に「東芝は絞首刑だ」と叫びながら走り回る議員が映ったが、日本人は何か何だか分からなかっただろう。しかし、ウォーカー一家の厳しい判決を聞き、彼らが終身刑や三百六十五年の刑なら東芝は絞首刑だろうなとうなずけるものがあった。日本人はまったくこういう日米間の危機に気付かなかったのだ。

ワインバーガー抗議使節団が訪日したのは、この大騒動のさなかだった。

筆者は六月二十七日朝、随員だったリチャード・アーミテージ国防次官補とNSCホワイトハウス特別補佐官のジェームズ・ケリー氏から至急会いたいとの電話で、一行の宿舎だったホテル・オークラに呼び出された。会った途端に「週明けの月曜日の朝一番に、ワインバーガーは中曽根総理に会う。ホワイトハウスもペンタゴンも日本政府のPOOPOOな態度に怒っている。外務、防衛、警察、通産、どの省庁もこの重大事件に取り組もうとしない。警察庁も『熊谷独(和光交易の告発者)など知らない。信を置き難い人物の告発で大騒ぎすべきでない』と極めて冷淡である。だから事件の重大性を総理に知らせる人がいない。貴官は治安、防衛、外交、危機管理を初めて司る日本版NSCで、後藤田官房長官直属だ。永年の友情で貴官に四十八時間のリードタイムを与えるから善処されたい」と言ってノン・ペーパーなる外交文書を渡された。

ノンーペーパーとは正規の外交文書ではない大切なメモ書きで、正式の口上書と同様の効果を持つ、インテリェンス・オフィサー仲間の重要文書である。一読して事の重大性が分かった。事件の捜査開始から関係省庁幹部の処罰から、潜水艦探知(ASW)のための音響測定艦の新造、関係大臣の謝罪まで幅広い要求を網羅したもの凄い口上書である。だから言わないことじゃない。官僚どもがみんな逃げるからこんな最悪の事態になってしまったのだ。

しかもこのときは土曜日の朝。月曜のワインバーガーの総理面会まで四十八時間もない。上下直列、飛び越し報告、飛び越し決裁、ニード・トウ・ノウによる危機管理のいやな情報だが、筆者と後藤田さんが逃げたら総理を守る者がいなくなる。後藤田さんの自宅に電話し、緊急のアポを求めた。週末の貴重な休養の時間を乱された老官房長官は不機嫌を隠そうともしなかったが、週末のうちに総理に報告。田村元通産大臣をワインバーガー会見直後に派米し、謝罪することが決まった。月曜日の朝、予算委員会に向かう衆議院のエレベーター内で偶然、田村大臣に会ったがまるで事態が分かっておらず、「なぜ国会中に通産大臣がアメリカに行って謝らねばならんのか。オレはアメリカに『証拠を出せ』というつもりだ」と息巻いている。これは大変だ。謝罪使節が事態を悪化させてしまう。

後藤田官房長官に即報すると「国益のため君が報告して納得させろ」と下命された。予算委員会の真っ最中である。やむなく田村大臣にメモを入れて「エレベーター内でのお話について重要な話がありますのでトイレへ行くといって出てきてください」と連絡した。

トイレに出てきた田村氏に本当の話をすると顔色を変え、「中曽根に言わなければ」と仰る。総理は昨日から知っていますとは言えない。「どうしよう?」とお尋ねになるので、「私が大臣にやったことをなさればいい。トイレに出てきて頂くんです」と助言した。メモを入れると総理が出てきた。トイレで慌ただしく報告し、連れションの形で重要な意思疎通を計ったのである。これが「インテリジェンス」と言うものなのだ。

東芝ココム違反事件は、ほとんど時効にかかったか、かかりそうになっていた。警視庁長官は事件着手に消極的だったが、後藤田長官は長官の頭を飛び越して、ときの鎌倉節警視総監に下命した。陸軍幼年学校出の鎌倉総監は、彼らを「売国奴だ」と断じて、この困難な捜査を引き受け、時効すれすれの二件をとらえて捜査を完遂し、外国為替及び外国貿易法違反で立件した。軽すぎるが東芝機械は企業として罰金二百万円、同社材料事業部鋳造部長に懲役十ヵ月、執行猶予三年、工作機械事業部工作機械技術部専任部長に懲役一年、執行猶予三年の有罪判決を得た。

