東亜経済研究所
東亜経済研究所(とうあけいざいけんきゅうじょ)は、1940年に東京商科大学に設立された経済研究所。太平洋戦争の開戦後、軍部への協力を自主的に申し出て、研究部長の赤松要以下の研究所員が南方総軍軍政総監部の調査部員としてシンガポールなどの南方占領地へ派遣され、軍政に関与した。戦後、戦争協力者とみなされた所員を追放・解任するなどして人員を刷新し、一橋大学経済研究所に改組された。
設立[編集]
東亜経済研究所は、1940年に東京商科大学に設立された[1]。前年に名古屋高商から東京商科大学の教授となっていた赤松要が研究所の研究部長となった[1]。
赤松や杉本栄一の推薦で同年9月に横浜専門学校から研究所に転任した山田勇は、赤松からの指示で生産指数の作成を研究課題とし、ペンローズ型の生産指数とは異なる、エッジワース 式の生産指数を考案。研究所統計部と協力して日本の内地の農産物についての生産指数を作成し、1942年に『東亜農業生産指数の研究』(山田 1942 )を発表した。[2]
軍部への協力・南方調査[編集]
1941年12月の太平洋戦争開戦後、東亜経済研究所では、赤松、杉本、山中篤太郞の3教授をはじめとする教官が集まって研究方針について議論した結果、参謀本部の中佐だった高瀬学長の弟を通じて軍政への協力を自主的に具申した[3][4]。
1941年(1942年か)9月に研究所の教官が軍に編入されることが決定[5]。南方調査団の編成にあたって班分けが行われ、総合班の班長に赤松、農業班の班長に山田勇、鉱工業班の班長に河合諄太郞、商業班の班長に内田直作、民族班の班長に板垣与一、教育班の班長に長屋有一、衛生班の班長に原島進(慶應義塾大学助教授)、地理班の班長に石田龍次郎が選任された[6]。
赤松以下の要員は、同年12月にシンガポールへ派遣された[7]。山田 (1987 30)によると、軍は調査部に対して当初から「観光旅行にでも来たような奴らだと怒っていた」という。
東京商科大学から派遣された人員は南方総軍(寺内寿一大将)に所属し、南方調査全体を統括することになった。しかし実際には各地域間の調整は、一度シンガポールで会議が開かれ調査事項について打合せをした程度で、ほとんど行われなかった。[8]
着任当初の軍の方針では、民心把握を第一、軍作戦物資の確保を第二、作戦作業は第三とされており[9]、1943年に小田橋貞寿、山田勇、山田秀雄、大野精三郎らはヌグリ・スンビラン州のクアラピラ で農村調査を行い、調査結果を「クアラピラ農村調査報告」として南方総軍に提出した[10][11]。
1944年に調査部は南方占領地全域での家計調査を企図したが、同年中には軍は民心把握よりも軍作戦の遂行や軍需物資の獲得を優先課題とするようになっており、調査の続行を主張した調査部は総軍と対立することも多くなっていた[12]。1944年4月に調査部はマライ軍政監部に転属となった[13]。
家計調査は、マラヤの中でも、シンガポール・ペナンに地域を限定して実施された[14][15]。山田 (1987 35)によると、家計調査は生活実態を把握し、民需物資の調達にも役立てることを目標にしていたが、実際には軍政に反映されなかったようだったという。またジャワでの調査も企図し、当該地域の要員を訪問して協力を求めたが、拒否された[16]。
戦局が悪化した1945年頃には、赤松ら調査部の大部分は、タイピンからクアラルンプールへ移り、シンガポールに残った山田勇ら統計係は、マライ軍政監部から昭南特別市の厚生課に異動になり、昭南疎開本部で疎開の事務を担当した[17][18][19]。
戦後の改組[編集]
戦後、日本の高等教育機関では「審査会」による適格審査が行われたが、大学は自主的に適格審査を行うことが認められ、一橋大学の審査会(委員長:井藤半彌教授)では赤松要以下の南方占領地への派遣者には不合格者はなく、学内に留まっていた金子鷹之助、常盤敏太、米谷隆三の3教授と予科教授の江沢讓爾が追放になった[20]。
しかし経済研究所では嘱託職員から官制の教授・助教授・助手に対して学問上の批判がなされた。このため山田が「身分上の取扱いについては大学の方針に従う」とする書面を作成し、小田橋貞寿、阿部源一(教授)、内田直作、泉三義、山田(勇)、山田秀雄、大野精三郎(助教授)、小山路男(助手)の署名を得て、学長の上原専禄に提出した[21]。また嘱託職員も別途書面を作成し、学長に提出した。
学長と研究所長を兼任していた上原は、半年後(1947年頃?)に大塚金之助教授を後任に選任して研究所長を辞任[22]。このとき大塚は研究所の名称を、世界経済の研究を行うとして「東亜経済研究所」から経済研究所に改称した[22]。
それから半年ほど経過した1947年末に、上原・大塚から身分関係の指示があり、小田橋、阿部、内田、泉、小山は辞職、山田秀雄と大野精三郎は助教授を降格して助手になり、松川七郎(嘱託)とあわせて向後一年間の経過観察という処分になり、嘱託職員もほとんどが辞職することになった。山田は研究所に残され、再建を託された。[23]
それから半年ほど後(1948年頃?)に学長が上原から中山伊知郎に交代し、暫らく中山が研究所長を兼任することになったが、この間に新所長の人選が進められ、戦時中に中山の推薦で研究所嘱託となった経歴があり、当時進駐軍の調査部長をしていた都留重人が後任となった[24]。
(1949年頃)教授として着任した都留は、「(1)古典研究(2)近代経済とソ連経済分析(3)統計」という部門構成を決定し、従来の「研究部長」「統計部長」の呼称を廃して「研究主任」「統計主任」の呼称を採用し、山田勇が統計主任となった[24]。
研究所の人員は、教授が都留のみ、助教授が山田勇のみ、となっていたため、人員の拡充をはかることになり[25]、山田は第1次の人事補充で横浜経専の小原敬士、大蔵省の高橋長太郎、大阪商大の野々村一雄を推薦し採用。第2次の人事補充で物価庁の大川一司、横浜国立大学の伊太知良太郎を推薦し、高橋と共同で篠原三代平を推薦した[24]。
その後、人事補充が進捗し、5部門の講座を開設するに至った[24]。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 山田 1987 17
- ↑ 山田 1987 18-19
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 119-120
- ↑ 山田 1987 22-23
- ↑ 山田 1987 23
- ↑ 山田 1987 24-25
- ↑ 山田 1987 27-29
- ↑ 山田 1987 25
- ↑ 山田 1987 30
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 123-124
- ↑ 山田 1987 32-33
- ↑ 山田 1987 35
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 121
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 124-125。同書は、マラッカを調査対象地域に含めている。
- ↑ 山田 1987 35。同書は、調査部が馬来軍政監部に移されたのは、1945年になってから、としている。
- ↑ 山田 1987 36
- ↑ フォーラム 1998 38
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 135-136
- ↑ 山田 1987 39-40
- ↑ 山田 1987 53
- ↑ 山田 1987 53-54
- ↑ 22.0 22.1 山田 1987 54
- ↑ 山田 1987 55
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 山田 1987 56
- ↑ 山田 1987 138
参考文献[編集]
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- 山田 (1987) 山田勇「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
- 板垣 山田 内田 (1981) 板垣与一・山田勇・内田直作(述)東京大学教養学部国際関係論研究室(編)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6.』東京大学教養学部国際関係論研究室、NCID BN1303760X、pp.115-168