山田重雄

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山田重雄(やまだ しげお、1931年10月26日 - 1998年2月5日)は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身のバレーボール指導者。全日本女子バレーボールチーム監督を務めた。

晩年は、長年にわたる選手へのセクハラ、株式投資失敗による巨額借金が露呈し、不遇の最期を迎えた。

経歴[編集]

静岡県立藤枝東高等学校東京教育大学卒業。卒業後に教員として赴任した東京都立三鷹高等学校の女子バレーボール部監督として生沼スミエ等を指導し、1963年全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会で優勝。1964年東京五輪女子バレーボールで日本が優勝し、バレーボール人気が高まる中、1965年日立武蔵の監督に転身。東京五輪の大松博文監督のスパルタ式とは異なる理詰めの戦略、相手チームの徹底研究などで知将と呼ばれた。また日本リーグで18回優勝など、高校時代に続いて山田の指導を受けた生沼に続き、白井貴子江上由美中田久美など多くの名選手を指導し、大松の後任となった小島孝治監督が率いたユニチカ・フェニックス(ユニチカ)を抑えて日立の黄金期を築いた。

日立の選手を中心とした全日本では1968年メキシコ五輪で銀メダル、1976年モントリオール五輪で金メダルを獲得した。また1974年世界選手権1977年ワールドカップで金メダルに導き世界初の三冠監督に輝いた。特にモントリオール五輪では、すべての試合で1セットも落とさないストレート勝ちで優勝するという空前絶後の快挙を成し遂げている。山田は1988年ソウル五輪で10年ぶりに全日本女子の監督となったが、同五輪で4位となりメダルを逃した後に全日本監督を退任し、日立の監督に戻った。

1990年代に男子サッカーのプロ化が進み、1993年Jリーグが開幕した流れを受け、バレーボールにもプロ化を呼び込もうとした山田は1994年日本バレーボール協会に対し、自チームの選手をプロ化することで、バレーボールの人気向上を働きかけた。しかし他のチームがプロ化に否定的な姿勢を示し、親会社の日立も自チームの選手のプロ化を許さなかったため、日本リーグはVリーグと改組されたものの、各企業の部活動に所属する選手によるアマチュアリーグという構造が残された。

前後して週刊誌上で山田が選手指導の際にセクハラを行っていると報じられたこともあり、批判を受けた山田は日本バレーボール協会常務理事を退任した。退任時に山田色の排除と称し、山田と関係の深かった幹部達の多くもバレーボール協会の要職から退けられた。更に親会社の日立からも山田、そして選手の大林素子吉原知子が解雇された。このように山田を取り巻く環境が著しく変化し、その求心力が低下する中で山田はチームを追われ、更に株取引の違反で逮捕されるなど、晩年は不遇なものになった。1998年に山田は病死したが、故人の意志により葬儀を親族のみで済ませた後に、バレーボール関係者へその訃報が通知される状況だった。

死後の2006年7月13日には日本バレーボール協会よりバレーボール殿堂(アメリカマサチューセッツ州)入りが決定したことが発表された。

スキャンダル詳細[編集]

日立の名物監督だった山田重雄氏には株投資であけた莫大な借金があり、その穴埋めのためにプロリーグを無理やり立ち上げようとしている。

月刊誌「マルコポーロ」に掲載されたのは1994年の秋のこと。何しろ体育館の監督室にまでパソコンを持ち込んで投資に精を出していた。海外遠征中に株が大暴落し、バレーの指揮どころではなかった。借金は一時16億にも達した。香港株の投資のために遠征する選手の荷物に現金を潜ませて持ち出した。選手に対する性的関係も耳に入ってきた。大林素子ら有名選手のプロ契約や外国人選手の仲介などで資金を得ようとして日立と対立していた。

成田空港で待ち合わせた遠征帰りの山田"監督"は、鞄の中からいくつもの謄本のコピーを出して目の前でヒラヒラとさせた。「こんなに財産がある」というわけだ。「君には5億の借金ができるか。できないだろう。借金は男の勲章だよ」とも言った。

そもそも日立バレー部は山田自身が作ったいわば「山田バレー部」でもあった。

都立三鷹高校の教員だった山田が、女子バレーで高校日本一になった教え子たちを集め、日立の武蔵工場に売り込んで結成したのがその出発である。昭和39年創部当時は日立武蔵バレー部という名称だった。東京五輪の年だったために女子バレーは一際注目される競技種目の一つになった。

平成4年に日立バレー部部長を辞任し、顧問という肩書きに変わったが、「セクハラ疑惑」が噴出した平成6年当時も実質的には総監督に変わりはなかった。この部長の辞任の裏にもやはりある選手へのセクハラ問題があった。選手の親族からの抗議で、日立の本社が家族に山田の引退を約束したのを受けてのものだった。

「山田監督には常にセクハラや金銭問題が付き纏っていた。チームの中に監督の女がいるという噂が広まったり、 昭和47年の白井貴子選手の争奪戦では金銭問題が騒がれました。」そう言うのはスポーツジャーナリストの小泉志津男

