東組
東組(あずまぐみ)は、大阪の西成に本部を置く暴力団。指定暴力団。
構成員の総数は2011年度の警察庁の報告によればおよそ180。
暴力団の群雄割拠地帯と言われてきた西成地区にありながら、山口組などの大団体の傘下に収まることもなく、その創立からというもの常に独立状態を貫き、更には他団体との縁戚関係の樹立も行わずに来た組織で、そうしたことから“孤高の少数精鋭”などと謳われてきた。“武闘派一門”や“喧嘩の東組”などの異称をもっても知られ、1973年のミナミにおける些細なトラブルに発した山健組との銃撃戦を皮切りに、山口組とは暴力的な対立抗争事件を数次にわたって引き起こしてきた。
来歴[編集]
創立者の東清はもとは“浪花の侠客”として名のあった池田大次郎率いる池田組の系列組織の幹部で、同組の解散に伴い1960年頃に西成を本拠地としてこの東組を結成。当初の人員総数はわずか30足らずであったものの、1973年頃には120名を数えるまでになっていた。1993年の8月をもって暴力団対策法に基づく指定暴力団へ。やがて長年にわたり首領の座にあった東清が2010年の初め頃に引退。時の若頭であった滝本博司が跡目を継承した。
情勢[編集]
本部の所在地は大阪府大阪市西成区山王1-11-8で、大阪府内を専らの活動地としている。同じく西成本拠の酒梅組と並び、本部を大阪府内に置く指定暴力団。その人員総数は2011年度における警察庁の報告によればおよそ180。大阪府警捜査四課の同年度の報告によればおよそ290で、覚醒剤の密売を主な資金源としている。構成員の大部分が大阪出身者で占められている。往時には上層部の多くが西成出身者であったものの、西成出身の構成員は今や少数派であるという。
抗争史[編集]
勢力の伸張を経て有力団体の一となった1973年頃からというもの、東組は他の暴力団組織を相手取った幾度かの抗争事件の当事者となってきた。その代表的なものとしては、山口組ならびに酒梅組とのそれが挙げられる。
対山口組[編集]
1973年9月―大阪・ミナミの繁華街にて所属構成員と山口組系山健組の構成員との間で些細なトラブルが発生。これが互いの本部事務所を銃撃し合うほどの大抗争へと発展した。早期に手打ちが実現したものの、当時の山口組でも屈指の好戦勢力として知られていた山健組を相手に引けを取らない戦闘行動を展開したとして、この抗争は組織の名を世に広く知らしめる結果となった。
1982年の3月にも山口組の二次団体との抗争事件を引き起こし、更に1987年になると、別の山口組の系列組織と半年間にわたって抗争を展開。26件の事件をもって5名の死者と2名の負傷者を出すに至ったその抗争は、のちに“泉州抗争”と題された。
対酒梅組[編集]
1983年 ― 時の関西地方でも屈指の勢力を有していた五代目酒梅組との対立抗争が発生。わずか2ヶ月の間に、大阪のみならず奈良、京都、和歌山、更には熊本や鳥取までをも舞台として、およそ40回にものぼる抗争事件を引き起こした。双方合わせて死者1名、負傷者8名、逮捕者107名。"新大阪戦争”としてマスメディアを通しての注目を広く集める結果となった。
幹部陣[編集]
代 | 組長 | 期間 |
---|---|---|
初 | 東清 | 1960—2010 |
二 | 滝本博司 | 2010—現在 |
- 組長:滝本博司
- 副組長:川口和秀(二代目清勇会会長)
- 若頭:田村順一(三代目森田組組長)
- 本部長:赤松國廣(初代赤松組組長)
- 若頭補佐
- 田中明彦(田中組組長/清勇会若頭)
- 土方基成(総長付/司成会会長)
- 中江常雄(二代目滝本組組長)
- 横山定光 ― 2012年に死去
- 組長秘書
- 藪田等(藪田組組長)
- 宮脇信行(三代目赤松組組長)
- 相談役:渋谷正玄(二代目州平会長)
- 慶弔委員長:土井良一
- 系列組織 2010年発足の二代目体制における傘下組織は総数20ほどで、その3分の1は二代目体制発足に伴う形で新たに誕生。
- 山澤正敬(本家付 三代目森田組本部長)
- 大野大介(本家付 二代目清勇会若頭)
- 呉本公一(二代目清勇会本部長)
- 隈村州男(二代目清勇会若頭補佐)
直系組織[編集]
- 二代目清勇会 - 大阪府堺市
- 三代目森田組 - 大阪府豊中市
- 二代目関谷組 - 大阪府堺市
- 二代目洲平
- 赤松会 - 大阪府大阪市西成区
- 田中組 - 大阪府大阪市住吉区
- 大侠会
- 司成会 - 大阪府堺市
- 二代目赤松組 - 大阪府大阪市西成区
- 二代目滝本組 - 大阪府大阪市西成区
- 二代目久雅会
- 桜井会
- 中島組
- 博龍会
- 青山組
- 稲葉組
- 林組
- 岸田組
- 二代目田村組
- 二代目赤松会