だが、ソ連原潜のスクリュー音消音と安全保障上の因米関係について東京地裁は判断を避けてしまった。

東芝機械は親会社東芝と伊藤忠商事の強力な斡旋によりソ連への工作機械売り込みに成功したのであって当然、東芝と伊藤忠の社会的政治的責任が問われた。だが刑事責任の追及は届かず、東芝の佐波正一会長と渡里杉一郎社長が道義上の責任を負って退職したが、伊藤忠は瀬島龍三相談役一人が責任を負って特別顧問となる形で終億している。通産省の官僚たちもソ連側との会食に出たり、実験に立ち会ったり、この日米安全保障体制と国益を脅かす一大取引にかなり公的に関与していたことが捜査で明らかになった。中曽根総理も新聞の一面見出しに東芝らは「売国奴」と烈しい批判を踊らせたが、事件処理についてはあまり厳罰主義をとらず、通産官僚については「日本が国として関与していたことにならないように」とし、刑事処分はおろか行政処分の対象にもならなかった。しかし、ノン・ぺーパーで要求されたソ連潜水艦の音紋資料(指紋台帳のようなもの)には海上自衛隊はかなり苦労した。

スリーパー瀬島龍三の不思議[編集]

告発者「熊谷独」の供述や警視庁捜査の結果、不思議な人物が浮かび上がってきた。

中曽根政権ブレーンであり、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務めた伊藤忠商事特別顧問、瀬島龍三氏である。全責任をとらされた東芝の佐波会長にはソ連側に和光交易を売り込む人間関係や影響力があるわけがなく、ソ連側の東芝機械と和光交易受け入れには伊藤忠が大きな役割を果たしていた。

特にソ連シベリアの「誓約引揚者」であった元大本営参謀にして伊藤忠の会長までつとめた瀬島氏をどうするかという問題が起きた。筆者は後藤田長官に「黒幕は伊藤忠の瀬島龍三氏であり、何らかの政治的社会的制裁を加えて然るべし」と意見具申した。ところが、いつもならこういう黒幕的存在にはとても厳しい後藤田氏は

「佐々君は、瀬島龍三氏のことになるとバカに厳しい。中曽根さんの経済問題の相談役だし、なんで瀬島氏の悪口を言うのか」と筆者を叱った。筆者は「私はKGB捜査の現場の係長もやった元外事課長ですよ。瀬島がシベリア抑留中最後までKGBに屈しなかった大本営参謀だというのは事実でありません。彼は、『帰国したら反ソ反共を装い、ソ連の批判を慎み、日本共産党とも接触せず、保守派として成長し、大きな影響力をもつようになれ、そのときKGBが肩を叩くからソ連のために働け』。つまりスリーパーとしてソ連に協力することを約束した、いわゆる『誓約引揚者』です」と申し立てた。

さらに、「私は警視庁外事課ソ連欧米担当の第一係長(警視)という現場をやっていました川島廣守氏(後に内閣調査室長、プロ野球コミッショナー)、山本鎮彦氏(後に警察庁長官、ベルギー大使)の指揮下でラストボロフ事件の残党狩り、落穂拾いをやって、ソ連大使館のKGB容疑者を張り込み、尾行し、神社仏閣、公園などで不審接触をした日本人又は外国人を突き止める仕事を毎日毎晩やっていました。そのような作業の過程で、不審接触をした日本人を尾行して突き止めたのが、当時伊藤忠のヒラのサラリーマン、瀬島龍三氏だったのです。外事の連中は当時から皆知っています」と答えて後藤田長官の注意を強く喚起したのだが……

