平忠度

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平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代武将平忠盛の六男。平清盛教盛経盛らは兄。子に忠行がいる。熊野の地で生まれ育ったとの伝承あり。治承2年(1178年従四位上。治承3年(1179年)、伯耆守。治承4年(1180年)、正四位下薩摩守

生涯[編集]

天養元年(1144年)、伊勢平氏の頭領である平忠盛の六男として生まれる。母は藤原為忠の娘。紀伊国熊野地方で生まれ育ったとされており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。

源頼朝討伐の富士川の戦い源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の者の多くがつけていないお歯黒を付けていた為に、見破られて討たれた。忠澄は戦ののち、忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市清心寺に供養塔を残している。

兵庫県明石市には、忠度の墓と伝える「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。また忠度公園という小さな公園もある。

歌人としても優れており藤原俊成に師事した。都落ちの最中、俊成の屋敷へ赴き自身の歌を書いた巻物を俊成に託した逸話が有名である。『千載集』に彼の歌があるが、撰者の俊成は朝敵となった忠度の名を憚り、詠み人知らずとして掲載している[1]。『新勅撰和歌集』以後は晴れて「薩摩守忠度」の名で入選している。

その他[編集]

が「ただのり」であることから、忠度の官名「薩摩守」は無賃乗車(ただ乗り)を意味する隠語として使われている。狂言『薩摩守』で船賃を踏み倒そうとする出家僧が描かれており、かなり昔からの掛詞(今で言う駄洒落)であると知れる。

脚注[編集]

  1. この逸話は『平家物語』巻7「忠度都落」に詳しい。

関連項目[編集]