呂布

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呂 布(りょ ふ、? - 198年)は、中国後漢末期の武将群雄奉先(ほうせん)[1]

最初は丁原、次に董卓、さらに袁術袁紹張楊劉備と各地を渡り歩き裏切りと反逆を繰り返した。最後は徐州で独立した群雄として割拠したが、曹操と劉備に敗れて捕縛され処刑された。

生涯[編集]

丁原と董卓の配下[編集]

并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の出身[1]。生まれつき勇猛で、并州刺史の丁原にその勇猛を認められて配下となる[1]宦官殲滅を図る何進洛陽に諸侯を招集した際、呂布は丁原と共に洛陽に入城する[1][2]。しかし何進は宦官に暗殺され、その宦官らも袁紹により皆殺しにされた。その混乱の中で少帝劉協を保護した董卓が洛陽に入城。董卓は少帝を廃して劉協を擁立しようとしたが、丁原はそれに反対して董卓と対立。董卓は丁原を殺してその兵力を奪うべく画策し、呂布を利で誘って丁原を殺害させた[2]。呂布は董卓の養子に迎えられ、騎都尉に任命された[2]

呂布は董卓にその後も取り立てられ、中郎将、都亭侯にまでなる[2]。董卓は呂布を常に護衛として連れて歩いた[2]。しかし些細な事で呂布に腹を立て、小型の戟で呂布に斬りつけた[2]。呂布は機敏にそれを避けて事無きを得たが、これを機に呂布は董卓を怨むようになる[2]。また呂布は董卓の侍女と密通していたため、この事が露見する事を恐れた[2]

司徒王允は呂布と同郷で、董卓の暴政に頭を痛めていた[2]。そこで同郷の縁で呂布に目をかけるようになり、丁重に扱った[2]。呂布は王允に董卓との確執について漏らしてしまい、王允はこれを利用して董卓を暗殺しようと計画する[2]。王允は同志を募った上で呂布に董卓暗殺を持ちかけた[2]。呂布は確執があるとはいえ養子であるから最初はそれを理由に拒否した[2]。しかし王允は「呂布将軍の苗字は呂であり、董卓閣下ともともとの血縁関係はありません。今はご自分の生の心配で精一杯。父子などといっておれますか」と迫るように説得した[2][3]。呂布は王允に不安を煽られ、そして192年4月、遂に董卓を暗殺した[3]

三日天下と放浪[編集]

董卓を暗殺した呂布は王允と協力して長安において政権を掌握。呂布は新政権において厚遇された。だが董卓の部下である郭汜李傕涼州の軍勢が長安を襲撃してくると一時はこれを破ったが、再度旧董卓軍が攻めてくると遂に敗れて長安を追われた。呂布と王允の新政権はわずか2か月で崩壊した。呂布は部下数百騎を率いて長安から逃走[3]袁術の下に身を寄せたが、袁術は呂布の変節ぶりを憎んで受け入れず、呂布は袁術の異母兄である袁紹の下に身を寄せた[3]

英雄記』によると呂布が袁術・袁紹を頼ったのは自分が袁氏に対して功績がある(洛陽にいた袁氏を殺戮した董卓を殺害したこと)と自負していたためだという。だがそのため、袁紹配下の武将を見くびる行動をしたため、袁紹は密かに呂布を除こうと考えた。呂布が袁紹に洛陽に戻りたいと願い出た時、袁紹は承諾して3000人の武装兵を見送るという名目で派遣した。呂布は異常な雰囲気を気付いて袁紹の3000人を帳の外に留め置き、その注意をそらすために帳の中で鼓や琴を演奏させた。それに外で聞き入っていた袁紹の兵士らはいつしか眠りに落ちてしまい、呂布はそれから帳を出て立ち去った。そのため兵士らは呂布が立ち去った事に気づけず、呂布はそのまま袁紹の下を去った。