刑事捜査の面でも広報の面でも、後藤田氏から何の指示もなかった。後藤田氏とは、筆者が内閣安全保障室長を辞めたときにも同様のやりとりをした。

ソ連は国際法に違反して六十万人もの日本将兵をシベリアに抑留し、酷寒の中で強制労働に従事させ、そのために六万人が日本に戻ることなく亡くなった。そんな中、戦友と祖国を裏切り、ソ連の協力者となることを約束し、帰国後「スリーパー」として秘かにソ連のスパイや工作員となっていたのが「誓約引揚者」である。

抑留先の収容所で、KGBやソ連軍の政治将校の手先となった日本の将兵は″アクチブ‘と呼ばれ、・他の日本兵捕虜を洗脳し、応じない者を収容所の屋外で木に縛り付けて死に至らしめた。凍死して首を垂れた姿から「暁に祈る」と呼ばれた残酷なリンチだった。

瀬島氏は極東軍事裁判においてソ連の検察側の証人として出廷した事実もある。捕虜収容所で、「日本人抑留者を前に『天皇制打倒″・ 日本共産党万歳』と拳を突き上げながら絶叫していた」というソ連の対日工作者の証言もある。抑留中、「日本人捕虜への不当な扱いに身を挺して抗議したために、自身が危険な立場になった」と瀬島氏は本人は語っていたが、多くの他の元捕虜らの証言があり、事実ではない。

「誓約引揚者」と接触し、コントロールしていたのが、ラストボロフ事件の主人公、駐日ソ連大使館のユーリ・ラストボロフニ等書記官である。彼がアメリカに亡命して事件が発覚したのち、ラストボロフの供述をとってきたのが当時警視庁外事課長だった山本鎮彦氏で、その調書はラストボロフのスパイ網解明の手掛かりとなった。日本人の名前は三十六人挙っていた。一番驚いたのが、外務省の反ソ反共三羽烏と呼ばれた日暮信則氏だった。欧米局で東欧担当の要職にあり、新関欽哉氏(駐ソ連大使)、曽野明氏(駐ドイツ大使)と並んで、堂々とソ漣や共産主義を批判することで知られていた。すべて自供したのち、日暮氏は東京地検五階から飛び降り自殺を遂げた。

シベリアに抑留された多くの日本兵から瀬島龍三告発の情報が多数寄せられ、ラストボロフ事件では関東軍参謀だった志位正二氏(当時、外務省アジア局弟二課勤務)が「誓約引揚者だ」と自首してきたこともあり、瀬島氏が事件に関わっていたことは限りなく濃厚なのに、なぜ本人のウソが最期まで世の指弾を受けることなく、今日まできてしまったのか、まったくの謎である。筆者は、東芝機械が東芝本社と伊藤忠商事の強力なバックアップでソ連に厚遇されたと聞いた時から、黒幕は瀬島龍三氏であると確信していた。「熊谷独」の供述にも瀬島の名があったと聞いているのに、とにかく不思議な事件だった。

ソ連原潜静粛化との関連性[編集]

輸出の違法性は疑問の余地がない一方で、ソ連潜水艦の静粛性が向上した原因が実際に東芝機械が輸出した工作機械であるというアメリカ政府の主張については否定的に見る者も多い。日本政府は予算委員会における質疑において、一定の因果関係が存在すると考えているものの、具体的な証拠があるわけではない、と答弁している。国防総省の日本部長ジェームズ・アワーも立証する文章は日本政府に提示していないと述べている。

また、アメリカ国防総省が監修した雑誌によると、ソ連潜水艦の静粛性が向上したのは1979年以降であって、これは工作機械が輸出されるより前のことである。当時国防次官補であったリチャード・アーミテージも議会下院軍事委員長に宛てた書簡において、事件の3年前にソ連原潜はすでに静粛化されたスクリューを装備しており、アメリカ軍も対応策を検討していたと述べ、東芝への制裁に反対している。さらに潜水艦の静粛性はスクリューの成型技術のみではなく、原子炉やモーター技術も大きく影響する。

参考文献[編集]

  • モスクワよ、さらば―ココム違反事件の背景(著者:熊谷 独・出版社: 文藝春秋1988/01・ISBN-10:4163420606・ISBN-13:978-4163420608)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]