星亨

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星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日1850年5月19日) - 明治34年(1901年6月21日)は、明治時代政治家(「星享」は誤表記)。

生涯[編集]

江戸左官屋として生まれる。父が行方不明となり、母が星泰順と結婚し、星姓を名乗る。当初は医学を志していたが、英学に転向し、何礼之の元で英学を学び、後に英語教師として身を立てる。明治維新の後には陸奥宗光の推挙で明治政府に入り、一時横浜税関長となるが、英国のクイーンを「女王」と訳し、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議に、自説を主張し一歩も譲らず、いわゆる「女王事件」を引き起こし、引責辞任した。辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の法廷弁護士資格を取得した。帰国後は国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍し、明治14年(1881年)には自由党の議員(代議士)となり、政党政治の基礎作りの一翼を担った。

藩閥政治を批判し、明治20年(1887年)の三大事件建白運動に参加し、保安条例で東京を追われ、出版条例違反で投獄される。釈放後の明治25年(1892年)には自らの衆議院議長就任を公約として第2回衆議院議員総選挙に出馬、当選。公約どおり2代目議長に選ばれる。明治26年(1893年)に相馬事件の収賄疑惑によって議長不信任案が可決される。しかし、議長を不信任となったにも関わらず議長席への着席に固執したため、衆議院から除名された。次回選挙で当選し、政界に復帰する。

藩閥政治に対する批判者であったが、非藩閥の陸奥宗光からは引き続き可愛がられ、朝鮮政府の法律顧問や駐米公使を務める。第1次大隈内閣では外務大臣として入閣する予定であったが、首相大隈重信がこれを拒否したために憲政党分裂の原因を作った。第4次伊藤内閣において逓信大臣などを務めた。明治33年(1900年)発足の立憲政友会にも参加、伊藤博文からも信頼を受けるようになる。その逞しい政治手腕から「おしとおる」とあだ名された位だった。

星は、積極財政をすすめて地域への利益誘導をはかり、支持獲得を目指す積極主義という政治手法をとった。一方で収賄などの噂も絶えず、日本の政党政治と利益誘導の構造すなわち金権型政党政治を築いたとされる。

日本裏面史より見れば、三多摩の村野常右衛門、森久保作蔵など「大阪事件」以降の自由党右派の壮士たちを政界に引き入れたことで、たとえ星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には彼の責も大きいと言われる。

東京市議会議長であった明治34年(1901年)、伊庭想太郎心形刀流剣術第10代宗家)により市庁参事会室内で刺殺された。享年51。

エピソード[編集]

  • 明治25年(1892年)11月29日、当時衆議院議長であった星に対する議長不信任案が166対119で可決された。だが、星はこれを「条約改正を支持する自分に対する硬六派国民協会立憲改進党ら)による嫌がらせでやましい所はない」として、これを拒否した(大日本帝国憲法下の議院法では衆議院議長は勅任官の扱いを受けて天皇に任免権があった)。そこで明治天皇に対して星の解任を求める上奏案を152対126で可決した。だが、天皇からは「議院自ら不明なりしとの過失」として衆議院の怠慢を責める勅答が下された(これは、星への不信任を当時外務大臣であった陸奥宗光への間接的攻撃とみた伊藤博文が土方久元宮内大臣に要請して出させたものとされている)。そのため、星は尚も議長席に着席して議長の職務を続けようとした。このため、12月5日には星の登院停止1週間処分の決議が出された。だが、登院停止が切れた12月12日に星はまたも議長席に座ろうとした。そこで12月13日懲罰にかけられて185対92で除名要件である三分の二を超える67%の賛成を得たため、除名処分となり、衆議院議員の資格を失った星は自動的に議長を解任された。
  • 墓所は東京大田区池上本門寺に所在。かつては本門寺境内に星の銅像も置かれていたが、第2次対戦中の金属供出のため、台座を残して撤去された。戦後、遺族により台座は本門寺に寄進され、現在は日蓮上人の像が置かれている。
  • 「星亨とその時代」全2巻 平凡社東洋文庫が、基本的伝記である。近年ワイド版が出た。
  • 数々の汚職疑惑で今も昔も金権政治の権化と評されているが、私生活では慎ましく実直であったと言われる。彼の存命中はもとより現代の政治家でも妾を持つことは珍しいことではないが、女性関係の潔癖さは彼を非難している側でさえも認めざるを得ず、また、家中にいる者は書生を含めて愛情を持って接したと伝えられる。自らの資産形成に対してもあまり意を用いなかったと見られ、暗殺後に明らかになった彼の遺産は1万円余りの借財だけだったという。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]