その後、呂布は張楊、張邈と渡り歩き、張邈の所にいた際に曹操徐州陶謙を攻めて兗州を留守にした際、兗州を奪おうとした。しかし曹操に阻まれて失敗。新しく徐州の主になった劉備を頼った[4]。『英雄記』によると呂布は劉備に出会った際、敬意を払って接した上で次のように言った。「私と貴方は共に田舎の出身です。私は関東で董卓打倒の兵が立ち上がるのを見ました。ところが私が董卓を殺害して東方に出て来ると、関東の武将で私を快く迎えてくれる者とてなく、誰も彼も私を殺そうとしただけです」と。呂布は劉備を帳の中に招き入れ、妻の寝台の上へ座らせた。その上で妻に命じて丁寧に挨拶をさせ、酒を酌み交わし、食事をもてなした。なおかつ呂布は劉備を弟と呼んだ。劉備は表向きはその通りだと相槌を打っていたが、呂布の言葉に一貫性が無いので内心は不愉快だった。

そしてその劉備から、呂布は徐州を奪った。そして群雄のひとりとして割拠した。

曹操との戦いと処刑[編集]

198年、呂布は劉備を撃破し、再び曹操に対して叛旗を翻す[4]。曹操は配下の夏候惇を劉備の救援に派遣したが敗退[4]。曹操が自ら出馬する。呂布は下邳城に立て籠もって抗戦するが、曹操は塹壕を掘って3か月にわたり包囲した[5]。呂布は勇猛だが無計画で猜疑心が強く、統率力が欠けていた。配下の将軍の気持ちはバラバラになり城内は疑心暗鬼となり、配下の将軍は次々と曹操に降伏した[5]。そして呂布も遂に曹操に捕縛される[5]

呂布は縄で縛られた捕虜として曹操と会見した[5]。この時呂布は曹操に「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ」と嘆願した[5]。しかし曹操は「虎を縛るのだから、きつくしないわけにはいくまい」と返答した[5]。そこで呂布は自分を曹操に売り込むため、「殿が気にされているのは、私ひとりに過ぎないでしょう。今はもう降伏したのですから、天下のことは心配する必要はありますまい。殿が歩兵隊を率い、私が騎兵隊を率いさせたならば、天下を平定するのは訳の無い事」と述べた[5]。曹操も呂布の勇猛は認めていたため、躊躇いの色を見せた[5]。そこに側にいた劉備が、「殿は呂布が丁原、董卓に仕えながら裏切った事実をお忘れか」と述べた[5]。この言葉に曹操が頷いたのを見て呂布は「この男こそ、最も信用できないのだぞ」と劉備に向かって言ったが、曹操は呂布に死刑を命じた[5]。呂布は縊り殺された[5]

人物像[編集]

呂布は弓術と馬術に優れ、抜群の腕力を有していたため『飛将』と呼ばれて恐れられたという[2]

呂布の乗馬は『赤兎』と名付けられており、当時の人々は「人の中には呂布という男がおり、馬の中には赤兎という天下の名馬がいる」と語り合ったといわれる(『曹瞞伝』)。

呂布の部下に『陥陣営』の異名を取る名将・高順がいた。高順は軽率な行動をとり、優れた意見や知恵者を用いない呂布を常に諌めていた。呂布は高順の忠義は認めていたがその意見を採用する事はできず、呂布の狭量を示している逸話となっている。

小説『三国志演義』においては三国志最強の武将として描かれ、劉備・関羽張飛が3人がかりで一斉にかかっても互角の勝負を演じている。曹操軍の許褚典韋が同時にかかってもあしらうほどの強さを見せて曹操を恐れさせている。三国志関連の小説やゲームなどでは三国志最強の武将として描かれている。

呂布が登場する作品[編集]

アニメ
人形劇
テレビドラマ

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 伴野朗『英傑たちの三国志』、P230
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 伴野朗『英傑たちの三国志』、P231
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 伴野朗『英傑たちの三国志』、P232
  4. 4.0 4.1 4.2 伴野朗『英傑たちの三国志』、P233
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 伴野朗『英傑たちの三国志』、P234

参考文献[編集]