待乳山楯之亟(2代目)
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待乳山楯之亟(まつちやま たてのじょう、寛政6年(1794年)‐安政4年10月8日(1857年))は、江戸時代後期の大相撲力士。待乳山楯之丞と表記することもある。最高位前頭6枚目。本名は不明。出身地は武蔵国足立郡野田(現在の埼玉県さいたま市野田)と推測される。粂川部屋・雷部屋所属。待乳山としては3代目。
粂川(矢車福五郎)の門弟として江戸相撲に入門。兄弟弟子に横綱阿武松緑之助・大関手柄山繁右エ門・大関平石七太夫らがいる。
文政2年(1819年)3月、二段目(現在の十両)番付外で武蔵潟伊之助という四股名で初土俵を踏む。
文政8年(1825年)10月、四股名を荒滝伊之助と改める。
文政10年(1827年)3月、年寄・2代目待乳山楯之亟(3代目待乳山)を襲名。同年11月、入幕。
文政12年(1829年)、この年の10月場所を全休したため二段目に番付を下げる。この場所から数年間番付から名前が消えるが、彼が不在の間、越ノ海勇藏(越ノ海灘五郎)という力士が天保2年(1831年)2月に待乳山鶴五郎と改名して相撲を取っていたことから、彼と越ノ海の間で「待乳山」の襲名をめぐって何らかのトラブルがあったと推測される。
天保3年(1832年)閏11月、懸嶋幸之助と四股名を改めて再び江戸相撲に出場。
天保6年(1835年)1月、再び待乳山楯之亟と改名。
天保8年(1837年)1月、引退して年寄専務となる。
安政4年(1857年)1月、勧進元を務める。同年10月8日、64歳で死去。
彼の弟子に、武藏潟伊之助(初代君ヶ濱)や待乳山楯之亟(4代目待乳山)らがいる。
- 幕内成績:4勝17敗1預21休(5場所)
- 幕内勝率:0.190
参考文献[編集]
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。