後二条天皇

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後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年2月2日1285年3月9日) - 徳治3年8月25日1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年1月21日1301年3月2日) - 徳治3年8月25日1308年9月10日))。邦治(くにはる)。

系譜[編集]

後宇多天皇大覚寺統)の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女、西華門院基子(実父は内大臣堀川具守)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。

略歴[編集]

弘安9年(1286年10月25日親王宣下を受け、永仁6年(1298年6月27日、冷泉万里小路殿で元服。同年8月10日後伏見天皇持明院統)の皇太子となる。正安3年1月21日(1301年3月2日)、後伏見天皇の譲位を受けて践祚。同年3月24日即位徳治3年(1308年)8月に病を得て、同25日(9月10日)在位7年にして二条高倉皇居で崩御。宝算24。同27日、二条院の加後号として後二条院追号された。

大覚寺統と持明院統との間で皇位継承をめぐる対立が続いていた時期に、邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父・亀山法皇による幕府への強い働きかけがあった。すなわち、伏見天皇後伏見天皇と持明院統の天皇が2代連続したことについて、大覚寺統は後嵯峨上皇の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申立てたのである。即位に際しては、父・後宇多上皇による院政が実現したが、当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」[1]と慨嘆される時世であった。さらに、天皇が在位7年で病没したことやその時点で大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の邦良親王がわずか9歳だったことから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立原則が崩壊することになった。その調整策の結果、天皇の異母弟である後醍醐天皇が中継ぎとして即位し、そして皇位継承への幕府の関与に対する異議申し立てに発する討幕運動へと展開していくことになるのである。

なお、天皇は在位中、嘉元元年(1303年)に後二条院歌合を催すなど、歌会歌合の催行が多く、同3年(1305年)には、自ら『後二条院御集』(原題『愚藻』)を撰集している。また、後宇多上皇の院宣を受けて勅撰集(『新後撰和歌集』)の撰進が行われたが、これは大覚寺統による支配の正統性を誇示する政治的行為でもあった。

在位中の元号[編集]

陵墓[編集]

徳治3年(1308年)8月28日、北白川殿で火葬し、そのまま陵とした。中世に荒廃したが、元禄探陵の時に当所が陵に擬定され、幕末に修補を加えた。なお、分骨所が父・後宇多天皇の蓮華峯寺陵内にある。

脚注[編集]

  1. 増鏡』巻14「つげの小櫛」