千鳥ケ淵戦没者墓苑
千鳥ケ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)は、東京都千代田区三番町にある「無名戦没者の墓」である。第二次世界大戦の折に海外で死亡した日本の軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置するため、1959年(昭和34年)につくられた。「千鳥ヶ淵」とも表記される。
概要[編集]
千鳥ケ淵戦没者墓苑の概要は以下の通り。
- 名称:千鳥ケ淵戦没者墓苑
- 性格:国が維持管理する「無名戦没者の墓」
- 管理:環境省千鳥ケ淵戦没者墓苑管理事務所
- 所在:東京都千代田区三番町2
- 面積:1.6ha
- 施設:六角堂、休憩所、御製の碑など
- 安置戦没者数:348,406名(平成13年5月現在)
- 六角堂は納骨堂。中央に古代豪族の寝棺を模した陶棺が置かれる。地下に、主な戦域別(本土周辺、満州、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋・ソ連)の6部屋に分けた地下室を設け、鋳鉄製納骨壺に遺骨が安置される。
- 「御製の碑」には、墓苑竣工時に賜った
- 維持奉賛のため設立された財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会(会長:宮下創平【自由民主党元代議士、元厚生大臣】)が、清掃等維持管理に協力している。
- 例年5月に厚生労働省主催の拝礼式が、秋には財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会主催の秋季慰霊祭が行われる他、一年を通じて各種団体の慰霊行事が行われる。施設自体は特定宗派の宗教性を帯びないため、仏教・神道・キリスト教等の各種団体が行事を行う。苑内で行事を行う際には、環境大臣の許可を要する。
- 一般の拝礼は通年。公開時間は、夏(4月から9月)は午前9時から午後5時、冬(10月から3月)は午前9時から午後4時。
沿革[編集]
多くの日本人は、その宗教観から遺骨を重視し、また、外国で斃れた者の遺骨は故国故郷に安置して慰霊すべきと考える。
第二次世界大戦により、海外で死亡した日本人(海外戦没者)の数は、約240万人(軍人軍属・約210万人、一般邦人・約30万人)に及ぶとされる。終戦後、海外戦没者の遺骨は、復員者により持ち帰られ、あるいは、アメリカ軍から送還された。さらに、連合国軍による占領統治からの独立を果たした1952年(昭和27年)4月頃から、日本政府も海外戦没者の遺骨収集を開始した。これら海外戦没者の遺骨のうち、身元の判明した分については遺族に引き渡された。しかし、身元不詳の遺骨については厚生省(遺骨収集業務を所管)の本省庁舎や市ヶ谷庁舎に仮安置され、その増加につれ、安置・慰霊方法の確立が求められた。
政府は、終戦後早くから、海外各国にある「無名戦士の墓」のような慰霊施設の建設を企図していた。独立後、その動きは、日本遺族会・日本宗教連盟・海外戦没者慰霊委員会・全日本無名戦没者合葬墓建設会等の諸団体の活動や身元不詳遺骨の増加もあって活発になる。公的な慰霊施設建設については、日本国憲法が定める政教分離の原則との牴触も懸念されたが、内閣法制局・厚生省・文部省等による検討の結果、支障なしとの結論に至る。諸団体の意見を聴取し、関係機関や有識者による検討を経た後、1953年(昭和28年)12月11日、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡しできぬものを、国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持管理する」との方針を閣議決定する。
その背景には1953年、来日したニクソン アメリカ副大統領が靖国神社参拝を断ったという経緯もある。
この閣議決定の後も、施設の名称・性格・敷地等について各方面から様々な意見が交わされた。1956年(昭和31年)11月には千鳥ヶ淵の宮内庁管理地に敷地が定められ、1958年(昭和33年)7月に着工、1959年(昭和34年)3月28日に竣工した。
この日、厚生省主催の竣工および追悼式が執り行われ、昭和天皇と香淳皇后が臨席し、内閣総理大臣等が参列した。
なお、墓苑を管轄する千代田区は千鳥ケ淵を「墓地、埋葬等に関する法律」上の“墓”として認めておらず(墓地であれば個別埋葬を要する)、法的性格は“倉庫”“保管庫”に過ぎない事が2001年に発覚した。
拡充計画[編集]
2006年(平成18年)7月、自由民主党の中川秀直・政調会長は、千鳥ケ淵戦没者墓苑の周辺にある国有地も取り込み、墓苑を公園のように拡充・整備する計画があることを示した。
靖国神社問題が過熱した以降、戦争責任者であるA級戦犯を合祀し続ける靖国神社に代わる新たな無宗教追悼施設の必要性を訴える声が増えた為、この拡充計画は千鳥ケ淵戦没者墓苑をアーリントン国立墓地のような無宗教追悼施設に生まれ変わらせる事が目的だと見られている[1]。