日航ジャンボ機墜落事故

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事故現場である群馬県多野郡上野村

日航ジャンボ機墜落事故(にっこうジャンボきついらくじこ)とは、1985年(昭和60年)8月12日に、日本で発生した航空機事故である。死者の数は520人で、日本国内で発生した航空機の事故史上最悪の惨事であり、世界的に見ても、テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故に次いで、2番目に犠牲者が多い航空機事故だった(ただし、単独機による事故としては、世界で最も死者が多い航空機事故であった。)。

事故の概要等[編集]

  • 事故発生日:1985年8月12日
  • 墜落時刻:午後6時56分
  • 墜落地点:群馬県多野郡上野村・高天原山(御巣鷹の尾根ともいう)
  • 死者数:520人
  • 生存者数:4人

事故機について[編集]

  • 機種:ボーイング747-SR-46
  • レジナンバー(機体番号):JA8119(1974年に製造された)
  • 機長:高濱雅己
  • 副操縦士:佐々木祐
  • 航空機関士:福田博
  • 出発予定時刻:午後6時0分
  • 到着予定時刻:午後6時56分
  • 離陸時刻:午後6時12分
  • 乗客人数:509人
  • 乗員人数:15人

事故の経過[編集]

1985年8月12日、午後6時12分、東京発大阪行きの日本航空123便は、予定の午後6時の12分遅れで、東京・羽田空港(東京国際空港)を離陸した。機種はボーイング747型機で、「ジャンボジェット」の愛称で親しまれていた。123便の目的地は大阪・伊丹空港(大阪国際空港)である。夏休み中であり、かつ、お盆帰省ラッシュ時と重なっていたことから、機内はほとんど満席であり、乗員・乗客の総数は524人。その中には、歌手や元プロ野球選手などの著名人のほか、数名の外国人もいた。

羽田を飛び立ち、南下した機体は、東京湾上空で西に進路を変え、相模湾上空を飛行。しかし、悪夢の始まりはここからだった。離陸から12分後の午後6時24分、相模湾(伊豆半島の東の沖合)を飛行中の機体(高度は24,000フィートほど)に異変が生じた。突如、機体後方部から爆発音が響き渡り、垂直尾翼の大半が破壊された。また、同時に補助動力装置も失われた。これにより、油圧による操縦は一切不可能となり、機体は操縦不能状態に陥った。機長は「スコーク77」という緊急信号を発表。

機内では一斉に酸素マスクが落下し、不時着に備えて、救命胴衣の着用などについても、乗務員から指示があった。

操縦系統を失った123便は、ダッチロール(機体が左右に激しく動きながら飛行すること)・フゴイド(機体が上下に激しく動きながら飛行すること)を繰り返しながら飛行を続けた。伊豆半島・駿河湾上空を抜けた後は、静岡県焼津市付近から陸地の上空に入る。右手に富士山を眺めながら機体は進む。山梨県大月市付近の上空で、一度大きく旋回した。

その後、東京多摩地方の西で北寄りに進路を変え、30分以上も迷走飛行を続けた機体は遂に、長野県埼玉県との県境付近である、群馬県多野郡上野村の高天原山に墜落した(午後6時56分)。

事故の原因[編集]

123便が操縦不能となった最大の要因は、相模湾上空で機体後部が爆発し、垂直尾翼等を失ったことである。垂直尾翼は、飛行機が安全に飛行するためには必要不可欠なもの。

123便の場合は、機内での気圧を良好に維持する為の圧力隔壁が損傷したことから、その衝撃で垂直尾翼・補助動力装置が吹き飛んだ。

圧力隔壁が損傷した理由については、7年前の1978年に遡る。JA8119(墜落時123便として使用された機体)は、日本航空115便(東京・羽田空港 発 大阪・伊丹空港 行き で123便と同じフライト)として運航され、伊丹空港に着陸しようとした際に、誤って機体の尾部を滑走路に接触させてしまうという、いわゆる「しりもち事故」を起こした。この時、機体を製造した、アメリカ・ボーイングは、JA8119の修理を行ったものの、その修理に欠陥があったことが判明。圧力隔壁に金属疲労が生じてしまったのである。 そして最終的に、(偶然123便として運航中に)圧力隔壁は機内からの圧力に耐え切れず、破壊されてしまったものと考えられる。

また、圧力隔壁が破壊されたということは、破壊部分から機内の空気が抜け出し、急激に気圧が低下する現象、いわゆる 急減圧 が発生したのではないかという推測もあったが、一部ではそれを否定しており(急減圧はなかったとする論)、詳細は不明な点もある。

死者・生存者[編集]

この事故で死亡したのは520人(全て123便の機内にいた人物で、乗客は505人、乗員は15人が死亡した。)。機体の前部から墜落に至ったため、墜落の衝撃がより強かった客室前方にいた乗員・乗客らはほぼ即死であったと推測される。

しかし、機内にいた524人のうち、奇跡的に4人の乗客が生存したのだ。生存者の4人は、いずれも機体後方部に着席していた乗客である(最も墜落の衝撃が少なかった部位と考えられる)。

なお、この事故においては、事故が発生してから墜落の現場が特定されるまで、かなりの時間を要してしまった(正確な地点が把握されるまでには半日以上もかかった)ため、もっと早期に墜落現場が特定されていれば、救助等もいち早く行うことができ、生存者ももっと多数になっていたことが考えられる。