小泉は、49年京王プラザホテルで山田と二人で会った時の事を今でも昨日のように覚えている。全日本に選ばれたある高校生の日立へのスカウトにまつわる問題だった。セクハラ、暴力、金の入り交じったものだ。その事実を山田本人に確認するための面会だった。スイートルームに案内されると、山田は口止めのつもりか、3千万円の小切手を差し出したという。小泉が受け取りを断ると、山田は果物ナイフを握り締めては芝居がかった調子で脅かしてみせたり、更にはその場で土下座したという。そんなやり取りは5時間近くにも及んだ。

自他共に「犬猿の仲」を認める小泉は山田をこう振り返る。「山田さんは速攻とコンビネーションバレーを初めて女子バレーに取り入れ、世界一にした功労者。データを重視し、その戦術は非常に細かく、まさに知将と呼ぶにふさわしい名監督です。ところがチームを管理するのに独特の男女観がありました。彼は、チーム内に夫婦以上の者を造っておかなければいいチームは出来ないと考えていた。それがマネージャーであり、コーチ、キャプテンや選手でもあった。彼は男女において肉体関係以上に信頼できるものはないと考えていたようだった」

セクハラ疑惑は、翌年開幕を予定したプロリーグ「Vリーグ」をにらんで大きな波紋を投じた。山田は日立バレー部顧問を解任され、日本バレーボール協会の常務理事も辞任した。

セクハラ騒動に先立って日立では、プロリーグを巡って山田と会社側が対立し、7月に大林、吉原を始め9選手が会社に辞表を提出する騒ぎが起こっていた。選手側のプロ化を求める示威運動だった。

一連のセクハラ騒動は思わぬ外為法違反事件にも発展した。件の山田と二人の選手との香港のホテルでの出来事だったが、実はその渡航目的が怪しかった。

山田が4千万円、他二人が2千万円ずつ、計1億円の現金を手荷物に隠して持ち出したのだ。外為法によって5百万円以上の現金を海外に持ち出す場合は当時の大蔵大臣の許可が必要。山田らの行動は外為法違反に当たる。山田が持ち出した現金は、香港でプロチームを計画していたヤオハンに出資し未公開株「ヤオハンインターナショナル」4万株を購入するためのものだった。

山田はこの一連の騒動でバレー界から去っていった。平成10年2月、1年半にも及ぶ闘病生活の末、腎臓がんで他界。故人の意思を尊重して、49日が過ぎて、はじめてその死が家族によって公にされた。享年66。バレー界で名声を欲しい儘にした大監督の最期はあまりに寂しいものであった。

マルコポーロ報道[編集]

記事が掲載になったあと、ある人から耳打ちされました。

「出所は言えないけど、山田氏がマルコポーロの記事はよく調べてある。反論ができないと言っている」

この記事の後山田批判のタブーが外れ、週刊ポストがセックススキャンダルを追求。年末に警視庁が香港に多額の現金を持ち込んで株に投資した件を問題視して捜 査。捜査当局は記者の質問に「捜査の端緒は月刊誌の記事」。その山田"監督"は既に亡くなった。

山田"監督"と対立していたのが、今回廃部を決めた河西晋二郎・バレー部長。月日の巡るのは早い。

この記事には多くの取材協力者があった。何人もの人が山田"監督"を恐れながらも非難した。世界の頂点にたったこともある日本のバレーボール界は、こうして暴君を葬り去った。しかし、山田帝国の後を運営していける人材はいなかった。冬の時代に誰も力を蓄えていなかった。なんとも虚しい結末であった。

「この組織は駄目だ」

日本バレーボール界の凋落と日立の廃部は、6年前にはもう見えていた。トップの横暴によって混迷している組織は多い。しかし、混迷をそのままにしている組織では、トップだけが悪いのではない。経営破綻したそごうに乗り込んだセゾングループの人間は、社員のレベルの低さに愕然としたといいます。

「トップが悪い」

というだけで行動を起こさない人間は、トップと同罪なのだ。

「裸になれっ!」[編集]

山田監督の女癖が悪いことはチームでの噂として聞いていた。監督に胸を触られた者や、彼のいちもつを触らされた者を始め、試合に負けたのを謝りに行った選手が無理やり押し倒され、関係を持たされた話を本人から直接聞いた。

その時に監督はその選手にこういったという。

「選手と監督がこういう関係にならないから負けてしまう。こうすれば勝つようになる。」

監督と先輩選手の3人で香港に行った彼女は、自分はソファに寝かされ、監督と先輩が一つのベッドで一晩中ごそごそするのを聞かされ続けたという。

そして平成5年10月には、ついに自らも監督のマンションに呼び出される。既に深夜1時に近かった。山田は帰国したばかりで、かなり酒も回っていた。ベッドに横になっていた山田はこう命じた。

「裸になれっ! 」

「えっ、何でですか 」

”教祖”は口答えを許さない。彼は怒った口調で繰り返すだけだ。

「裸になれっ! 」

言われるままに服を脱いだ彼女に彼はむりやりに分け入った。

「先生、私は今までにこんなことは・・・経験もない」

彼女はその後7回に渡って、関係を持たされたという。まして二度目の時彼女は生理であり、3回目の10月26日は監督の誕生日であった。

関連項目[編集]